2007年1月 4日 (木)

貨幣数量説の祖

前ブログからのエントリーの移行作業がまだ終わってませんでした。このエントリー以外にも幾つか移行待ちの記事がありますけども、・・・気が向いたらアップしたいと思いまふ。なお誠に勝手ながらFellow Travelerさんから頂戴しました本エントリーへのコメントの一部(だけしか残っておりませんで)を復元させていただきました。了解もなしに申し訳ございません(ご紹介いただいたBerdell論文は入院後すぐ、つまりはまだ体調が良好(?)であった頃に読ませていただきました。Wennerlind論文はつい最近、というか今さっき読みました。両論文の内容を要約したエントリーを書きたいところですけども・・・)。

貨幣数量説の祖といえばデイビッド・ヒューム(David Hume)。これまで二度にわたって取り上げた(これこれ)DeLongの記事でもFirst Monetarist、pre-Keynesian business cycle theoristとして名前が挙げられている(正確には貨幣数量説を経済分析に明示的な形で導入したアービング・フィッシャーがFirst Monetarismの創始とされているけれども)。

素朴な貨幣数量説論者(追記;素朴な貨幣数量説と単なる貨幣数量説の違い=短期(=貨幣供給量が実体経済に影響を与えうる期間)に重きをおくかどうかの違いとしておきます(勝手ながら)。両者ともに長期的には貨幣供給量の増加は(比例的な)物価上昇を招くという点では一致するものの、素朴な貨幣数量説論者は比較的速やかに長期の状態が到来する(=短期は無視しうるほどの長さであり、そのため貨幣供給量の変化が実体経済に与える影響も小さい)と考える傾向にある)としてのFirst Monetarist、pre-Keynesian business cycle theoristによれば、貨幣供給量の増加は実体経済(実質GDPとか雇用量・失業率など)にはなんらの影響も及ぼすことはなく、貨幣量の増加に比例するかたちで物価が上昇するだけである(貨幣量が2倍になれば物価が2倍になるだけ=貨幣の中立性)、とのこと。フリードマンによればこの見方(First Monetarist=素朴な貨幣数量説の信奉者)はロビンズやシュンペーターやらの曲解(あるいは単純化)によって生み出された虚像であるらしい。フィッシャーが素朴な貨幣数量説論者でないことは確かである(Pavanelli論文参照)。じゃあヒュームはどうなんだろう、ってことで(フリードマンの発言の真偽を確かめるためにも)『市民の国について(下)』(「貨幣について」、p51~p70)を読んでみました。

実を言うと、貨幣は商品流通において主題の一つとなり得るものではなく、財貨の交換においてそれを円滑にするために人々が互いに同意し合っている交換用具(instruments)に過ぎません。商品流通を車にたとえるならば、貨幣はその両輪の一つなどでは決してありません。そうではなく、それら両輪の回転をより円滑にするための潤滑油のようなものです。・・・誰の目にも明らかなように、その国の所有する貨幣量の多少は全くなんの意味も持ちません。というのは、物価はつねにその国の貨幣量に比例するのであり、・・・(p51)

冒頭からいきなり素朴な貨幣数量説丸出しじゃないかい。フリードマンの嘘つきめ(怒。

貨幣は労働と財貨との表示物(representation)以外のなにものでもなく、労働と財貨との評価もしくは勘定(rating or estimating)の手段として役立つに過ぎません。もしその国に従来よりもより多量の貨幣が存在するようになれば、同じ量の財(goods)を表示するのにより多量の貨幣が必要になるというだけのことです。ですから、その国家だけに限定して問題を考えるならば、貨幣量の増大が善悪いずれであろうと、なんらかの結果をもたらすということは皆無です。それはちょうど、僅かの記号で済ますことのできるアラビア記法の代わりにきわめて多数の記号の必要なローマ記法を用いても、その商人の帳簿に何の変化も起こらぬのと同じことです。(p56)

疑いは深まるばかり。フリードマンの言うことなんか二度と聞くもんか(怒。

一つ確かなことは、アメリカにおける鉱山の発見以来、それらの鉱山を保有している国々を除けばヨーロッパのすべての国々において生産活動が上昇してきているという事実です。そして、この事実を正しく説明し得る理由はなんといっても金銀の増大ということであろうと思います。(p56)

ん?

