2006年10月 9日 (月)

祝・フェルプス

2006年度のノーベル経済学賞(正式名称は以下略)は「マクロ経済政策の異時点間にわたるトレードオフの分析」に多大なる貢献をなしたE.フェルプス氏に授与されることが決定いたしました。

The Royal Swedish Academy of Sciences has decided to award The Sveriges Riksbank Prize in Economic Sciences in Memory of Alfred Nobel 2006 to

Edmund S. Phelps(Columbia University, NY, USA)

“for his analysis of intertemporal tradeoffs in macroeconomic policy”.

http://nobelprize.org/nobel_prizes/economics/laureates/2006/press.html

オールド・ケインジアンの黄金時代=1950~60年代、フィリップスカーブ(=インフレ率と失業率との安定的なトレードオフの関係)は政府による総需要管理政策(=ファインチューニング)に基づく経済安定化のための後ろ盾として・・・・やめた。私にゃニッチあるいはただ乗りがお似合いです。

まずは海外ブログの反応をご紹介(後日補充予定)。

Marginal Revolution(by Tyler Cowen);

Edmund Phelps -- Today's Nobel Prize in economics http://www.marginalrevolution.com/marginalrevolution/2006/10/nobel.html

Greg Mankiw's Blog (by Gregory Mankiw);

The envelope, please       http://gregmankiw.blogspot.com/2006/10/envelope-please.html

Phelps on Capitalism       http://gregmankiw.blogspot.com/2006/10/phelps-on-capitalism.html

Dynamic Capitalism(by Edmund Phelps;マンキューブログ他で取り上げられているフェルプスのWSJへの寄稿文)          http://www.opinionjournal.com/editorial/feature.html?id=110009068

macroblog(by Dave Altig);

A Nobel Clarification http://macroblog.typepad.com/macroblog/2006/10/a_nobel_clarifi.html

William J. Polley(by William Polley)

Phelps receives Nobel  http://www.williampolley.com/blog/archives/2006/10/#000699

Justice for the entrepreneur  http://www.williampolley.com/blog/archives/2006/10/#000700

EconLog(by Arnold Kling);

Phelps and the Nobel http://econlog.econlib.org/archives/2006/10/phelps_and_the.html

The Austrian Economists(by Peter Boettke);

Nobel for Edmund Phelps http://austrianeconomists.typepad.com/weblog/2006/10/nobel_for_edmun.html

Mises Economics Blog(by Frank Shostak);

Did Phelps Really Explain Stagflation?                http://www.mises.org/story/2351

日本のブログも負けていません(お二人のどちらかが世界一の速さでエントリーしたことはおそらく間違いないと思われる)。

Economics Lovers Live(by tanakahidetomi);

ノーベル経済学賞だよ、全員集合  http://d.hatena.ne.jp/tanakahidetomi/20061009

日々一考(ver2.0)(by econ-econome);

ノーベル経済学賞2006年受賞者                            http://d.hatena.ne.jp/econ-econome/20061009/p2

フェルプスの話題じゃないですけどもノーベル賞ついでに。「彼 or 彼女にはノーベル賞獲っといてもらいたかった」(=「選考委員会がちんたらしてる間にどれだけの該当者がこの世を去ったことか・・・」)。

Cafe Hayek(by Don Boudreaux);

They Should Have Gotten the Prize (Again)http://cafehayek.typepad.com/hayek/2006/10/they_should_hav.html

受賞理由の一つである自然失業率仮説あるいは期待修正フィリップスカーブ(=フィリップスカーブを短期/長期に区別)に関しての詳しい議論は、『経済思想の歴史』の該当箇所および銅鑼先生のご説明を参照のこと。

もう一つの受賞理由、「the desirable rate of capital formation」 across generations(=黄金律)ならびに新技術の普及と経済成長に対する人的資本(human capital)の重要性への早くからの注目、に関してはコールズ研究所のHPにて幾つかの論文が読めると思ふ。

あとフェルプス関連で面白そうな論文を1つ2つほど。

Philippe Aghion, Roman Frydman, Joseph Stiglitz, and Michael Woodford、“Edmund S. Phelps and Modern Macroeconomics(pdf)”

この論文は『Knowledge, Information, and Expectations in Modern Macroeconomics: In Honor of Edmund S. Phelps』に所収されているもの。まだ読んでないんで紹介するのはちょっとばかり気が引けるんですが、

Michael Woodford、“Imperfect Common Knowledge and the Effects of Monetary Policy(pdf)”

も同書に所収。

ダウンロードしたきり未読状態でほったらかしにしていた

Edmund S. Phelps、“For a More Insightful Macroeconomics:What Departures Would be Reguired?(pdf)”(Joseph E. Stiglitz Festschrift: Economics for an Imperfect World -A Conference for Joe Stiglitz's 60th Birthday-

