2007年1月26日 (金)

フリードマンの日

1月29日はフリードマンの日(Econbrowser経由)。

Milton Friedman Day                                                  http://www.miltonfriedmanday.org/

単なる報告でございます。深い意味はございません。

ただ何となく祭りの気配が漂ってくるわけです。何かを始める(再開する?)またとない機会のような気がするんです。何となく。

続編書くなどもってのほかじゃ!!

どうぞよろしくお願いします m()m。

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2006年10月 9日 (月)

祝・フェルプス

2006年度のノーベル経済学賞(正式名称は以下略)は「マクロ経済政策の異時点間にわたるトレードオフの分析」に多大なる貢献をなしたE.フェルプス氏に授与されることが決定いたしました。

The Royal Swedish Academy of Sciences has decided to award The Sveriges Riksbank Prize in Economic Sciences in Memory of Alfred Nobel 2006 to

Edmund S. Phelps(Columbia University, NY, USA)

“for his analysis of intertemporal tradeoffs in macroeconomic policy”.

http://nobelprize.org/nobel_prizes/economics/laureates/2006/press.html

オールド・ケインジアンの黄金時代=1950~60年代、フィリップスカーブ(=インフレ率と失業率との安定的なトレードオフの関係)は政府による総需要管理政策(=ファインチューニング)に基づく経済安定化のための後ろ盾として・・・・やめた。私にゃニッチあるいはただ乗りがお似合いです。

まずは海外ブログの反応をご紹介(後日補充予定)。

Marginal Revolution(by Tyler Cowen);

Edmund Phelps -- Today's Nobel Prize in economics http://www.marginalrevolution.com/marginalrevolution/2006/10/nobel.html

Greg Mankiw's Blog (by Gregory Mankiw);

The envelope, please       http://gregmankiw.blogspot.com/2006/10/envelope-please.html

Phelps on Capitalism       http://gregmankiw.blogspot.com/2006/10/phelps-on-capitalism.html

Dynamic Capitalism(by Edmund Phelps;マンキューブログ他で取り上げられているフェルプスのWSJへの寄稿文)          http://www.opinionjournal.com/editorial/feature.html?id=110009068

macroblog(by Dave Altig);

A Nobel Clarification http://macroblog.typepad.com/macroblog/2006/10/a_nobel_clarifi.html

William J. Polley(by William Polley)

Phelps receives Nobel  http://www.williampolley.com/blog/archives/2006/10/#000699

Justice for the entrepreneur  http://www.williampolley.com/blog/archives/2006/10/#000700

EconLog(by Arnold Kling);

Phelps and the Nobel http://econlog.econlib.org/archives/2006/10/phelps_and_the.html

The Austrian Economists(by Peter Boettke);

Nobel for Edmund Phelps http://austrianeconomists.typepad.com/weblog/2006/10/nobel_for_edmun.html

Mises Economics Blog(by Frank Shostak);

Did Phelps Really Explain Stagflation?                http://www.mises.org/story/2351

日本のブログも負けていません(お二人のどちらかが世界一の速さでエントリーしたことはおそらく間違いないと思われる)。

Economics Lovers Live(by tanakahidetomi);

ノーベル経済学賞だよ、全員集合  http://d.hatena.ne.jp/tanakahidetomi/20061009

日々一考(ver2.0)(by econ-econome);

ノーベル経済学賞2006年受賞者                            http://d.hatena.ne.jp/econ-econome/20061009/p2

フェルプスの話題じゃないですけどもノーベル賞ついでに。「彼 or 彼女にはノーベル賞獲っといてもらいたかった」(=「選考委員会がちんたらしてる間にどれだけの該当者がこの世を去ったことか・・・」)。

Cafe Hayek(by Don Boudreaux);

They Should Have Gotten the Prize (Again)http://cafehayek.typepad.com/hayek/2006/10/they_should_hav.html

受賞理由の一つである自然失業率仮説あるいは期待修正フィリップスカーブ(=フィリップスカーブを短期/長期に区別)に関しての詳しい議論は、『経済思想の歴史』の該当箇所および銅鑼先生のご説明を参照のこと。

もう一つの受賞理由、「the desirable rate of capital formation」 across generations(=黄金律)ならびに新技術の普及と経済成長に対する人的資本(human capital)の重要性への早くからの注目、に関してはコールズ研究所のHPにて幾つかの論文が読めると思ふ。

あとフェルプス関連で面白そうな論文を1つ2つほど。

Philippe Aghion, Roman Frydman, Joseph Stiglitz, and Michael Woodford、“Edmund S. Phelps and Modern Macroeconomics(pdf)”

この論文は『Knowledge, Information, and Expectations in Modern Macroeconomics: In Honor of Edmund S. Phelps』に所収されているもの。まだ読んでないんで紹介するのはちょっとばかり気が引けるんですが、

Michael Woodford、“Imperfect Common Knowledge and the Effects of Monetary Policy(pdf)”

も同書に所収。

ダウンロードしたきり未読状態でほったらかしにしていた

Edmund S. Phelps、“For a More Insightful Macroeconomics:What Departures Would be Reguired?(pdf)”(Joseph E. Stiglitz Festschrift: Economics for an Imperfect World -A Conference for Joe Stiglitz's 60th Birthday-

も今回をよい機会として目を通しておくことにしよう。

(追記)自然失業率仮説に関するフェルプスの論文。コーエンが既に紹介してますけども。

Edmund S. Phelps、“The origins and further development of the natural rate of unemployment(pdf)”(in Rod Cross(編)『The Natural Rate Of Unemployment, Reflections On 25 Years Of The Hypothesis

Edmund S. Phelps and Gylfi Zoega、“The Rise and Downward Trend of the Natural Rate(pdf)”

フェルプスの最近の論文はこちらからダウンロード可。

ルーカスの受賞から遅れること10年、フリードマンの受賞からは30年の遅れ。フェルプス先生の長年の苦労に報いるためにも、・・・明日は朝一で図書館に向かおう(Edmund S. Phelps(編著)『Microeconomic Foundations of Employment and Inflation Theory』 を借りてくるのです)。

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2006年5月 5日 (金)

プチ・西部翁ブーム<続報>

続報ですよ。ただ乗り企画第二弾ですよ。韓リフ先生、梶ピエール先生、econ-economeさん諸氏の心温まるご協力(?)に感謝でありますm()m。

不肖hicksianのmixi日記より。

『経済倫理学序説』 読みました。観念と事実の、ミュートスとロゴスの、日常(=パン)と非日常(=サーカスあるいは遊び)の、自由と計画の、エトセトラエトセトラ・・・一見すると背反する価値の間に平衡を保つ(単に折衷するというのではなくて)ことの必要性(あるいはその困難なさま)がケインズとウェブレンの著作・生涯を参照しつつ論じたてられております。読み進めている途上で間宮陽介著『ケインズとハイエク』を思い出しましたね~。ヤコブソンの言語障害の議論は確か『大衆への反逆』に所収されてましたよね。これも読んでおこうっと。

興味深く読んだ部分を少しだけまとめ。ハーヴェイロードの既定観念(=イギリス帝国の安定を所与の前提と考えること、知的貴族の説得と指導の必要性の認識)がケインズをとらえて放さなかった諸要因について。

1.ケインズの個人的な気質としてのエリート意識

2.“上流階級の社会主義”に多少とも染まっていたため(=社会的公正を追及する態度が備わっていた=公共善の実現のために奔走することを当然のことと考えていた)