われわれの気づくことは、いかなる国であれ、その国へ貨幣が従来よりもはるかに大量に流入し始めると、事態は一変し、労働と生産活動とは活気を帯び、商品流通者(the merchant)はさらに企業的精神に富むようになり(enterprising)、工業生産者(the manufacturer)はさらに生産への熱意を燃やす(diligent)とともにその技術をさらに高めるようになってゆくということ、それどころか、農業生産者(the farmer)までがその鋤をますます素早くしかも注意深く操ってゆくようになるということです。もしわれわれが貨幣の増大がもたらす影響は物価を上昇させるということだけである、いいかえると、各人にその買い求めるものすべてに対しより多数の黄色ないしは白色の金属片を支払わせることになるだけである、とするのでしたら、今述べた〔社会過程〕の説明は容易ではありません。(p57)

んんんん?

物価の高騰が金銀貨の増大のもたらす必然の結果であるとはいえ、そのような高騰は金銀貨の量が増大したとたんに始まるというのではなく、増えた貨幣が国内隈なく流通してゆきその影響があらゆる階級(ranks)のひとびとに感得されるようになるには若干の時間がかかるということです。最初のうちはなんの変化も認められません。徐々に物価が、まずこの財貨、ついであの財貨、という具合に上昇してゆきます。そしてついに物価全体が、その国に存在する新たな貨幣量と正しく比例するようになります。わたくしの見解では、金銀貨の保有量の増大がその国の生産活動に有益な影響を与えるのは貨幣の取得と物価の上昇との間のこの〔ズレの〕期間、つまり、そのような過渡的状態のときだけに限られます。(p57~58)

流入してきた貨幣は、労働の価格を引き上げるに先立ち、先ず、すべての私人の生産意欲(diligence)を必然的に高める、ということでしょう。また、貨幣(the species)〔の増大〕が労働の価格の高騰という結果をもたらすまでにその量をかなりの程度まで増大させ得るということも・・・(p59)。

その国の貨幣保有量が変動するとき、増減いずれの場合でも、直ちにそれに比例しつつ物価もまた変動するということにならぬという事情・・・。事態が新しい状況に応ずるにはつねに一定の間(interval)が介在しなければなりません。(p60)

ヨッ、さすがフリードマン様。私も実はそうじゃないかと思ってたんですよ。ちゃんと最後まで読めって話ですよね。貨幣供給量の増加が(それに比例する)物価上昇を引き起こすまでには一定の間があるんですよね。金融政策(あるいは貨幣供給量の増加)は有効なんですよね、一定の間は(一定の間の推移(つまりは貨幣供給量の増加が景気を刺激する様子)についてのヒュームの説明はp57~60を参照のこと)。

さらに、ヒュームは貨幣供給量の変化が短期的のみならず長期的にも実体経済に影響を及ぼし続ける(=あるは短期的な状態(=一定の間)がかなり長い間持続する)可能性についても言及している。

その国に存在する貨幣の量の多少はその国の国内的な幸福にかんしてはいかなる意味でも重要性を持たぬということです。為政者のとるべき政策はただ一つ、もし可能であれば貨幣を漸増の状態に保つということだけです。というのは、貨幣を漸増の状態に保つならばそれにより、国内における生産への熱意(a spirit of industry)をいやましに高め、いっさいの真の兵力といっさいの真の富とがそれから成り立つあの労働の蓄積量を増大させることになるからです。(p59~60)

金銀貨の量の多寡それ自体は全くどうでもよい事柄です。金銀貨の存在量にかんし、もしなんらかの重要性を持つ事情があるとすれば、それは次の二つの事情だけです。すなわち、その漸増と国の隅々までの偏在および流通とだけです。(p69~70)

「現在の」貨幣量の多寡は問題ではない。(追記;この記述は長期的にも貨幣供給量の増減が実体経済に影響を与え得るとヒュームが考えていたことを示しているんじゃなかろうか?;Fellow Travelerさん、貴重な情報を提供していただきまして誠にありがとうございました)。貨幣量を漸増させることにより、(各種の価格調整が遅れることによって)物価上昇を伴いつつも(=貨幣供給量の増加の影響がすべて吸収されるほどには物価は上昇しない)実体経済を刺激し続けることは可能である・・・。