も今回をよい機会として目を通しておくことにしよう。

(追記)自然失業率仮説に関するフェルプスの論文。コーエンが既に紹介してますけども。

Edmund S. Phelps、“The origins and further development of the natural rate of unemployment(pdf)”(in Rod Cross(編)『The Natural Rate Of Unemployment, Reflections On 25 Years Of The Hypothesis

Edmund S. Phelps and Gylfi Zoega、“The Rise and Downward Trend of the Natural Rate(pdf)”

フェルプスの最近の論文はこちらからダウンロード可。

ルーカスの受賞から遅れること10年、フリードマンの受賞からは30年の遅れ。フェルプス先生の長年の苦労に報いるためにも、・・・明日は朝一で図書館に向かおう(Edmund S. Phelps(編著)『Microeconomic Foundations of Employment and Inflation Theory』 を借りてくるのです)。

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2006年5月29日 (月)

もう一つの多様性―the within variety

●Tyler Cowen、“The Fate of Culture(pdf)”(Wilson Quarterly

The argument that markets destroy culture and diversity comes from people across the political spectrum.・・・・ Duke University's Fredric Jameson sums up the common view:“The standardization of world culture, with local popular or traditional forms driven out or dumbed down to make way for American television, American music, food, clothes, and films, has been seen by many as the very heart of globalization”.

グローバリゼーションは全世界のアメリカ化―アメリカ的価値観およびアメリカ的文化(生活様式)を全世界に広めようとする(あるいは伝統的文化をアメリカ的文化で置き換えようとする)―を目標とする啓蒙主義的/普遍主義的な運動なのであって、その結果は各社会間の文化的多様性(=the across variety)の(アメリカ的文化への)均質化である。グローバリゼーションとは文化的多様性の破壊活動―各国および各社会の(過去から連綿と受け継がれてきた)伝統的・土着的な文化の破壊活動(あるいはアメリカの文化的覇権確立の推進活動)―に他ならないのだ、

・・・・と結論するのは性急にすぎる。

実のところグローバリゼーションの過程において以前とは比較にならないほど促進されている文化的多様性が存在している。それは、the within varietyという名の文化的多様性である。

It can also refer to the variety of choices within a particular society. By the standard, globalization has brought one of the most significant increases in freedom and diversity in human history. It has liberated individuals from the tyranny of place.

グローバル化の進展により確かにthe across variety=社会間の多様性、はなくなってきているのかもしれない。しかし、the within variety=社会内部の多様性=社会内部の個人が有する文化消費の選択肢の拡大(種々の文化に接する機会の増大)、の程度はグローバリゼーション=社会間での文化的生産物の交換(cross -cultural exchange)の活発化の結果としてヨリ一層高まってきている(CDショップだとか書店だとかに足を運べばこのことは一目瞭然である)。また、the across varietyが消失の危機に直面しているというのも誇張しすぎな物言いであって(全く問題ではないというわけではないけれども)、世界の片隅でしか知られていない超マイナーな文化生産物―民族音楽とか―も世界市場に開放されることによって消費者という名のパトロンを獲得しその命脈を保ちえているのである(アダムスミスの格言「分業は市場の広さに制限される」の一例か)。

the across varietyを重視する論者は地域間の文化的多様性を称揚する一方で個々の文化に関してはその変容を一切認めない=今あるままの姿を維持しようする傾向にあるが、多様性を称揚するのであれば現時点における各社会間の文化的多様性(=空間的多様性)だけでなく一文化の時間を超えた多様性(=diversity over time;歴史的多様性=時間の経過に伴う一文化の変容)にもそれなりの評価をするべきではないだろうか。そもそも伝統文化・土着文化というけれどもその社会内部で純粋培養された文化が外界との接触を一切持つことなく存続してきた例は乏しいのであって、例えば(一見外界から隔離されてるかに見える)アフリカのとある民族文化なども外部世界との接触により技術・知識を摂取する=自身の文化と外部の文化を総合する/組み合わせることでその姿を微妙に変えつつも今ある型を形作ってきているのである(creative destruction is nothing new, and it's misleading to describe their cultures as "indigenous".)。文化は創造的破壊の過程を何度も潜り抜けることにより、その活力を維持し続けることができるのだ(歴史を振り返ってみても文化的な成熟をみるのは自由貿易の拡大期、外部との接触が拡大している時期である。文化の活力あるいは創造力は外部世界からの影響をいかに巧妙に自己の内部に取り込むことができるかにかかっている。実はヒックスも『経済史の理論』第4章で似たような議論=商業の拡張期(正確にはその末期)に知的・文化的成熟が随伴する、を展開してたりする)。

the across varietyの程度がどれだけ高かろうが(=objective diversity)、その多様性を享受できる人間が(地域的に)ごく狭い範囲に限られているのでは何の意味もない。ヨリ多くの人々がヨリ多くの多様性を楽しめること(=operative diversity)こそが重要なのである。cross -cultural exchangeとしてのグローバリゼーションは遊休状態にある(あるいは非効率的に利用されている)多様性の無駄のない活用あるいはヨリ効率的な活用を促進する一種の潤滑油としての役割を担っていると言い得る訳である。