「単なるエリート意識だけではケインズにおけるような賢人支配の傾きは出てこない。エリート意識は孤高の隠遁者という形においても満たされうるからである。公共善もしくは共同善の存在をナイーブに肯定する態度がつけ加ったとき、エリート意識は指導者意識に転化する」(p55)

3.活動主義の思想

以下、上掲の内容のない日記とはうってかわって怒濤の、かつ濃密なコメントの嵐(若干1名除く)。前回以上に責任無編集な姿勢(=責任を持って可能な限りコメントに手を加えない姿勢)を貫きたいと思います。

田中版西部理論が産声をあげる。

韓流好きなリフレ派  『ケインズ』と『知性の構造』を読了w ←このwは何?。
生きるとは意味の葛藤、価値の葛藤という異なれる二項の葛藤の「平衡」と見つけたり、だそうです。
「平衡」としての「慣習」。「慣習」の中には正気も狂気も、そして合理も非合理な要素もあるがそれらを「平衡」しているのがまさに「慣習」たるゆえん。ケインズの経済学の一番面白いところと西部が思っているのは、ケインズからの次の引用ではないでしょうか。

「完全雇用を備えるのに十分なほどの高水準の有効需要を維持するに当たっての諸困難は、慣習的でかなり安定的な長期利子率が気まぐれで高度に不安定な資本の限界効率と結びとくことから生じる、このことは読者にはいまや明白なはずである」。

資本の限界効率へのマイナスのショックは不確実性ゆえで、このような不確実性への対処として慣習が存在するゆえに、不確実性を「慣習化」(これは田中の表現ね)してしまうことに有効需要不足の長期的持続の根源がある、といえる。もちろんこのような不確実性への「慣習」の対応は社会をさらなる不確実性に招くために「慣習」自体の「平衡」作用は著しく損なわれてしまう。だが「慣習」自体がそもそも西部にあっては社会の合理的側面と非合理的側面の「綱渡り」的な性格を有するためにそのような事態が起きても不思議ではない。そのような「慣習」の非平衡化を防ぐために、ケインズは投資と貯蓄の社会的調整=つまりは「慣習」の政策的平衡化を説いたとみなされるだろう。
例えば『知の構造』ではこのケインズ解釈とは違う局面(精神の局面)で、次のように平衡化が説かれている。

「漸進主義とは、深刻な心理的葛藤に直面したとき、それらを平衡あるいは総合させるべく慎重な態度をとることから必然的に要請されるものだ」。

コンサバで日和見 違)。つまりケインズの貯蓄と投資の社会的調整を精神の場でも漸進主義(葛藤の調整)として表現しているわけである。ケインズ主義が漸進主義ともいわれる所以ともいえるかもしれない。 

韓流好きなリフレ派  つまり西部の『ケインズ』が面白いのは、不確実性による資本の限界効率へのマイナスのショック が、「慣習」を通じて長期利子率に反映されて、(西部は書いていないが)流動性の罠に陥るような有効需要の長期持続の可能性を暗示しえたこと。
この「慣習」として西部はもちろん「貨幣」をとりあげているわけで、不確実性ショックが貨幣という「慣習」によって調整され、それが社会そのものの平衡をかえってあやうくするような形として再「慣習」化されてしまう(つまり貨幣バブル=デフレの長期持続)。この貨幣バブルを平衡化させるには、政策的で漸進的な調整が必要である、というふうに西部理論を田中風に解釈できる。
さらに付け加えるならばそのような政府の貨幣バブルを正す再平衡化はファインチューニングともいえ、さらに市場の「慣習」と交渉・コミュニケーションをしながら平衡化への改善を図るという意味では、現在のインタゲも田中版西部理論(笑)も有効性を主張できるだろう。
流動性の罠の脱出や中銀の金融政策全般における市場とのコミュニケーション(市場とともに慣習を漸進的に形成すること)の有効性を説いた専門論文としては以下を参照。

Central-Bank Communication and Policy Effectiveness(pdf)” [Publication draft of paper presented at FRB Kansas City Symposium on “The Greenspan Era: Lessons for the Future,” Jackson Hole, Wyoming, August 25-27, 2005]

岩井克人先生(第3弾のもう一人の主役?)の登場です(ヒックスもちょっとだけ顔を出します)。

econ-econome  西部理論の核は動態的側面に内在する不確実性のリスクを克服する要素としての「慣習」の必要性、相互の信頼関係の醸成の必要性の主張ですよね。彼に倣って述べれば「生者の資本主義」ではなく「死者の資本主義」、そして過去の歴史から得られる反省からもっと学ぶべきかもしれません。

岩井克人氏の「21世紀の資本主義論」でも、貨幣の持つ不安定性、国際化による「差異」の消失が市場経済の不安定要因となりうる事などが述べられていて、西部理論が浮かび上がらせる「貨幣の不安定さ」の認識は同一だと感じました。ただ、岩井氏の場合はそこからハイパーインフレの危険性に話が飛んでいく訳ですがw

岩井理論に基づけば、基軸通貨国である米国の貨幣に対する信認が失われる事(ハイパーインフレ)こそ危機だと書かれていますが、現状は安心といった所でしょうか。

韓流好きなリフレ派  岩井氏の『不均衡動学の理論』というのがありますが、あれは何度挑戦しても途中で根負けしてしまうのでこれを機会に読もうかしら。
西部はあと知識人論をいくつか読もうかと思います。例の東大教養学部騒動に関連して、村上泰亮なんかも書いてますよね。 

hicksian  前回は完全なる傍観者でしたので今回はちょっとだけでも(自らの非力を省みずに)発言者として参加いたしたい所存。まずは引用(『経済倫理学序説』より)。

「ケインズはこうした事柄(いくつかの経済変数に硬直性あるいは粘着性があるということ;引用者)を、市場のマージナルな機能障害として捉えたのではなく、むしろ市場機構の存立条件とみなしたのだ、と私は思う。換言すれば、経済の秩序は、それを取巻く社会心理や社会制度の慣習的な安定性によって、保たれるということである。」(p78)

経済外的な要因(=貨幣賃金の硬直性)によってこそ貨幣経済はその不安定性(累積的インフレ・デフレ)から救われるのである、との岩井不均衡動学論の主張と似てなくもない。しかしながら、先の引用のすぐあとで

「この秩序は、しかし、根本的な矛盾をはらんだままの秩序である。なぜなら、社会の慣習的な圧力によって市場価格の変動域がせばめられれば、需給一致の均衡価格が成立しないかもしれない。たとえば、賃金が硬直的なら失業が発生するかもしれない。反対に、均衡価格が易々と成立するとすれば、それは社会の慣習が弱まったことの結果なのかもしれない。・・・社会的慣習と経済的競争のあいだには、互いを異物として排除し合う可能性があるのである。」(p78~79)

と述べられているわけですが。

西部翁の小泉構造改革路線への反発は、構造改革(西部的に言うとアメリカ流の個人的自由主義と技術的合理主義を推し進めることを目的とした徹底的な規制緩和路線)は慣習の非平衡化を促進するものであるとの認識からきているのでしょうかね。