ここで久々にヒックスの登場(誰も待ってないですかそうですか)。ヒックスは『経済学の思考法』(「第3章 貨幣的な経験と貨幣理論」)において、「貨幣について(of Money)」で展開されたヒュームの議論を簡単にモデル化(というほど大それたものでもないが)したうえで(=古典的数量説のモデルと名付けている)、そこから導き出しうる帰結に関しあれこれ論じている(貨幣供給の増加がなぜ(即座の)物価上昇によって相殺されないのか(貨幣供給量の増加がなぜ実体経済にポジティブなインパクトを与えうるのか)という点を解明するというよりは、そのことを前提した上で貨幣供給の増加がどのような名目所得(物価×実質所得)の変化を生み出すかを考察したものである)。

数量説-今日において死に絶えたわけではない-のもっとも素朴な形は、物価水準を貨幣量に依存させる。しかし、ヒュームが(かつて)与えた形をとるとしても、古典的数量説はこのように素朴ではない。ヒュームは、貨幣供給量の増加の最初の効果が産業を刺激することに気がついていた。「それは、賃金を引き上げる前にすべての人々の勤勉さを刺激するに違いない」。したがって、価格に対する効果と同じく産出量に対する効果も考慮に入れなければならない。両者を同時に考慮するならば、貨幣供給量(M)に依存するとみられるのは、産出量(以下PQと書く)の全価値である。(『経済学の思考法』(以下の引用はこの本から)、p67)

ヒックスは交換方程式MV=PQにおいて流通速度Vが不変(=一定)である場合と可変である場合を分けて議論を展開する(この議論においては貨幣供給は完全に外生的である。毎期mだけの貨幣が外部から注入されると考える(貨幣=金属貨幣のみと想定し、新しい供給源の開発により毎期mだけの(貨幣用の)金銀が産出される)。貨幣は銀生産者(=貨幣供給者と考えてもよい)の手元に入った後、一期間の遅れを伴って(非貨幣的商品に対する貨幣的な需要として)商品供給者に(商品と交換に)手渡されることになる。商品供給者は収入の増加をうけて支出を増加させる。以下続く)。

1.流通速度が不変である場合

金融制度が未発達であるため資金の貸借が不可能(あるいは非常に困難)であり、そのため過去の貯蓄とその期間内に受け取った収入の範囲内に支出は制限される。この仮定の下で、その期に手元に入る貨幣が一期間の遅れを伴ってすべて支出される(よって第2期に2mの所得(需要は銀生産者の需要m)が、第3期に3mの所得(需要は銀生産者の需要m+商品供給者Aの商品Bに対する需要mの計2m)が発生することになる)と考えてはじめて流通速度が一定となる。この時貨幣Mの増加はPQの比例的な増加を帰結することになる。              

2.流通速度が可変である場合

金融制度が未発達であるために借入機会が欠如しているならば、「不時の出費に備えて準備を保有する利点が非常に大きいため、貯蓄を好む、あるいは支出抑制への偏りが予想される」(p68)。受け取った貨幣をすべて支出すると考えるのは現実的ではない。受けとられた貨幣がすべて手渡されるのではなく、消費性向cだけが手渡され残りは貯蓄されると考えるならば、第5期においては貨幣残高は総計5m増加するけれども、第5期に発生する所得はm(1+c+c^2+c^3+c^4)以下となり5mよりは小さくなる。流通速度は貨幣保蔵の傾向が高まるほど(=cが小さくなるほど)小さくなってゆく。この場合においては(時間が経つにつれて)貨幣が無限に増加しても発生した所得は無限には増加しない(=所得PQに上限が存在する;無限等比級数の和ですんで)。 

借入れと貸し出しが可能であると仮定すると(金融制度がある程度発展し、(銀行制度が整備されるとまではいかなくとも)資本市場へのアクセスが可能となったとすれば)以上の議論はどのような変容を被ることになるだろうか。受け取りを超える支出が過去の貯蓄によってのみ調達されるということではなく、他者からの借入れによっても調達されうるようになったとすればどうなるだろうか。