おそらくTyler Cowen著『Creative Destruction: How Globalization Is Changing the World's Cultures』の要約的なものだと思ふ。Bryan Caplan and Tyler Cowen、“Do We Underestimate the Benefits of Cultural Competition(pdf)”も参考になるかと。

*意味のわからない箇所ならびに読みにくい箇所があったので一部に手を加えました(2008/5/21)

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2006年5月24日 (水)

79年のレジーム転換

John B. Taylor、“The International Implications of October 1979:Toward a Long Boom on a Global Scale(pdf)”

1979年10月6日のFOMCの決定―ヴォルカーが主導した―はその後の“Great Moderation”(Ben Bernanke、“The Great Moderation” ならびに“The Benefits of Price Stability”参照)あるいは“Long Boom”(John B. Taylor、“Monetary Policy and Long Boom(pdf)”参照)をもたらすことになる一種のレジーム転換として位置づけることができる。物価安定への力強いコミット―ディスインフレ過程における痛み(から生じるFRB執行部への高まる不満)にもめげることなくインフレ退治に不屈の精神をしめしたヴォルカーら執行部―、FFレート操作における“greater than one” principleの導入はインフレ期待の低位安定化に通ずることによって“Great Moderation”あるいは“Long Boom”の到来を用意した。ヴォルカーの遺産はアメリカ一国だけにとどまらず、世界中の中央銀行の遺産ともなり、その結果が世界規模での“Great Moderation”あるいは“Long Boom”なのである(John B. Taylor、“Lessons Learned from the Implementation of Inflation Targeting(pdf)”参照)。

時間があればもう少し肉付けするかも知れぬ。

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2006年5月 5日 (金)

プチ・西部翁ブーム<続報>

続報ですよ。ただ乗り企画第二弾ですよ。韓リフ先生、梶ピエール先生、econ-economeさん諸氏の心温まるご協力(?)に感謝でありますm()m。

不肖hicksianのmixi日記より。

『経済倫理学序説』 読みました。観念と事実の、ミュートスとロゴスの、日常(=パン)と非日常(=サーカスあるいは遊び)の、自由と計画の、エトセトラエトセトラ・・・一見すると背反する価値の間に平衡を保つ(単に折衷するというのではなくて)ことの必要性(あるいはその困難なさま)がケインズとウェブレンの著作・生涯を参照しつつ論じたてられております。読み進めている途上で間宮陽介著『ケインズとハイエク』を思い出しましたね~。ヤコブソンの言語障害の議論は確か『大衆への反逆』に所収されてましたよね。これも読んでおこうっと。

興味深く読んだ部分を少しだけまとめ。ハーヴェイロードの既定観念(=イギリス帝国の安定を所与の前提と考えること、知的貴族の説得と指導の必要性の認識)がケインズをとらえて放さなかった諸要因について。

1.ケインズの個人的な気質としてのエリート意識

2.“上流階級の社会主義”に多少とも染まっていたため(=社会的公正を追及する態度が備わっていた=公共善の実現のために奔走することを当然のことと考えていた)

「単なるエリート意識だけではケインズにおけるような賢人支配の傾きは出てこない。エリート意識は孤高の隠遁者という形においても満たされうるからである。公共善もしくは共同善の存在をナイーブに肯定する態度がつけ加ったとき、エリート意識は指導者意識に転化する」(p55)

3.活動主義の思想

以下、上掲の内容のない日記とはうってかわって怒濤の、かつ濃密なコメントの嵐(若干1名除く)。前回以上に責任無編集な姿勢(=責任を持って可能な限りコメントに手を加えない姿勢)を貫きたいと思います。

田中版西部理論が産声をあげる。

韓流好きなリフレ派  『ケインズ』と『知性の構造』を読了w ←このwは何?。
生きるとは意味の葛藤、価値の葛藤という異なれる二項の葛藤の「平衡」と見つけたり、だそうです。
「平衡」としての「慣習」。「慣習」の中には正気も狂気も、そして合理も非合理な要素もあるがそれらを「平衡」しているのがまさに「慣習」たるゆえん。ケインズの経済学の一番面白いところと西部が思っているのは、ケインズからの次の引用ではないでしょうか。

「完全雇用を備えるのに十分なほどの高水準の有効需要を維持するに当たっての諸困難は、慣習的でかなり安定的な長期利子率が気まぐれで高度に不安定な資本の限界効率と結びとくことから生じる、このことは読者にはいまや明白なはずである」。