「クリエイティブ・デストラクション(創造的破壊)の概念はあきらかに誤用されている。その概念は、破壊のなかから創造が生まれる、というバクーニンもどきのことをいっているのではない。新たな創造への活力というものが人々のうちにまずあって、その創造的活力が具体的に発揮されることにより、古い制度が破壊されていく、それが創造的破壊ということなのだ。それにもかかわらず、たとえば我が国の「失われた90年代」では、まず旧弊を破壊せよ、そうすれば新規の創造が生まれると囃されている。」(『保守思想のための39章』(手元にある西部翁コレクションの中で一番新しい本です)、p175)

econ-econome  恐れをしらずにコメントをw
ふむふむ・・西部理論は社会的慣習と経済的競争の間の関係を異物として排除しあうものではないか、という認識なのですね。経済的効率性を追求すればそれは慣習が弱まっている事を示唆しているかもしれない・・と。

経済的競争と社会的慣習との力関係の度合いによって成立する均衡(不均衡)をどのように評価すればよいのかといった話を考えていくと、中々興味深いですね。新古典派総合っぽい話になるんでしょうか。もしくは田中先生が先にコメントされた経済政策の話に繋がっていくんでしょうかね。

韓流好きなリフレ派  外的なショックに対して、岩井氏のようにうまく社会的慣習がショックを吸収して社会の平衡化をもたらす場合もあれば、ケインズや西部氏の指摘したように短期的なショックへの社会的慣習の対応そのものがかえって非平衡化をもたらすということもあるのでしょう。

西部氏の議論を読んでいると奇しくも 笑 私が去年(構想したのはもう10年前)、経済学史学会という物好きな(でも面白い)学会で報告した三木清と笠信太郎の議論に極めて似ているな、と思いました。

自作自演のようですがw以下がそのときのファイルです。
http://society.cpm.ehime-u.ac.jp/shet/conference/69th/69paper/226tanaka.PDF

この論説の4ページ目の図表1の解説にもなりますが、このレジュメの「制度」は上の西部の議論を流用して「資本の限界効率へのマイナスのショック」と読み替えて、「組織」は「社会的慣習」と読み替えてみます。三木では「組織」(西部の「社会的慣習」)は、合理的なものと非合理的なものの統一、またはロゴスとパトスの統一として表れています。西部的な二項対立の坩堝としてあるわけです。で、資本の限界効率へのマイナスのショックという環境に応じて、この「組織」=「社会的慣習」は適応していくわけですが、上の岩井と西部の比較のように成功すれば「成果」をあげるのですが、失敗すれば「不安の増産」をもたらします。この場合、この成否は人間論的な次元(西部の『知性の構造』のレベル)で、適応への成功=「平衡化」すれば、その適応の担い手たる主体は「全人的テクノクラート」としてあらわれ、失敗すれば「小人的テクノクラート」としてあらわれます。この環境の変化への組織=「社会的慣習」の適応の成否を握るのは、「社会的慣習」の一部である「技術」がうまく実行されるかどうかです。技術の担い手なのでテクノクラートですが、実際のイメージですと「官僚」(日銀マンw)でしょうか。

いささか単純なシェーマ化ですが、こうみると西部氏は戦前の「近代の超克」路線たる三木や笠の後継としての位置にいるようにも思われますね。

小泉の構造改革を西部氏は批判していますが、実はその手法そのものは開発主義的な発想、産業政策的な発想にきわめて近い位置にあるのかもしれません。三木や笠がそうだったように。

あと西部氏の強調する知識人の役割ですが、まさに上の三木・笠の図式での「全人的テクノクラート」か「小人的テクノクラート」か、という論点と密接になっているのかもしれません。少なくともすでに多くの著作を読んだ村上泰亮はそうみなしてもいいでしょう。西部はいかに? それはこれから読みますが。 

梶ピエール  西部翁とはちょっと離れますが、岩井克人の資本主義論や『不均衡動学』の話が出てきましたので、それに関して少し。
岩井氏の資本主義論、特に最近の会社論はシュンペーターの影響が濃厚なわけですが、それについてはhicksianさんの以下のエントリがここでの話にも関係しており、参考になるかと思います。
http://econ.cocolog-nifty.com/irregular_economist/2005/07/hicksian_50b6_1.html

で、『不均衡動学』ですが、僕も学部時代に読もうとして挫折していますがw、後で考えるとヴィクセルをきちんと理解しないであの本を読もうとするのはやはり無理だったのではないかと。それくらいケインズというよりもむしろヴィクセルが理論の基礎になっている本ではなかったかと思います。
で、そのヴィクセルの累積過程が「不均衡過程」でもあることの丁寧な説明を行っているのがほかならぬヒックスだったりします(『経済学の思考法』第Ⅲ章「貨幣的な経験と貨幣理論」2ヴィクセル)。もちろん、hicksianさんがこれを見逃すはずもなく、以下のエントリがもろその辺のことを扱っており、これも大変参考になります。
http://hicksian.cocolog-nifty.com/irregular_economist/2006/04/rise_and_rise_a_a14f.html

ただ、ここで紹介されているのは金利の変化に対する資本財市場と消費財市場の反応の差から生じる「不均衡過程」ですが、ヒックスの本でそのすぐ前に出てくる、期待インフレ率の調整に一定の時間がかかることからやはりおなじようなメカニズムが生じるという「不均衡過程」の説明も大変興味深いものに思えます。
もし今度岩井氏の本を読むときには、この辺の議論を頭に入れつつ読んでいくと多分理解できるんではないか…との甘い期待を抱いているわけですが、どんなもんでしょうか。 

梶ピエール  あと西部氏の著作で今僕が読んでみたいのは彼のアメリカ滞在記である『蜃気楼の中へ』ですね。自分が今住んでいて感じることですが、アメリカの中でもバークレーという街ほど西部氏に似合わないところはないような気がします。「伝統」とか「保守」という言葉をとにかく毛嫌いする風潮が強いところですからね。なんでわざわざこんなところを留学先に選んだんだろう?個人的には西部氏の反・経済学的傾向が加速したのはこのときの経験が大いに関係しているのではないかとにらんでいます。

…というわけで早速「復刊ドットコム」に一票投じてきました。
http://www.fukkan.com/vote.php3?no=30212 

hicksian  >『不均衡動学の理論』
実は私も途中で挫折w。古本市場にもなかなか出回っていないようでして、挫折して以降今日まで通読する機会を得ておりません・・・orz。コールズ研究所のHPより関連論文がダウンロード可能ではあるようですが。http://cowles.econ.yale.edu/P/au/d_ij.htm#Iwai,%20Katsuhito(追記;Katsuhito Iwai、“Disequilibrium Dynamics; A Theoretical Analysis of Inflation and Unemployment”の全文がダウンロード可能!ですってよ。http://cowles.econ.yale.edu/P/cm/m27/index.htm

>期待インフレ率の調整に一定の時間がかかることからやはりおなじようなメカニズムが生じるという「不均衡過程」の説明
「擬似的な自然利子率」と「真の自然利子率」の乖離の議論でしょうかね(p85~90、特にp85~86)。この議論の面白いところは金融政策を一時的/持続的なものに分別したうえで、「擬似的な自然利子率」が「真の自然利子率」に一致するためには将来の価格期待を変更させるほどに金融政策が持続的である必要あり(将来価格の上昇を保証するほど金融緩和政策が将来にわたって続く)、と読み替え可能であるという点です。例えば金融緩和が一時的なものとして理解されていれば、将来の期待価格が不変である一方現在の価格は上昇するために「擬似的な自然利子率」は「真の自然利子率」を下回ることになる。「真の自然利子率」>市場利子率ではあっても、「擬似的な自然利子率」=市場利子率である限り(=将来の期待価格が不変である限り)金融緩和の効果は小さなものとしかならない。将来の期待価格が上昇する(=将来にわたって金融緩和が持続される)と期待されるのであれば、「擬似的な自然利子率」は「真の自然利子率」に向かって上昇していく、つまりは「真の自然利子率」=「擬似的な自然利子率」>市場利子率となる。「擬似的な自然利子率」が「真の自然利子率」に一致した状況において市場利子率が「真の自然利子率」を下回っているならば、その後は累積的なインフレが発生することになる。累積的(インフレ・デフレ)過程は将来期待の変更を伴って初めて進展可能なものとなるということです。