貸手は、彼が手渡した貨幣の代わりに借手の返済の約束を受けとるので(この約束は貨幣の「保蔵」がそうであるようには不時の支出には直接使えないので)、彼が放棄した流動性を償うために、利子の支払いを要求するであろう(どの程度の流動性を放棄するかは、一部は貸出しの条件に依存し、もう一部はその請求権を他人に売却しうる便宜の程度にも依存する。すなわち、資本市場の発展の程度に依存する)。(p72)

利子は流動性放棄の代価である。貸借期間が長期になるほど借手が請求される利子は高くなる(=貸手の流動性の欠如状態が長期化するため)。設定される利子率の水準は借手の信用や純資産ないしは担保となりうる資産の保有状態にも依存するだろう(=返済可能性が高いほど(あるいは流動性の欠如状態が将来的に回復される可能性が高いほど)利子率は低くなる)。流動性の状態に対して楽観的であるならば利子率は低位安定するだろうし、悲観的な場合にはどれだけ高い利子率支払いを約束されても貨幣の貸出しには躊躇するかもしれない。

資金貸借の機会が開かれるや貨幣供給の増加は単線的な所得増加ではなく(1のように)、循環的な所得変化を生み出すことになる。

新貨幣の生産者も、新貨幣で支払われた生産物の生産者も、その所得が増加するとは単純にいえない。同時に彼らの信用状態は改善され、借り入れることが容易になるであろう。少なくとも彼らの一部は、借り入れることを望み、われわれの第一のモデルよりも支出はさらに急速に拡大するであろう(引用者:最後の一文に(注)が付されています(以下注の内容);当初の拡張が単なる物価の上昇ではなく、実物的な拡張であるというヒュームの主張を念頭におくと、通常の「加速度」原理に従って投資増加への需要が生ずると予想することは不合理ではない)。(p72)

保有する貨幣量の増加→信用状態の改善→要求される利子率の低下あるいは貸出量の増加により、支出は1の場合(つまりは収入=支出の場合)を超えて拡大する(=貨幣量の増加に比例する以上に所得が増加する)。しかし、支出の増加傾向もいつまでも続きはしない。貸手はすべての貨幣を貯蓄するわけではなく(自らの支出のために幾許かの貨幣が必要である)、また保蔵された貨幣すべてを貸し付けるわけでもない(幾許かの流動性を保持しようと努めるはずであるから)。支出の拡大傾向が進行するにつれ、借り入れ可能な貨幣の絶対量は減少し(自らの流動性を維持するために貸出しに応じる人が少なくなってゆく)、要求される利子率も高まってゆく(=流動性放棄の代価が高まる)。高まる利子率は資金借り入れを抑制し支出を減少させていくことだろう。

また、貨幣を遊休させておくだけでは利子を返済することはできないので、高い利子率で資金を調達した借手はハイリターンを求めて少々疑わしい事業にも乗り出さざるを得なくなる。無謀な挑戦に乗り出す企業の様子を見て(中には債務を返済しきれずに倒産する借手も発生することだろう)、貸手は資金返済の圧力を強め、どれだけ高い利子率を提示されてももはや貨幣の貸出しには応じなくなる(あまりにリスクが高過ぎるためでもあるし、貸手自身の流動性の欠如がはなはだしいためでもある)。また、経済が拡大するにつれてコスト(賃金や仕入れ品の価格等)も上昇してゆくことから(当初の高い水準にあった)利潤も徐々に圧縮される。高い利子を返済するには物足りない水準まで利潤は縮小してゆくことだろう(=資金借り入れの抑制傾向を生む)。多くの負債を抱える借手は負債圧縮のために新規投資をさけて貨幣保蔵を選好する(=負債の返済を優先する)ことになる。単に支出が減少するというにはとどまらず(1の状態に落ち着いてゆくというわけではなく)、急激な支出の落ち込みを招く(1の状態以下に支出を押さえ込み、2の状態に近づく)ことになるかもしれない。