資本の限界効率へのマイナスのショックは不確実性ゆえで、このような不確実性への対処として慣習が存在するゆえに、不確実性を「慣習化」(これは田中の表現ね)してしまうことに有効需要不足の長期的持続の根源がある、といえる。もちろんこのような不確実性への「慣習」の対応は社会をさらなる不確実性に招くために「慣習」自体の「平衡」作用は著しく損なわれてしまう。だが「慣習」自体がそもそも西部にあっては社会の合理的側面と非合理的側面の「綱渡り」的な性格を有するためにそのような事態が起きても不思議ではない。そのような「慣習」の非平衡化を防ぐために、ケインズは投資と貯蓄の社会的調整=つまりは「慣習」の政策的平衡化を説いたとみなされるだろう。
例えば『知の構造』ではこのケインズ解釈とは違う局面(精神の局面)で、次のように平衡化が説かれている。

「漸進主義とは、深刻な心理的葛藤に直面したとき、それらを平衡あるいは総合させるべく慎重な態度をとることから必然的に要請されるものだ」。

コンサバで日和見 違)。つまりケインズの貯蓄と投資の社会的調整を精神の場でも漸進主義(葛藤の調整)として表現しているわけである。ケインズ主義が漸進主義ともいわれる所以ともいえるかもしれない。 

韓流好きなリフレ派  つまり西部の『ケインズ』が面白いのは、不確実性による資本の限界効率へのマイナスのショック が、「慣習」を通じて長期利子率に反映されて、(西部は書いていないが)流動性の罠に陥るような有効需要の長期持続の可能性を暗示しえたこと。
この「慣習」として西部はもちろん「貨幣」をとりあげているわけで、不確実性ショックが貨幣という「慣習」によって調整され、それが社会そのものの平衡をかえってあやうくするような形として再「慣習」化されてしまう(つまり貨幣バブル=デフレの長期持続)。この貨幣バブルを平衡化させるには、政策的で漸進的な調整が必要である、というふうに西部理論を田中風に解釈できる。
さらに付け加えるならばそのような政府の貨幣バブルを正す再平衡化はファインチューニングともいえ、さらに市場の「慣習」と交渉・コミュニケーションをしながら平衡化への改善を図るという意味では、現在のインタゲも田中版西部理論(笑)も有効性を主張できるだろう。
流動性の罠の脱出や中銀の金融政策全般における市場とのコミュニケーション(市場とともに慣習を漸進的に形成すること)の有効性を説いた専門論文としては以下を参照。

Central-Bank Communication and Policy Effectiveness(pdf)” [Publication draft of paper presented at FRB Kansas City Symposium on “The Greenspan Era: Lessons for the Future,” Jackson Hole, Wyoming, August 25-27, 2005]

岩井克人先生(第3弾のもう一人の主役?)の登場です(ヒックスもちょっとだけ顔を出します)。

econ-econome  西部理論の核は動態的側面に内在する不確実性のリスクを克服する要素としての「慣習」の必要性、相互の信頼関係の醸成の必要性の主張ですよね。彼に倣って述べれば「生者の資本主義」ではなく「死者の資本主義」、そして過去の歴史から得られる反省からもっと学ぶべきかもしれません。

岩井克人氏の「21世紀の資本主義論」でも、貨幣の持つ不安定性、国際化による「差異」の消失が市場経済の不安定要因となりうる事などが述べられていて、西部理論が浮かび上がらせる「貨幣の不安定さ」の認識は同一だと感じました。ただ、岩井氏の場合はそこからハイパーインフレの危険性に話が飛んでいく訳ですがw

岩井理論に基づけば、基軸通貨国である米国の貨幣に対する信認が失われる事(ハイパーインフレ)こそ危機だと書かれていますが、現状は安心といった所でしょうか。

韓流好きなリフレ派  岩井氏の『不均衡動学の理論』というのがありますが、あれは何度挑戦しても途中で根負けしてしまうのでこれを機会に読もうかしら。
西部はあと知識人論をいくつか読もうかと思います。例の東大教養学部騒動に関連して、村上泰亮なんかも書いてますよね。 

hicksian  前回は完全なる傍観者でしたので今回はちょっとだけでも(自らの非力を省みずに)発言者として参加いたしたい所存。まずは引用(『経済倫理学序説』より)。

「ケインズはこうした事柄(いくつかの経済変数に硬直性あるいは粘着性があるということ;引用者)を、市場のマージナルな機能障害として捉えたのではなく、むしろ市場機構の存立条件とみなしたのだ、と私は思う。換言すれば、経済の秩序は、それを取巻く社会心理や社会制度の慣習的な安定性によって、保たれるということである。」(p78)

経済外的な要因(=貨幣賃金の硬直性)によってこそ貨幣経済はその不安定性(累積的インフレ・デフレ)から救われるのである、との岩井不均衡動学論の主張と似てなくもない。しかしながら、先の引用のすぐあとで

「この秩序は、しかし、根本的な矛盾をはらんだままの秩序である。なぜなら、社会の慣習的な圧力によって市場価格の変動域がせばめられれば、需給一致の均衡価格が成立しないかもしれない。たとえば、賃金が硬直的なら失業が発生するかもしれない。反対に、均衡価格が易々と成立するとすれば、それは社会の慣習が弱まったことの結果なのかもしれない。・・・社会的慣習と経済的競争のあいだには、互いを異物として排除し合う可能性があるのである。」(p78~79)