『経済学の思考法』第Ⅲ章「貨幣的な経験と貨幣理論」には他にも色々と興味深い議論が散見されまして、例えば4節の「われわれ自身」(1970年代のスタグフレーションの解釈を意図した議論)と題された部分における「産出量の供給曲線」(インフレ率と実質GDP成長率が二次元図上で表現されたもの)は「自然失業率の成長循環仮説」(田中先生命名)の議論の先取りと読めなくもないように感じられます。 

銅鑼衣紋さんのコメント(経済学を勉強する過程で印象深かった書籍(番外編)-「あの人」について-日々一考)参照)を巡って。

韓流好きなリフレ派  econ-economeさんのところアクセス集中でずっと見れなかったのですが、銅鑼衣紋氏が書いてたんですね。彼だとああいう率直な意見になるでしょうね。基本的に小室『危機の構造』に感化されて(それはすでに書きましたが西部と同じ理論系列)、その後にウィーン学団や『社会科学の神話』を読んで、社会科学版の『知の欺瞞』の可能性やパーソンズの機能主義の問題性に自覚的になったわけですから、よくわかる発言ですね。

稲葉さんたちの『マルクスの使いみち』は前半は80年代からの西部的零落の道をそれなりに批判的に検証していて興味深く、同種の研究を次回作に控えている私は営業的に焦りましたがw それでも後半が吉原ワールド全開でそれはある意味、感情訴求がない西部型説法と同じにしか読めなかったですね。その意味ではやる仕事はいろいろあるな、と思います。

econ-econome 田中先生のご指摘の点(銅鑼衣紋氏の指摘)ですが、その点は僕も重々承知しています。経済学においてもご承知の通り幾多の学者の努力により漸進的な理論の彫築・発展が進められている訳ですし。

ただ一方で銅鑼衣紋氏が言う「神の言葉」を知っている連中の一員の中に西部氏が入るのかどうかという点については僕の中ではちょっと判断不能なんです。彼の英国保守派の思想家への共感とか、「無知の知」を語る所を読むとマルクス的な設計思想からは少なくとも外れているような気がするんですよね。

西部氏の議論は大きな物語の一つではあると思うのですが、バーク等が「神の言葉」を知っていると認識した上で議論をしていたとは思えないのです。この点が先生の言われる社会科学版の『知の欺瞞』の可能性やパーソンズの機能主義の問題性(ひいては構造主義に対する問題?)に繋がるのでしょうか。

最後に韓リフ先生のコメント。何度も反芻すべし。

韓流好きなリフレ派  まず西部氏の経済問題を扱った最近作の『エコノミストの犯罪』におけるエコノミスト批判とそれにオーバーラップしている一種の「社会没落論」との関連を見てみましょう。この「社会没落論」はシュペングラーの『西欧の没落』を西部氏流に読み込んだものですが、社会の衰退や没落のサイクル論で目前の社会や経済の危機や停滞を説明するのは、私がここしばらく考えている「構造改革論者」や「清算主義者」あるいはより正しくは「日本型の制度主義経済学者」たちの共通の視座です。例えば、「日本型の制度主義経済学者」の源流ともいえる笠信太郎のデビュー作はこのシュペングラーの『西欧の没落』論でして、上にあげたシェーマをすでに織り込んで、危機的な環境における従来の知識人の限界とそれに代る全的テクノクラート論の基礎を提供しています。最近では、ランデスの『強国論』を世俗化した竹中平蔵氏の『民国論』なんかもありますね。もちろん森嶋や金子らも忘れてはいけませんが。少なくとも笠のシュペングラー論と西部の以下の立論はかなり共鳴するものをもっていると思います(思います、というのは笠の本は群馬にあるので今回は直接できないのでうろ覚えですまそ)。

話を戻すと、『エコノミストの犯罪』で西部氏がシュペングラーを敷衍してどのようなエコノミスト批判を展開しているかというと、シュペングラーは文明の運命を主に「貨幣と知性」に代表させてみています。そして文明の没落とは、この「貨幣と知性」が自己目的化して、大衆による堕落した形態をとるということです。

「ここまでくると、シュペングラーの書が現代日本をも標的にしていることは疑うべくもない。貨幣的動機にもとづく技術知識の利用、それ以外に人間行動の類型がないがごとくの経済論が(アメリカから)日本に注入されている」。

貨幣や技術的知識(知性の一側面)が自己目的化し、それを大衆はエコノミストという代弁者を通して語る。エコノミストはその大衆に自己の立論の正当性をもとめることで両者は相互依存の関係にあり、これこそ文明の危機である。というわけです。

「厳密にいえば、専門知は、現実の問題と離れたことろで、単なる仮説として存在を許されている代物にすぎない。しかし多くの専門人が休み無く現実の問題について発言し行動している。それは、いったいどういう根拠にたってのことなのか」

「専門人は世論(という解釈)に依拠することによって問題の全側面にかんしておおよその解釈を暗黙のうちに下している。その解釈を前提にした上で、専門人は、自分の得意とする側面について説明を加え、それにもとづいて問題への処方箋を書いているのである」(『エコノミストの犯罪』)。

この専門人のだいひょうとしてエコノミストがあるわけです。

これらの見解は、私からするとエコノミストの分析と処方箋が大衆(世論)によってそのもっともらしさが規定され、その世論が変わるごとにそのもっともらしさの内容も変わる、という文化的な相対主義の一類型のように思えます。

そしてこのような文化的な相対主義の源泉として、西部氏自身が依拠しているシュペングラーやオルテガらはその代表として評価されていますね。その評価は正しいでしょう。

僕が銅鑼氏の言葉を借りて、西部たちが「神の言葉」を語っているというのは、この大衆の意見に規定された経済学という文化的な相対主義というストーリーについてです。ようするに専門家の日々のちまちました漸進的な専門研究や政策研究などはこのような文明論的な枠組みに無知・無自覚であるという批判対象なんですよ。

このような文化的な相対主義の一種については、『知の欺瞞』でも大きなテーマでした。より直截には、シュペングラーを直接批判した『知の欺瞞』の主張を基本的に引き継いでいるブーブレスの『アナロジーの罠』が上記の「神の言葉」への批判を展開しています。

長いですけど引用。

「『西欧の没落』の著者シュペングラーの主張によれば、客観的現実というものは存在せず、自然は文化に応じて変化する。こうした主張が、ポストモダンを生きているらしいわれわれにとって現在の思想状況をまざまざと映し出す言葉として耳に響くことは疑いようがない。ムジールは、こうしたシュペングラーの文化的・認識的相対主義を論駁するために、ただ次のように問う(**で囲まれたところはブーブレスの引用したムジールの言葉)。