もし拡大が急速であるならば、上限との衝突も急激であり、危機が生ずる。この危機は、以前になされた貸付の流動性が疑問視されることから生ずる。貸付を行なった貸手は、その資本が減価するのに気づき、貸出しを増加させることに消極的になると同時に、資本のうち貨幣の形で保有する部分を増加させようとする。その結果、支出は急激に減少し、しばらくの間、システムは以前に議論したような「貯蓄超過」の状況に陥る。・・・以前の好況期になされた貸付のすべてが突然無価値になるという非常に極端な場合を考えてみよう。この場合においても(変わることのない)金属貨幣の供給があり、金属貨幣のすべてが、保蔵しようとしている人々の手元にあると仮定することは無理である。したがって、低い水準であるとはいえ、支出は継続する。好況の恩恵を受けない経済部門がかなりあり、衝撃があまり極端でない場合には、下限はそんなに低くはないであろう。新しい借手と新しい貸手がやがて出現し、回復が生ずるであろう(p73~74)

資金貸借の可能性が存在する経済において貨幣が漸増するとき(この場合貨幣供給が毎期mだけ増加している)、当該経済は均衡経路(=1の状態)をめぐる循環を示すことになる。流動性の状態に不安を覚えさせるほどの景気拡大(M上昇に比してのPQの急激な上昇)はやがて貨幣保蔵の傾向を生むことによって経済を均衡経路以下に落とし込み、2の状態(あるいはそれ以下)に近づいてゆく。漸増する貨幣供給によって流動性の状態が回復するにつれ、支出水準は徐々に高まってゆき、経済は均衡経路に向かって(あるいはそれを超えて)拡大してゆくことになる。

少なくとも二つ理由によってこの「循環」を跡づけることには意味があると考える。一方では、(我々が前提したように)銀行貨幣や他の紙幣がないときにも、景気変動-貨幣的変動-の可能性があることを示している。変動のための条件は、銀行業の存在ではなくして、資本市場の存在である。もう一つの理由は、この説明が貨幣数量説自身に新しい外観を与えることである。このような経済において可能な変動は、・・・均衡経路をめぐる変動である。貯蓄超過も負の貯蓄超過もない経路に沿って形成される所得は貨幣供給と比例的であると仮定するのは正当である。なぜならばこの経路に沿うときには、保蔵も負の保蔵もなく、貨幣は単に正常な仕方で循環しているだけである。しかし、経済はこの経路にはりついているとは限らない。この経路から乖離する範囲が制約されているに過ぎないのである。(p74)

ヒュームによれば貨幣供給量の漸増は一方向的な景気拡大を引き起こす可能性があるとのことであった。また、素朴な貨幣数量説論者(だけではなく貨幣数量説論者も)は貨幣供給の増加は長期的にはそれに比例する物価の上昇を招くだけであると説く。安定的に漸増する貨幣供給は均衡経路をめぐる循環を生む、というヒックスの議論は(経済は一方向的な拡大ではなく循環する動きを示すと主張することで)ヒュームの議論に一定の留保を表明し、また(均衡経路(Mの増加がPQの比例的な上昇を生む)についてしか語っていないということを明らかにすることで)素朴な貨幣数量説論者のあまりに単純な見方への抵抗を示すことによって、(古典的)貨幣数量説に「新たな外観」を与えんとする試みであると見なし得るであろう。(二つの貨幣数量説を同時にその中に含み込んでいるといえなくもないので)eclecticなヒックスの面目躍如といったところだろうか。

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2006年4月21日 (金)

インフレによる損失

現実には個々の貨幣賃金の下落をもたらすことなしに、たとえば(効率性の観点から望ましいと思われる)相対賃金の変化を容易にするという点で、低率のインフレーションは、少なくとも時には実際に長所をもつことさえも認めうる。しかし、この長所自身も、それが長所であるのは、貨幣価値に対するある種の信頼に依存している。重要なのは低いインフレ率であるということである。インフレーションが目立つ程度になってくると、ここですでに説明したような効果によって長所は圧倒されるに違いない。(『経済学の思考法』(第Ⅳ章 予想されたインフレーション)、p151)