と述べられているわけですが。

西部翁の小泉構造改革路線への反発は、構造改革(西部的に言うとアメリカ流の個人的自由主義と技術的合理主義を推し進めることを目的とした徹底的な規制緩和路線)は慣習の非平衡化を促進するものであるとの認識からきているのでしょうかね。

「クリエイティブ・デストラクション(創造的破壊)の概念はあきらかに誤用されている。その概念は、破壊のなかから創造が生まれる、というバクーニンもどきのことをいっているのではない。新たな創造への活力というものが人々のうちにまずあって、その創造的活力が具体的に発揮されることにより、古い制度が破壊されていく、それが創造的破壊ということなのだ。それにもかかわらず、たとえば我が国の「失われた90年代」では、まず旧弊を破壊せよ、そうすれば新規の創造が生まれると囃されている。」(『保守思想のための39章』(手元にある西部翁コレクションの中で一番新しい本です)、p175)

econ-econome  恐れをしらずにコメントをw
ふむふむ・・西部理論は社会的慣習と経済的競争の間の関係を異物として排除しあうものではないか、という認識なのですね。経済的効率性を追求すればそれは慣習が弱まっている事を示唆しているかもしれない・・と。

経済的競争と社会的慣習との力関係の度合いによって成立する均衡(不均衡)をどのように評価すればよいのかといった話を考えていくと、中々興味深いですね。新古典派総合っぽい話になるんでしょうか。もしくは田中先生が先にコメントされた経済政策の話に繋がっていくんでしょうかね。

韓流好きなリフレ派  外的なショックに対して、岩井氏のようにうまく社会的慣習がショックを吸収して社会の平衡化をもたらす場合もあれば、ケインズや西部氏の指摘したように短期的なショックへの社会的慣習の対応そのものがかえって非平衡化をもたらすということもあるのでしょう。

西部氏の議論を読んでいると奇しくも 笑 私が去年(構想したのはもう10年前)、経済学史学会という物好きな(でも面白い)学会で報告した三木清と笠信太郎の議論に極めて似ているな、と思いました。

自作自演のようですがw以下がそのときのファイルです。
http://society.cpm.ehime-u.ac.jp/shet/conference/69th/69paper/226tanaka.PDF

この論説の4ページ目の図表1の解説にもなりますが、このレジュメの「制度」は上の西部の議論を流用して「資本の限界効率へのマイナスのショック」と読み替えて、「組織」は「社会的慣習」と読み替えてみます。三木では「組織」(西部の「社会的慣習」)は、合理的なものと非合理的なものの統一、またはロゴスとパトスの統一として表れています。西部的な二項対立の坩堝としてあるわけです。で、資本の限界効率へのマイナスのショックという環境に応じて、この「組織」=「社会的慣習」は適応していくわけですが、上の岩井と西部の比較のように成功すれば「成果」をあげるのですが、失敗すれば「不安の増産」をもたらします。この場合、この成否は人間論的な次元(西部の『知性の構造』のレベル)で、適応への成功=「平衡化」すれば、その適応の担い手たる主体は「全人的テクノクラート」としてあらわれ、失敗すれば「小人的テクノクラート」としてあらわれます。この環境の変化への組織=「社会的慣習」の適応の成否を握るのは、「社会的慣習」の一部である「技術」がうまく実行されるかどうかです。技術の担い手なのでテクノクラートですが、実際のイメージですと「官僚」(日銀マンw)でしょうか。

いささか単純なシェーマ化ですが、こうみると西部氏は戦前の「近代の超克」路線たる三木や笠の後継としての位置にいるようにも思われますね。

小泉の構造改革を西部氏は批判していますが、実はその手法そのものは開発主義的な発想、産業政策的な発想にきわめて近い位置にあるのかもしれません。三木や笠がそうだったように。

あと西部氏の強調する知識人の役割ですが、まさに上の三木・笠の図式での「全人的テクノクラート」か「小人的テクノクラート」か、という論点と密接になっているのかもしれません。少なくともすでに多くの著作を読んだ村上泰亮はそうみなしてもいいでしょう。西部はいかに? それはこれから読みますが。 

梶ピエール  西部翁とはちょっと離れますが、岩井克人の資本主義論や『不均衡動学』の話が出てきましたので、それに関して少し。
岩井氏の資本主義論、特に最近の会社論はシュンペーターの影響が濃厚なわけですが、それについてはhicksianさんの以下のエントリがここでの話にも関係しており、参考になるかと思います。
http://econ.cocolog-nifty.com/irregular_economist/2005/07/hicksian_50b6_1.html