*それではなぜ梃子はアルキメデスの時代にも、そして楔は旧石器時代にも今日と同じように働いていたのだろうか。猿でさえまる静力学と材料力学を学んでいるかのように梃子と石を使うことができるのはなぜなのか。そして豹が、まるで因果性を知っているかのように、足跡から獲物の存在を推量したりできるのはなぜか。もし人が旧石器人とアルキメデスと豹を結びつける一つの共通の文化を想定したくなければ主観の外側に存在するある共通の調整装置を仮定するほかにありえない。つまりは経験、それも拡張し洗練することのできる経験であり、認識の可能性である。真理、進歩、上昇のありよう、要するに、認識の主観的なファクターと客観的なファクターのあの混合物であり、それらは分離することこそ認識論の辛抱強い分別作業となるのだが、シュペングラーはそこから身を遠ざけている。思考の自由な飛翔にとってはこの作業は邪魔になるだけだからである*」(『アナロジーの罠』)。

西部の「神の言葉」という銅鑼氏の比喩をあえてムジールの引用にたとえればそれは「思考の自由な飛翔」でしょうね。

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プチ・西部翁ブーム

すべてはここから始まった。

あとこちらの書籍はイプシロン出版から刊行されていますが、この出版社から再刊された西部邁氏の「ケインズ」(再刊済)、「ソシオエコノミックス」(近刊)も興味深いですね。大学の時に訳も分からない状態で読んでいたのですが、再読するとまた感想も違ったものになるのかなと思っています。

余談ですが、西部氏の「大衆への反逆」、「サンチョキホーテの眼」、「批評する精神」とかは懐かしいなぁ~。熱に魘されるように読んでましたね。経済学批判全開の思潮が流行っていた時でしたが、自分の中では経済学批判の中で経済学を勉強するという矛盾した状況というのを楽しんでいたような気がします。(日々一考米倉茂氏「落日の肖像-ケインズ-」)

econ-economeさんと不肖hicksianの西部翁を巡るやり取り(懐古話か?)は某mixiに舞台を移してその後も続行。本棚に眠る西部本を漁り出すecon-economeさんと不肖hicksian。西部翁の自伝・回想は面白い、との意見で一致をみる。「近年の西部翁の書かれたものは個人的にあまり読む気がしないのですが、『友情』は名著だと思います。」との梶ピエール先生の言葉に『友情 ある半チョッパリとの四十五年』購入の決意を固めるhicksian(『友情』買おうかな、と話を振ったのは不肖hicksian)。『ソシオ・エコノミックス』を廉価で購入できてほくほく顔のhicksian。大枚(=福沢諭吉先生一枚)を投じて西部本の大人買いに乗り出したecon-economeさんは、その後怒濤の如く押し寄せた大量の西部本の置き場に頭を悩ませることになる。プチ・西部ブームはこのあたりで打ち止め・・・になるはずであった。

実は韓リフ先生も『ソシオ・エコノミックス』を購入し直されたばかり(稲葉振一郎先生らの新刊『マルクスの使いみち』の参考文献に『ソシオ・エコノミックス』が挙げられていたことも購入の契機となった模様)。以後、韓リフ先生と梶ピエール先生、econ-economeさんとの間で西部翁を巡っての(西部翁を取っ掛かりとして、とした方が適当か)濃密なコメントのやり取りが展開される。舞台は不肖hicksianのmixi日記コメント欄(敬称は略)。

西部邁『ソシオ・エコノミックス』について。西部邁と高田保馬の類似性について語られる。高田―西部(―村上泰亮)ラインの限界(平成不況の原因の取り違い=結果を原因と誤認する傾向)についても論じられている。

韓流好きなリフレ派  いま『ソシオ』を読んだけど、やはり誰でも時代の申し子でその一結晶みたいな本ですね。先に西部オリジナルかというとそうではなく、本人が意識しているいないにかかわらず、明白に高田保馬の勢力理論でしょう。そしてこの高田ー森嶋というラインの存在も西部とは切り離して認知しておく必要があると思います。『ソシオ』の議論の社会ー経済学的核心は、労働、資本、消費それぞれの固定性にあると思えます。そして労働と資本の固定性が相互依存関係(補完性)をみたしていることも指摘されています。この固定性自体は消費の固定性をみれば明白なように個人と共同体の間でイメージの分裂が起きる可能性が示されていて、それを統合する可能性として経済政策に役割が振られています。こういった労働、資本、消費そして相互の補完関係で戦前の長期持続停滞を説明したのが高田の勢力理論です。これについてはすでに僕も10年前に論文を書いたのでよくわかる議論です(引用者;田中先生の高田保馬論についてはこちら(Economics Lovers Live公平賃金仮説リターンズ)も参考になるかと)。で、こういった共同体的利益と個・社会のイメージの分裂と統一という観点から経済論を敷衍したものは、当時は奥村宏の法人資本主義(これに対する森嶋の大シンパシーを忘れないように)、野口・榊原w論文、そしてなによりも村上泰亮の新中間大衆論、そしてやがてこれらの総合的な体系としての村上反古典派経済学=開発主義経済学、そして小室『危機の構造』などがすべて系脈としてでてきますね。

で、簡単にいうと資本の固定性というのは西部の理解ではほぼザモデル案のベース(不良債権処理の正当化としてのb.F2.4節、歪曲された構造改革www)でしかないわけで、あとの労働の固定性、消費の固定性(こちらは現代版は松原?w)などで今日の長期停滞を説明はできない、せいぜいすべて補助要因や偽装された原因(実は真因がもたらした結果)である、というのがリフレ派の説明ですね。この種の問題へのリフレ派の核心は、もちろんクルーグマンでもいいわけですが、よりわかりやすい形では『論争日本の経済危機』の岡田・飯田論説のどうみてみ岡田さんの書いたところwに明白に書かれています。

僕も偉そうに書いているけれども現状のリフレ派的な見地からすれば、例えば『日本型サラリーマン』の時代はやはり高田理論がベースで、でもそれでは解決できない問題があるそれでインタゲを出す、といういささか分裂気味な議論をあそこではまだ展開してまして、それが自分なりに方向性を自覚できるようになったのは、昭和恐慌研究会での議論を通してすこしづつでるかね。その意味で、西部氏の理論は個人的にはよくわかります。でもこの議論は行き止まりです。長期持続停滞を結局は説明できないもの。上のすべての固定性は長期停滞のメカニズムの前には擬似的不均衡にすぎないから。

「制度」を語る経済学者の「金融政策」を語らぬ傾向。その理由は?

梶ピエール  ↑いやあ、大変興味深いです。このテーマで一冊の本になりそうですね。個人的には西部ー村上ラインと都留重人のようなマルクス主義的な制度派経済学の関わりも気になるところです。それにしても、英米の経済学者はヒックスやスティグリッツのように「制度」を重視する議論をしながら金融政策のエキスパートでもあるという学者が珍しくないのに、日本で「制度」を語る学者というとここにあがった名前以外に青木昌彦といい、金子勝といい、どうしてそろいもそろって金融政策をスルーしちゃうのでしょうか?