穏やかなインフレ率=相対賃金の調整を容易にするという議論はアカロフ命題<パート1>と軌を一にするものである。穏やかなインフレ率は効率性の観点から見て望ましい。しかしながら、インフレ率(予想されたもの/予想されざるものにかかわらず)が高率になるにつれ、経済的な損失が徐々に顕著なものとなってくる。高率のインフレーション(特にハイパーインフレーションの場合)により、「貨幣は価値の貯蓄手段としての機能を失い、資源をやむを得ずより不便な形で保有することによって、他の方法で「便宜と安全」への必要性を充たさざるをえなくなる」。価値貯蔵手段として新たな資源を探索することは、非生産的な活動に時間を浪費することを意味し、その結果として経済の効率性を低めざるをえないであろう。また、頻繁に価格を改定せざるをえない高率のインフレーションのもとでは、価格が充たすべき二つの基準―経済効率と公正さの基準―のうち後者の基準を満足することが困難であるために「平静さを害する損失」を招くことになる。すなわち、

不完全な市場では、価格は「契約される」・・・。もし慣例が大いに利用しうるのであれば、すなわち、以前受け入れられたことは再び受け入れられるという仮定で出発しうるならば、(それが公正であるがゆえに)関係する当事者にとって満足しうるように価格を決めるのが、はるかに容易である。・・・持続的なインフレーションの下で行わなければならないように価格を新しくつけかえ、絶えず新しくつけかえ続けることは、損失、直接的な経済的損失と(きわめてしばしば)平静さを害する損失とをまねく。(同上、p150~151)

価格が公正である(と認識される)ためには、その価格が慣習的是認を受けている必要がある。しかし、高率のインフレーションの下では価格が頻繁に変更されるために慣習的是認を獲得するだけの十分な時間的余裕が存在しない。高率のインフレーション下では公正な価格体系を確立することは困難な作業であり、公正な価格体系の確立に失敗することは労働者のモラル低下等による経済効率の低下につながる可能性が大きい(これこれも参照のこと)。

インフレ率が高率になることによって生じる経済的損失としてはもう一点考え得る。

「特定の時点において」、企業活動のバランス・シートを吟味するならば、資産のなかに利子を生まない貨幣のみならず、利子が支払われないような債務〔証書〕が存在していることに気がつく。・・・継続的な顧客が負う債務は、それだけ切り離してみられない。それは、顧客と売り手にとって好都合なやり方で維持するのが両者にとって利益が生ずる継続的な関係の一部である。・・・(すでにみたように安定的なインフレーションにおいて生ずるに違いない)高い名目利子率の下では、無利子の債務に含まれる利子の損失を大きくする。そうでなければ債務者にかける必要のなかった圧力をかけ、債務を早く返済させるよう労を惜しまないことが引き合うようになる。このような圧力をかけることは、労働時間で測りうる実質的な損失である。

・・・もしインフレーションが非常に穏やかな率以上ではあるが一定に保たれるとするならば、金融引締めに似たことが例外的ではなく絶えず生じていることを示しているように思われる。(同上、p152~153)

インフレ率が穏やかな範囲にあるときには相対賃金の調整が容易になることから経済効率が高まることになる。しかしながら、インフレ率が上昇するにつれて経済的な損失が頭をもたげだし、経済効率にネガティブな影響を及ぼすようになる。経済効率と(自然)失業率の間に1対1のパラレルな関係(経済効率の悪化=(自然)失業率の上昇)を想定しうるかどうかには慎重であらねばならないが、ヒックスのこの議論は後方屈折型の長期フィリップス・カーブの存在を指摘するアカロフ・中谷命題と補完的なものとして捉え得るのではないだろうか。

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公平賃金仮説をたずねて(補足)