で、『不均衡動学』ですが、僕も学部時代に読もうとして挫折していますがw、後で考えるとヴィクセルをきちんと理解しないであの本を読もうとするのはやはり無理だったのではないかと。それくらいケインズというよりもむしろヴィクセルが理論の基礎になっている本ではなかったかと思います。
で、そのヴィクセルの累積過程が「不均衡過程」でもあることの丁寧な説明を行っているのがほかならぬヒックスだったりします(『経済学の思考法』第Ⅲ章「貨幣的な経験と貨幣理論」2ヴィクセル)。もちろん、hicksianさんがこれを見逃すはずもなく、以下のエントリがもろその辺のことを扱っており、これも大変参考になります。
http://hicksian.cocolog-nifty.com/irregular_economist/2006/04/rise_and_rise_a_a14f.html

ただ、ここで紹介されているのは金利の変化に対する資本財市場と消費財市場の反応の差から生じる「不均衡過程」ですが、ヒックスの本でそのすぐ前に出てくる、期待インフレ率の調整に一定の時間がかかることからやはりおなじようなメカニズムが生じるという「不均衡過程」の説明も大変興味深いものに思えます。
もし今度岩井氏の本を読むときには、この辺の議論を頭に入れつつ読んでいくと多分理解できるんではないか…との甘い期待を抱いているわけですが、どんなもんでしょうか。 

梶ピエール  あと西部氏の著作で今僕が読んでみたいのは彼のアメリカ滞在記である『蜃気楼の中へ』ですね。自分が今住んでいて感じることですが、アメリカの中でもバークレーという街ほど西部氏に似合わないところはないような気がします。「伝統」とか「保守」という言葉をとにかく毛嫌いする風潮が強いところですからね。なんでわざわざこんなところを留学先に選んだんだろう?個人的には西部氏の反・経済学的傾向が加速したのはこのときの経験が大いに関係しているのではないかとにらんでいます。

…というわけで早速「復刊ドットコム」に一票投じてきました。
http://www.fukkan.com/vote.php3?no=30212 

hicksian  >『不均衡動学の理論』
実は私も途中で挫折w。古本市場にもなかなか出回っていないようでして、挫折して以降今日まで通読する機会を得ておりません・・・orz。コールズ研究所のHPより関連論文がダウンロード可能ではあるようですが。http://cowles.econ.yale.edu/P/au/d_ij.htm#Iwai,%20Katsuhito(追記;Katsuhito Iwai、“Disequilibrium Dynamics; A Theoretical Analysis of Inflation and Unemployment”の全文がダウンロード可能!ですってよ。http://cowles.econ.yale.edu/P/cm/m27/index.htm

>期待インフレ率の調整に一定の時間がかかることからやはりおなじようなメカニズムが生じるという「不均衡過程」の説明
「擬似的な自然利子率」と「真の自然利子率」の乖離の議論でしょうかね(p85~90、特にp85~86)。この議論の面白いところは金融政策を一時的/持続的なものに分別したうえで、「擬似的な自然利子率」が「真の自然利子率」に一致するためには将来の価格期待を変更させるほどに金融政策が持続的である必要あり(将来価格の上昇を保証するほど金融緩和政策が将来にわたって続く)、と読み替え可能であるという点です。例えば金融緩和が一時的なものとして理解されていれば、将来の期待価格が不変である一方現在の価格は上昇するために「擬似的な自然利子率」は「真の自然利子率」を下回ることになる。「真の自然利子率」>市場利子率ではあっても、「擬似的な自然利子率」=市場利子率である限り(=将来の期待価格が不変である限り)金融緩和の効果は小さなものとしかならない。将来の期待価格が上昇する(=将来にわたって金融緩和が持続される)と期待されるのであれば、「擬似的な自然利子率」は「真の自然利子率」に向かって上昇していく、つまりは「真の自然利子率」=「擬似的な自然利子率」>市場利子率となる。「擬似的な自然利子率」が「真の自然利子率」に一致した状況において市場利子率が「真の自然利子率」を下回っているならば、その後は累積的なインフレが発生することになる。累積的(インフレ・デフレ)過程は将来期待の変更を伴って初めて進展可能なものとなるということです。

『経済学の思考法』第Ⅲ章「貨幣的な経験と貨幣理論」には他にも色々と興味深い議論が散見されまして、例えば4節の「われわれ自身」(1970年代のスタグフレーションの解釈を意図した議論)と題された部分における「産出量の供給曲線」(インフレ率と実質GDP成長率が二次元図上で表現されたもの)は「自然失業率の成長循環仮説」(田中先生命名)の議論の先取りと読めなくもないように感じられます。 

銅鑼衣紋さんのコメント(経済学を勉強する過程で印象深かった書籍(番外編)-「あの人」について-日々一考)参照)を巡って。

韓流好きなリフレ派  econ-economeさんのところアクセス集中でずっと見れなかったのですが、銅鑼衣紋氏が書いてたんですね。彼だとああいう率直な意見になるでしょうね。基本的に小室『危機の構造』に感化されて(それはすでに書きましたが西部と同じ理論系列)、その後にウィーン学団や『社会科学の神話』を読んで、社会科学版の『知の欺瞞』の可能性やパーソンズの機能主義の問題性に自覚的になったわけですから、よくわかる発言ですね。