韓流好きなリフレ派  梶ピエールさん、実はこれが今度の本(今度っても本当に今度かなあw)のテーマです、ネタあまりもってないのでつかいまわし(^^;。
西部ー村上ラインとブログの方でとりあげた都留たちの制度学派も当然に考えております(引用者;田中秀臣の「ノーガード経済論戦」都留重人氏とは誰だったのか都留重人氏とは誰だったのかⅡ)。金融政策スルーはやはり日銀(一昔前は大蔵日銀)の経済政策の基本理念が真正手形割引説 爆にしかすぎなかった時代がず~っと継続し、また政府の経済政策理念で一番体系化していたのが産業政策であったり、あとは大蔵省の実弾=角栄政治 だったわけで、政策の中で裁量にせよルール型にせよ金融政策が日本の政治経済の経済政策体系の中で歪んだあり方をとりつづけてきたことがあるのかもしれません。

梶ピエール  なるほど。制度派だけにwそのへんの「経路依存効果」による説明が説得的かも知れませんね。金融政策軽視という「罠にはまった」のは左翼だけではないと。

econ-econome  >金融政策が経済政策の中で歪んだ云々
よく分からないのですが、こちらは過去日銀の金融政策が為替レート管理のような体裁をとっていたことも関係してるのでしょうか? 

韓流好きなリフレ派  変動為替相場制移行後を考えるとやはり日銀の真正割引手形学説的金融政策=受動的金融政策は経済の不安定化に貢献してきたといえると思います。で、受動的すぎてw金融政策の重要性を認知した人というのは目立った事件(石油ショックなど)をみてもほとんどおらず、だいたいは日本型システム=構造的対応の勝利(石油ショックであれば労使協調でコストプッシュ型インフレを抑制とか)に軍配をあげてきて、この軍配の当否自体に関心がいくというのがいままでの論壇の論調ではないでしょうか。むしろ真のプレイやーは他にいるのに。とはいえ最近は金融政策についても注目はかなり集まってますよね。 

梶ピエール  ・・・ただ、後者(一般に「新制度学派」と区別して「現代制度学派」と言ったりしますが)においてもホジソンなんかはケインズ的なマクロ経済学との関わりが結構深いので(http://reflation.bblog.jp/entry/266635/参照。未読だがミンスキーなんかも同じような感じでは?)、どうも「制度」的要因を重視する論者がマクロ問題、特に金融政策一般に冷たい、というのは日本特殊な現象ではないかと思えてきました。上の田中先生のコメントを呼んでその思いはますます強くなりつつあります。

僕などはマクロ政策の重要性が相対的に低い(と思われている)国の経済をずっとやってきたのでもともと制度分析に対する関心は高いのですが、こういう「制度・構造好き」=「マクロ・金融政策嫌い」というこれまで日本の経済学界にみられた「疑似的」対立の構図はやはり問題だなと思うようになりました。というわけで個人的には田中先生の次回作を大変楽しみにさせていただきたいと思います。 

梶ピエール  あと例えばカール・ポランニーの経済人類学というと日本では栗本慎一郎などがもちあげたこともあって「反経済学」の代表みたいになってしまいましたが、ポランニーの『大転換』のペーパーバック版の序文は実はスティグリッツが書いているんですよね。これなんかも象徴的な事例ではないでしょうか。 

韓流好きなリフレ派  アメリカ制度学派の例えばコモンズなんか金融政策中心のリフレを大恐慌のときに率先して主張しましたし、制度学派vsリフレ派という構図にはほど遠いでしょうね。ワルラスの時代でいえば確かに梶谷さんの指摘の通りですが、もともと土木事業の官吏養成の技術のひとつとして経済学はフランスで発生してますんでもうその段階でばら撒き行政=リフレの手先です。ま、これはもちろん冗談いれてますがw
ホジソンはそうですね、それを訳した日本の方々は八木さん含めてアンチリフレですけどw ちなみに八木さんと共著がある僕ってww
ミンスキーはこれは藪下さんと読んだことがありますが、そのときは「ミンスキーのいってることはトービンがすでにきれいに説明している」終りみたいなw。それとついでにアナリティカルマルクス主義的な系譜にも近いダンカン・フォーリーという人がいるのですがこの人のグッドウィン流の非線形動学モデルのデフレ版がありますが、これも「そんな陳腐なモデルの説明まだしたい、ジー」と見つめられてこれまた終りみたいなw
考えてみるといろんな経済学者に手を出しては喜怒哀楽を体験してきたもんですw 

「制度」を語る経済学者は「金融政策」を語らない、というわけではなくて、「制度」を語る日本の経済学者は「金融政策」を語らない、ということのようですね。「日銀理論」が「制度」を語りつつも「金融政策」を語らぬ日本の経済学者を育んだ・・・。

現在も議論進行中の模様?ですので途中報告ということで。続報を待て!!

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2006年4月19日 (水)

ベルナンケ→バーナンケ→バーナンキ

色々貼り過ぎてわけがわからなくなったんで、バーナンキ自身について知りたいというお方のための些細な情報提供は別立てで。

ネット上で(日本語で)読めるバーナンキの論文“日本の金融政策に関する考察”(pdf)。

田中秀臣の「ノーガード経済論戦」(「バーナンキFRB議長就任と日本のリフレ」)とsvnseedsさんプレゼンツ便利なおまけも参照のこと(追記;田中秀臣著『ベン・バーナンキ 世界経済の新皇帝』も必見)。

日本語に翻訳されてる本は『マクロ経済学〈1〉入門編―マクロ経済理論』『マクロ経済学〈2〉応用編:マクロ経済政策』。そして最後に『リフレと金融政策』 。(追記;『日本の金融危機』(「第6章 自ら機能麻痺に陥った日本の金融政策」)もありますた)

祭りの後に(少しばかり落ち着いた頃に)ででもご覧になっていただければ。

            ______  わっしょい!
          /,/-_-_-_-_-_\ わっしょい!
     ( ( /,, /  バーナンキ \わっしょい!
       (。'。、。@,。,。,。,。,。,。,。,。,。,。,。@ ) )
       ∩ヽヽ∩ヽXXXXXXXX/ ∩
         i||i ∩ i||i:||::::¥_][_¥::::||.i||i
       †人=†††¶┌┐¶††††
  /■/■ /■\/■\]  /■\■\
 (´∀( ´∀( ´∀( ´∀`).□´∀` )Д´)
 ⊂|_| |つ|祭)~| |祭) ̄||祭) ̄|つ ⊂|_((|祭)
  |__〓」 _|=|_ 〓__ノ 〓二ノ〓二ノ) ( / (L
  し' (_(_ し(_) (_)_)し(_)し(_)し

FRB→Apple100% blog→?(次は何処へ)

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バーナンキ! バーナンキ!