ちょっとばかり余計な補足をば。

(相対)賃金体系が公平であると感じられるためには慣習的な是認を得ている必要がある、とのことですが、これは長期間にわたる物価安定が実現されている(ないしは安定したマクロ経済環境が維持される)状況において公平な賃金体系の確立が可能になる、と言い換えてもよいかと思われます。好況と不況の振幅が大きい不安定な景気変動は循環過敏的(cycle-sensitive)な業種の賃金変動を大きくすることにより、公平であるとみなされていた(相対)賃金体系を覆してしまう危険性を有します。ブームが長引けば、循環過敏的な産業で始まった賃金上昇は(高賃金を求めて非拡張的産業から拡張する産業へと)労働移動を惹起することによって(労働不足に直面するために)非拡張産業にまで波及し、非拡張的産業(特に賃金の上昇が波及していない部門の)の労働者たちは「自分たちは取り残されている」と感じるために賃金引き上げを要求するようになります。上昇してゆく賃金に自分たちの賃金を「追いつかせようとする」圧力は、「よき労資関係」を維持しようと心がける雇用者に賃上げを容認させ、結果として労働不足に加えて不公平のために賃金が上昇してゆく状況が一般的なものとなります。一度公平な賃金体系が覆されてしまうと労働が不足していようがいまいが、不公平感を和らげようとする社会的圧力(「すべてひとが、なにやかやと比較して、自分は取り残されていると感じる」)によって賃金は上昇してしまうのです(ヒックスは1960年代後半~70年代前半当時のスタグフレーション(正確にはスタグフレーションという言葉が生まれる直前の時期)を念頭において議論を展開している。詳しいことは別の機会に言及するかもしれないが、「賃金プッシュ」がインフレを生んだ、という単純な関係を想定しているわけではない。以前取り上げたDeLongの議論と非常に似通った問題意識を有しており、過度の景気刺激策(←ケインズ理論の影響によって政策の優先性の順序が(価格・賃金の安定性から雇用の維持へと)変わってしまったためである)こそが元凶であると考えている)。

公正な賃金体系にも問題は存在します。確立された公平賃金体系は賃金の粘着性を生むからです。雇用者は労働力が不足したからといって賃金を引き上げるようなことはしません。安易に賃金を引き上げてしまえば、長い時間を経て確立された賃金格差を覆してしまうからです(確立されたものが一度破壊されれば、上述したように公平を求める社会的圧力を生み出すことになってしまいます)。また、失業が存在していても雇用者は賃金を引き下げようとはしません。「賃金を切り下げれば、雇用者は引き続き雇用している人びとと疎遠になってしまうから」です。

賃金の「粘着性」は「貨幣錯覚」と関係する問題ではない。それは連続性と関わる問題なのである。もちろんそれは、労働組合の標準賃金(standard rates)によって強化されるだろう。しかし、たとえ労働組合の圧力がなくとも、同一方向への傾向が存在するはずである。(『ケインズ経済学の危機』、p92)

(個別企業の観点からばかりではなく社会全体(他企業・他産業との賃金格差を維持しようとするわけであるから)を見渡した上での)現存の労資関係を円滑にせんとする努力は失業者に対する逆風となります。賃金が粘着的になる(この場合は下方硬直的になる)ことによって(雇用者は「引き続き雇用している人びと」に配慮して賃下げに躊躇するからです)、失業者がヨリ低い賃金で働く意思を有していても職を獲得できるわけでは必ずしもないからです。労資間で共有される公平(fair)の感情は失業者の犠牲の上に成り立っている、とも言いうるわけです。

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公平賃金仮説をたずねて

大部分の労働市場、そしてすべてのかなり重要な労働市場は、規則的である(=長期的、継続的な関係の上に成立している、という意味;引用者注)。さて、規則的雇用においては、単に効率という点からいっても、雇用者と被雇用者との双方が、両者の関係になにがしかの持続性を期待しうることが必要である。・・・雇用関係が満足のいくものでないかぎり、ないし少なくともそこにある程度の満足がないかぎり、そのような信頼関係は存在しえないであろう。したがって、効率のためには、賃金契約がどちらの側からも、だが特に労働者によって、公平(fair)だと感じられることが必要なのである。