稲葉さんたちの『マルクスの使いみち』は前半は80年代からの西部的零落の道をそれなりに批判的に検証していて興味深く、同種の研究を次回作に控えている私は営業的に焦りましたがw それでも後半が吉原ワールド全開でそれはある意味、感情訴求がない西部型説法と同じにしか読めなかったですね。その意味ではやる仕事はいろいろあるな、と思います。

econ-econome 田中先生のご指摘の点(銅鑼衣紋氏の指摘)ですが、その点は僕も重々承知しています。経済学においてもご承知の通り幾多の学者の努力により漸進的な理論の彫築・発展が進められている訳ですし。

ただ一方で銅鑼衣紋氏が言う「神の言葉」を知っている連中の一員の中に西部氏が入るのかどうかという点については僕の中ではちょっと判断不能なんです。彼の英国保守派の思想家への共感とか、「無知の知」を語る所を読むとマルクス的な設計思想からは少なくとも外れているような気がするんですよね。

西部氏の議論は大きな物語の一つではあると思うのですが、バーク等が「神の言葉」を知っていると認識した上で議論をしていたとは思えないのです。この点が先生の言われる社会科学版の『知の欺瞞』の可能性やパーソンズの機能主義の問題性(ひいては構造主義に対する問題?)に繋がるのでしょうか。

最後に韓リフ先生のコメント。何度も反芻すべし。

韓流好きなリフレ派  まず西部氏の経済問題を扱った最近作の『エコノミストの犯罪』におけるエコノミスト批判とそれにオーバーラップしている一種の「社会没落論」との関連を見てみましょう。この「社会没落論」はシュペングラーの『西欧の没落』を西部氏流に読み込んだものですが、社会の衰退や没落のサイクル論で目前の社会や経済の危機や停滞を説明するのは、私がここしばらく考えている「構造改革論者」や「清算主義者」あるいはより正しくは「日本型の制度主義経済学者」たちの共通の視座です。例えば、「日本型の制度主義経済学者」の源流ともいえる笠信太郎のデビュー作はこのシュペングラーの『西欧の没落』論でして、上にあげたシェーマをすでに織り込んで、危機的な環境における従来の知識人の限界とそれに代る全的テクノクラート論の基礎を提供しています。最近では、ランデスの『強国論』を世俗化した竹中平蔵氏の『民国論』なんかもありますね。もちろん森嶋や金子らも忘れてはいけませんが。少なくとも笠のシュペングラー論と西部の以下の立論はかなり共鳴するものをもっていると思います(思います、というのは笠の本は群馬にあるので今回は直接できないのでうろ覚えですまそ)。

話を戻すと、『エコノミストの犯罪』で西部氏がシュペングラーを敷衍してどのようなエコノミスト批判を展開しているかというと、シュペングラーは文明の運命を主に「貨幣と知性」に代表させてみています。そして文明の没落とは、この「貨幣と知性」が自己目的化して、大衆による堕落した形態をとるということです。

「ここまでくると、シュペングラーの書が現代日本をも標的にしていることは疑うべくもない。貨幣的動機にもとづく技術知識の利用、それ以外に人間行動の類型がないがごとくの経済論が(アメリカから)日本に注入されている」。

貨幣や技術的知識(知性の一側面)が自己目的化し、それを大衆はエコノミストという代弁者を通して語る。エコノミストはその大衆に自己の立論の正当性をもとめることで両者は相互依存の関係にあり、これこそ文明の危機である。というわけです。

「厳密にいえば、専門知は、現実の問題と離れたことろで、単なる仮説として存在を許されている代物にすぎない。しかし多くの専門人が休み無く現実の問題について発言し行動している。それは、いったいどういう根拠にたってのことなのか」

「専門人は世論(という解釈)に依拠することによって問題の全側面にかんしておおよその解釈を暗黙のうちに下している。その解釈を前提にした上で、専門人は、自分の得意とする側面について説明を加え、それにもとづいて問題への処方箋を書いているのである」(『エコノミストの犯罪』)。

この専門人のだいひょうとしてエコノミストがあるわけです。

これらの見解は、私からするとエコノミストの分析と処方箋が大衆(世論)によってそのもっともらしさが規定され、その世論が変わるごとにそのもっともらしさの内容も変わる、という文化的な相対主義の一類型のように思えます。

そしてこのような文化的な相対主義の源泉として、西部氏自身が依拠しているシュペングラーやオルテガらはその代表として評価されていますね。その評価は正しいでしょう。

僕が銅鑼氏の言葉を借りて、西部たちが「神の言葉」を語っているというのは、この大衆の意見に規定された経済学という文化的な相対主義というストーリーについてです。ようするに専門家の日々のちまちました漸進的な専門研究や政策研究などはこのような文明論的な枠組みに無知・無自覚であるという批判対象なんですよ。