バーナンキのFRB議長指名を記念して関連リンク先をご紹介。

Brad DeLong’s Semi-Daily Journal

Bernanke as Inflation Fighter http://delong.typepad.com/sdj/2005/10/bernanke_as_inf.html バーナンキがインフレ許容的であるというのは全くの誤解である。バーナンキは政権の言いなりであり、財政赤字の拡張を原因とするインフレギャップの拡大を放置するだろうという観測は間違っている。彼はグリーンスパン同様に物価安定を目指して粛々と政策運営に従事するはずである。

The Economist on Ben Bernanke http://delong.typepad.com/sdj/2005/10/economistcom.html バーナンキは金融緩和へと偏しすぎている(erring on the expansionist side of monetary policy)=インフレ許容的である、とのThe Economisit誌のバーナンキ評に反論。The Economisit誌の記者は、バーナンキのスピーチ―FRBはアメリカ経済がデフレに陥る前にデフレを食いとどめる力を有している(デフレは金融緩和によって事前に回避可能である)―の意図を誤解(デフレ回避のための金融緩和以上のことを意味していると理解=足元の経済状況いかんにかかわらず金融政策を緩和ぎみに運営するのではないか)しており、バーナンキはインフレ愛好的であるために(=財政赤字の拡大を許容)ブッシュからの指名を勝ち得たのである、との胡散臭い噂に振り回されているだけである。

The Press's Definitive Word on Ben Bernanke http://delong.typepad.com/sdj/2005/10/the_presss_defi.html Ben BernankeのFRB議長指名はHarriet Miersの連邦最高裁判所判事の候補者指名とは正反対の、驚くべきほどまっとうな選択である。

Marginal Revolution; 

Ben Bernanke http://www.marginalrevolution.com/marginalrevolution/2005/10/ben_bernanke.html 中央銀行総裁が備えるべき資質(経済データやマクロ経済への知識に精通しているか、外国やウォールストリートから信用を勝ち得ているか・・・etc)をバーナンキが有しているかどうかを採点。結果は・・・上々といったところか(今後の仕事ぶりを見てみないことには結論を下せないってところもありますかね)。

Ben Bernanke, economist http://www.marginalrevolution.com/marginalrevolution/2005/10/ben_bernanke_ec.html バーナンキの学者としての業績の簡単な紹介。バーナンキの経済学への貢献として、irreversible investment(不可逆的投資)の理論/金融政策のトランスミッションメカニズムとしてのクレジット・チャネルの重要性を提唱したこと/インフレーション・ターゲティング研究/大恐慌(Great Depression)研究/グローバル貯蓄過剰論(The global savings glut)、の計5つの業績を挙げる。

EconLog;                     

Bernanke's Nomination http://econlog.econlib.org/archives/2005/10/bernankes_nomin.html バーナンキは(リバタリアンにとっても)中央銀行の長としてこれ以上望み得ないほど最高(適任)の人物である。歴史上何度も繰り返されてきた金融政策の失敗(とその結果としての景気の乱高下)を前にして、私(Caplan)は(リバタリアンの立場から)フリーバンキング論を主張してきたけれども、バーナンキはインフレターゲットを設定することによって(政策意図を明確化することで)金融政策の先行きに関する不確実性を可能な限り除去し、その結果としてインフレ率の低位安定を実現させ、もって中央銀行が経済の撹乱要因となることを避けようと努めてきた。多くの点で意見の違いはあろうが、バーナンキを(かつての教師への配慮という理由からではなくして)賞賛するのはそのためである。

Econbrowser;

Ben Bernanke: new Fed chair http://www.econbrowser.com/archives/2005/10/ben_bernanke_ne.html バーナンキが次期FRB議長に選任されたということは大変喜ばしいことだ。バーナンキはFedの政策研究―Fedが大不況(the Great Depression)や戦後の景気循環に及ぼした影響について―を通じてアカデミックの世界に多大なる貢献をしてきた。バーナンキ新体制のFRBに対してもこれまで同様学者しての特権―金融政策を好き勝手に、けちょんけちょんに貶す=批判する―を振り回すことになるだろうけれども、批判をぶつけるに際してバーナンキの業績(=上記のアカデミックな貢献)・人柄に対する敬意は忘れないつもりである。

New Economist;

Ben Bernanke to replace Greenspan as Fed Governor http://neweconomist.blogs.com/new_economist/2005/10/ben_bernanke_to.html ついにホワイトハウスにおいて良識が勝つときがきた。これまでのホワイトハウスの政治的任命職に関する判断には疑問符がつくものばかりであったけれども、今回次期FRB議長としてバーナンキが指名されたのである(注;記事は正式な指名前に書かれたもの。よって、バーナンキ指名の可能性が濃厚になってきた、とするのが正しい)。バーナンキはグリーンスパンの後任候補の最右翼と目されてきており(経済学者としてだけではなく、FRB理事として/CEA委員長として実務の世界でも実績を積み上げてきたことの結果でもある)、グリーンスパンとは違って党派的色合いの薄い(またインフレターゲティングの導入に積極的な)人物である(FRB議長として誰もが納得する指名だろう)。今後の活躍に是非とも期待したいところだ。

Bernanke round-up http://neweconomist.blogs.com/new_economist/2005/10/bernanke_media_.html バーナンキ指名に関する識者・各種メディアの意見を紹介。〔好意的な見解;Ben Bernanke Has a Lot Going for Him to Make It(John M. Berry)〕バーナンキはFRB議長として幾分か有利な(望ましい)立場に置かれている。かつてFRB理事を務めていたことから、(1)FOMCの他のメンバーの考えについてある程度の理解を有していること、(2)FRB議長としてFOMCメンバー間の意見の一致をどのようにして図るか、その(グリーンスパンによる)手際を間近で観察する機会が得られたこと。FOMCメンバーとの間に政策目標に関する意見の一致―インフレをコントロール下に置くこと(low and stable inflationの実現を最優先課題とすること)、また安定した低インフレは雇用の最大化(maximizing sustainable employment)にも貢献すること―が存在すること。アメリカ経済の現状は決して予断を許さない状況ではあるけれども、(就任わずか2ヵ月後に株価大暴落=「ブラックマンデー」に対処せねばならなかった)グリーンスパンに比べればバーナンキにはFRB議長の仕事に慣れるだけの時間的余裕があること、等々。〔否定的な見解;Transparency Wins, Fed Leaks Lose, With Bernanke(Caroline Baum)〕グリーンスパンと比較して、学者としての経験からバーナンキは経済モデルに頼りがちである(モデル思考に親しみやすい)。モデル思考が問題だということの意味は、現実の経済はモデルが予測するようにはいかないということ/モデルから導かれる予測が結果として誤りであったということでは必ずしもない。モデルに過度に依存することが耐久期間を過ぎたモデルにいつまでもしがみついてしまう危険性を孕んでいるがゆえに問題なのである。

Economist's View;

Nomination for Next Fed Chair: Ben Bernanke  http://economistsview.typepad.com/economistsview/2005/10/nomination_for_.html バーナンキとグリーンスパンの違いは何だろうか? バーナンキはグリーンスパンのように政治的な議論には口を突っ込まないだろうし(バーナンキが共和党支持者だということは、多くの仕事をともにした同僚(ガートラー、ブラインダー)でさえも長らくの間全く気付かなかった。バーナンキは党派的な意見を主張するのを避ける傾向がある;中央銀行総裁としては望ましい性質ではある)、グリーンスパンが嫌ったインフレーション・ターゲティングの導入に対して(=政策目標をヨリ明確にするために、また更なる透明性の向上のために)ヨリ積極的であるだろう。

Will the Bernanke Fed Retain Its Inflation Fighting Credentials? http://economistsview.typepad.com/economistsview/2005/10/will_the_bernan.html バーナンキはグリーンスパンほどにはインフレ(あるいはインフレの加速)の阻止にコミットしないのではないかとの疑念に対して、バーナンキ自身のスピーチ“A Perspective on Inflation Targeting”を引用して反論。1970年代のGreat Inflationは突発的な石油価格の高騰によって引き起こされた(不可抗力の)現象ではなく、過度の金融緩和とその結果としてのFedのインフレをコントロールする能力(あるいは意思)への(国民からの)信認の崩壊によって引き起こされた(人為的な)惨事であった。Fedのインフレ・ファイターとしての信認を回復するために(ヴォルカー時代のディスインフレ過程において)アメリカ経済が払わざるを得なかった犠牲も併せて鑑みるに、中央銀行のインフレ阻止へのコミット(とそれを裏付ける行動)の重要性は論じるまでもないだろう。“in conducting stabilization policy, the central bank must also maintain a strong commitment to keeping inflation--and, hence, public expectations of inflation--firmly under control”(景気安定化政策としての金融政策を効果的なものたらしめんとするにあたっては、インフレーションを(そして民間経済主体のインフレ期待を)低位安定させんとする中央銀行の力強いコミットメントが必要不可欠になってくる)。