公平とはいったい何なのであろうか。・・・必要なことは、第三者、ないし裁定者が一般的諸原則を適用して、公平な賃金を規定するということではない。必要なことは、労働者自身が自分は公平に遇されていると感じていることである。・・・Aは、(自分よりも価値があると自分が思わない)Bが自分よりもより高い賃金を得るのは不公平だ、と言う。しかし、より高い賃金を得ているBもまた、Aの賃金が自分の賃金よりも速く上がれば、それは不公平だと考えるかもしれない。Cは、もし彼の雇用者が大きな利益をあげたのに自分の賃金を上げてくれなければ、それは不公平だと感じる。しかし、もしCの雇用者がCの賃金を上げれば、(自分たちの雇用者がそのような大きな利益をあげてはいない)他の人びとは、それを不公平と考えるであろう。もし物価が上昇しているのに賃金がそれと同一比率で上昇しなければ、それは不公平だと感じられる。しかし、賃金が物価より速く上昇しても、一、二年前と同一の速さで上昇しなければ、これまた不公平と感じられる。・・・提起される公平性に対する諸要求のすべてを満足させるような賃金体系などというものは、まったく達成不可能なのである。いったん疑問がもたれだせば、いかなる賃金体系といえども、公平だなどということには決してならないであろう。・・・過去においてわれわれが、現にそうだったように、ともかくもなんとかやってきたのは、どのようにしてなのであろうか。それは、ただ単に賃金体系というものがこれまであまり疑問視されてこなかったからである。・・・そのような情況が起こるためには、賃金体系が十分に確立されており、その結果それが慣習的是認を得ていることが必要である。そうすれば、それは、期待されているようなものになる。そして(明らかに低水準の公平性ではあるけれども)期待されているようなものは、公平なのである。(『ケインズ経済学の危機』、p89~91)

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2006年4月10日 (月)

Hicks新刊

今回はマジネタ。

John Cunningham Wood (ed.)、“Sir John Hicks: Critical Assessments. 2nd Series. 2 vols.(Critical Assessments of Contemporary Economists)

所収論文等ヨリ詳細な内容についてはこちらをご覧あれ。

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2006年4月 2日 (日)

パティンキンとヒックス

The Patinkin-Hicks Correspondence, 1957-58 http://scriptorium.lib.duke.edu/economists/patinkin/

Don Patinkin著『Money, Interest, and Prices: An Integration of Monetary and Value Theory』を巡って新古典派総合(`neoclassical synthesis')の立役者であるパティンキン/ヒックスの間で1957年から1958年にかけてやりとりされた計5通の手紙。ヒックスの批判(“A Rehabilitation of Classical Economics?(1957)”)―パティンキンの議論(デフレーションの進展によって実質貨幣量が増大する結果、経済は長期的には完全雇用均衡に回帰する=非自発的失業は短期的な現象に過ぎない)はケインズの議論(非自発的失業は長期的にも解消されない)を否定し、新古典派の復権を唱えるものでしかない―に対するパティンキンの返答(“Keynesian Economics Rehabilitated(1959)”)には既に本(『Money~』)の中で述べられている以上のことは含まれていないように見受けられるのに、どうしたわけかヒックスはそれ以降批判を引っ込めてしまった。どうやらヒックスはパティンキンの返答に説得されたようである。しかしながら、どうも釈然としない。なぜヒックスはパティンキンの(説得的とは思われない)返答に対して再批判を寄せなかったのか?

その疑問に答える(モヤモヤを晴らす)のがこの5通の手紙=パティンキン-ヒックスの文通の記録、ということです。ヒックスの字見たの初めてかもしれないな~。一枚目の手紙は最初の“Your letter”までは解読?できました・・・。タイプし直してくれた人、どうもありがとうm()m。時間見つけてじっくりと吟味したいところですね。

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2006年3月17日 (金)

ヒックス関連論文

たまにはHicksianらしく。全部pdf版です。

高田保馬、“ヒックス利子理論について” 

同上、“ヒックスに於ける同時性の問題

青山秀夫、“ヒックスの生産理論

同上、“ヒックスの資本理論

同上、“ヒックスの利子理論

同上、“ヒックスの利子理論(承前)

Michel R. De Vroey、“The temporary equilibrium method:Hicks against Hicks

Edwin Burmeister、“A Retrospective View of Hicks' Capital and Time

Tonu Puu, Laura Gardini, Irina Sushko、“A Hicksian Multiplier-Accelerator Model with Floor Determined by Capital Stock

同上、“The Hicksian floor–roof model for two regions linked by interregional trade

K. Vela Velupillai、“Hicksian Visions and Vignettes on (Non-Linear) Trade Cycle Theories

Ajit Zacharias、“A Note on the Hicksian Concept of Income

Paul Flatau、“Hicks’ The Theory of Wage:Its Place in the History of Neoclassical Distribution Theory

Colin Richardson、“Traverse Analysis: Progenitors and Pioneers

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