Bernanke on Interest Rates, Monetary Aggregates, and How Monetary Policy Impacts the Economy http://economistsview.typepad.com/economistsview/2005/10/bernanke_on_int.html

Ben Bernanke: We Cannot Practice Safe Popping http://economistsview.typepad.com/economistsview/2005/10/ben_bernanke_we.html

Should FOMC Meetings be Televised? http://economistsview.typepad.com/economistsview/2005/10/should_fomc_mee.html FOMCでの政策決定過程をヨリ透明化するための手段としてテレビ中継を導入(FOMCでの議論の様子をテレビで放送)すべきかどうかについてバーナンキとウィリアム・プールの所説を紹介。ヨリ多くの情報が提供されることによってその分市場によるFedの政策意図への理解が深まるとは単純にはいえず、逆に余計な情報や誤解を招きかねない(解釈の余地のある)表現が画面を通じて直に伝わることで市場の判断を歪めてしまう恐れなしとはしない(バーナンキ)/テレビ中継によってFOMCのconfidentiality(=秘密性、秘匿性)が損なわれるために、匿名を条件として個別企業から提供される情報がもはや得られなくなってしまい(←その結果として経済予測の精度が損なわれるかもしれない)、また政策委員がテレビ(の奥にいる聴衆)を意識してしまうがために(テレビの存在がなければ心置きなく率直に議論できるはずであった)物議をかもしかねない話題(失業率の上昇を招きかねない政策決定etc)を議論の俎上に乗せることを厭うようになりかねない(プール)、として両者ともにFOMCへのテレビ中継の導入には否定的。ただし、プールはテレビ中継によって提供される情報が(視聴者の誤解や無理解が原因となって)意思決定の撹乱要因となりかねない(=バーナンキの見解)との議論には組しない(テレビを通じてFOMCの様子をチェックするような人間は専門家だけであり、彼らが政策委員の一挙一動に振り回されるようなことはないだろう)。

Will Bernanke Speak Up? http://economistsview.typepad.com/economistsview/2005/10/will_bernanke_s.html FRB議長は国民経済全体の奉仕者であるべきであって、個人的な考えを前面に押し出し、またそれ(=党派的な個人的見解)を具現するためにその職業的立場を利用するべきではない。バーナンキが共和党員であるとか財政赤字削減論者であるとかいった党派的な立ち位置はFRB議長としての彼の活動とは一切関係のないことだ。FRB議長が財政赤字や政府債務の水準に関して発言することが許されるのは、財政の状況がマクロ経済、ひいては金融政策運営に影響を及ぼす可能性があるときに限定されるべきであるし、バーナンキもその点は(彼の過去の発言から判断して)十分にわきまえているだろう。

Greg Mankiw: Questions Bernanke Must Be Asking Himself http://economistsview.typepad.com/economistsview/2005/10/greg_mankiw_que.html マンキューによるバーナンキ宛ての3つの質問―FRB議長としてバーナンキが自問自答すべきとマンキューが考える質問―。①如何にしてインフレーション・ターゲティングの導入に道を開くことができるであろうか(How can I advance inflation targeting? )→グリーンスパンは目標とすべきインフレ率(あるいはそのレンジ)を数字として明確に掲げることには反対の意向を示したけれども(そして実際に特定のインフレ率の達成にコミットすることはなかったけれども)、暗黙ながらも1~2%のインフレ率を目標として政策運営に従事していた節がある。インフレーション・ターゲティングの導入は金融政策運営の変更(ないしレジームの転換)というよりも市場とのコミュニケーション手法の変更(グリーンスパン流の“covert inflation targeting”からexplicit inflation targetingへ/目標とするインフレ率をグリーンスパン一個人の頭の中から万人の眼前に曝け出す)として捉えられるべきであり、実際の政策運営(やFOMCの声明等)を通じて中長期的なインフレ予測(ならびにFOMCメンバーの想定するインフレ率の目標)を市場に伝達することで徐々にインタゲ導入の足場が固められていくことであろう(大々的にインタゲ導入を宣言する必要はないかもしれない)。②FRB議長としてどの範囲の議論にまで口出しすべきであろうか(How broadly should I offer opinions?)→ FRBの政治的な(制度的な)独立性(←議会によって付与されたものであり、また議会によって容易に剥奪されるものである)を危険な目に晒さないためにも、FRB議長としては金融政策や金融システムの動向に関連する議論、経済学者の間に広範なコンセンサスが存在する議論等党派的・感情的な対立を引き起こす蓋然性の少ない議論への参加に限定すべきである。③FRB議長としての私個人に一般の人々からどれだけの注目を集めるべきであろうか(How high a profile should I adopt?)→金融政策はFRB議長一人の個人プレーで決定されるべき性格のものではなくて、FRBという制度(そして背後のいる多くの専門家)によって実施・運営されるのものである(し、そうあるべきだ)。バーナンキはFRB議長として退屈な、何の面白みのない人間を演じ(大衆から注目を集めるような派手な行動は慎むべきである)、大衆の注目を個人(例.グリーンスパン前議長)から制度としてのFRBへ差し向けるよう(決して目立つことなく)励むべきだ。

詳細はGregory Mankiw、“A Letter to Ben Bernanke(pdf)”を参照のこと(体裁は違えど内容はほぼ同じ)。

The Greenspan Succession(by P.Krugman); http://www.pkarchive.org/column/012505.html(いちご経済板にてcloudyさんがご紹介されておられました。今回の議長指名をうけての記事じゃありませんが)

Bernanke and the Bubble(by P.Krugman);http://donkeyodtoo.blogspot.com/2005/10/bernanke-and-bubble-by-paul-krugman.htmlgachapinfanさんによる邦訳と照らし合わせてみるにどうやら原文のようです。なんとなく後ろめたいけれども・・・)

svnseeds’ ghoti!(svnseedsさん。バーナンキがFRB理事時代に行ったスピーチへのリンクをまとめておられます。一番のお奨めです);http://d.hatena.ne.jp/svnseeds/20051025

おまけ(祭りの様子を冷静に分析されている方々):

Baatarismの溜息通信(Baatarismさん);  http://d.hatena.ne.jp/Baatarism/20051025

Apple100% blog(fhvbwxさん。「バーナンキ祭り」の樹形図);http://d.hatena.ne.jp/fhvbwx/20051025/p4

                  バーナンキ!!
     \\  ゑーぢゃなゐか! ! //
 +   + \\ ゑーぢゃなゐか! !/+
                            +
.   +   /■\  /■\  /■\  +
      ( ´∀`∩(´∀`∩)( ´∀`)
 +  (( (つ   ノ(つ  丿(つ  つ ))  +
       ヽ  ( ノ ( ヽノ  ) ) )
       (_)し' し(_) (_)_)

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