このような文化的な相対主義の一種については、『知の欺瞞』でも大きなテーマでした。より直截には、シュペングラーを直接批判した『知の欺瞞』の主張を基本的に引き継いでいるブーブレスの『アナロジーの罠』が上記の「神の言葉」への批判を展開しています。

長いですけど引用。

「『西欧の没落』の著者シュペングラーの主張によれば、客観的現実というものは存在せず、自然は文化に応じて変化する。こうした主張が、ポストモダンを生きているらしいわれわれにとって現在の思想状況をまざまざと映し出す言葉として耳に響くことは疑いようがない。ムジールは、こうしたシュペングラーの文化的・認識的相対主義を論駁するために、ただ次のように問う(**で囲まれたところはブーブレスの引用したムジールの言葉)。

*それではなぜ梃子はアルキメデスの時代にも、そして楔は旧石器時代にも今日と同じように働いていたのだろうか。猿でさえまる静力学と材料力学を学んでいるかのように梃子と石を使うことができるのはなぜなのか。そして豹が、まるで因果性を知っているかのように、足跡から獲物の存在を推量したりできるのはなぜか。もし人が旧石器人とアルキメデスと豹を結びつける一つの共通の文化を想定したくなければ主観の外側に存在するある共通の調整装置を仮定するほかにありえない。つまりは経験、それも拡張し洗練することのできる経験であり、認識の可能性である。真理、進歩、上昇のありよう、要するに、認識の主観的なファクターと客観的なファクターのあの混合物であり、それらは分離することこそ認識論の辛抱強い分別作業となるのだが、シュペングラーはそこから身を遠ざけている。思考の自由な飛翔にとってはこの作業は邪魔になるだけだからである*」(『アナロジーの罠』)。

西部の「神の言葉」という銅鑼氏の比喩をあえてムジールの引用にたとえればそれは「思考の自由な飛翔」でしょうね。

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プチ・西部翁ブーム

すべてはここから始まった。

あとこちらの書籍はイプシロン出版から刊行されていますが、この出版社から再刊された西部邁氏の「ケインズ」(再刊済)、「ソシオエコノミックス」(近刊)も興味深いですね。大学の時に訳も分からない状態で読んでいたのですが、再読するとまた感想も違ったものになるのかなと思っています。

余談ですが、西部氏の「大衆への反逆」、「サンチョキホーテの眼」、「批評する精神」とかは懐かしいなぁ~。熱に魘されるように読んでましたね。経済学批判全開の思潮が流行っていた時でしたが、自分の中では経済学批判の中で経済学を勉強するという矛盾した状況というのを楽しんでいたような気がします。(日々一考米倉茂氏「落日の肖像-ケインズ-」)

econ-economeさんと不肖hicksianの西部翁を巡るやり取り(懐古話か?)は某mixiに舞台を移してその後も続行。本棚に眠る西部本を漁り出すecon-economeさんと不肖hicksian。西部翁の自伝・回想は面白い、との意見で一致をみる。「近年の西部翁の書かれたものは個人的にあまり読む気がしないのですが、『友情』は名著だと思います。」との梶ピエール先生の言葉に『友情 ある半チョッパリとの四十五年』購入の決意を固めるhicksian(『友情』買おうかな、と話を振ったのは不肖hicksian)。『ソシオ・エコノミックス』を廉価で購入できてほくほく顔のhicksian。大枚(=福沢諭吉先生一枚)を投じて西部本の大人買いに乗り出したecon-economeさんは、その後怒濤の如く押し寄せた大量の西部本の置き場に頭を悩ませることになる。プチ・西部ブームはこのあたりで打ち止め・・・になるはずであった。

実は韓リフ先生も『ソシオ・エコノミックス』を購入し直されたばかり(稲葉振一郎先生らの新刊『マルクスの使いみち』の参考文献に『ソシオ・エコノミックス』が挙げられていたことも購入の契機となった模様)。以後、韓リフ先生と梶ピエール先生、econ-economeさんとの間で西部翁を巡っての(西部翁を取っ掛かりとして、とした方が適当か)濃密なコメントのやり取りが展開される。舞台は不肖hicksianのmixi日記コメント欄(敬称は略)。

西部邁『ソシオ・エコノミックス』について。西部邁と高田保馬の類似性について語られる。高田―西部(―村上泰亮)ラインの限界(平成不況の原因の取り違い=結果を原因と誤認する傾向)についても論じられている。

韓流好きなリフレ派  いま『ソシオ』を読んだけど、やはり誰でも時代の申し子でその一結晶みたいな本ですね。先に西部オリジナルかというとそうではなく、本人が意識しているいないにかかわらず、明白に高田保馬の勢力理論でしょう。そしてこの高田ー森嶋というラインの存在も西部とは切り離して認知しておく必要があると思います。『ソシオ』の議論の社会ー経済学的核心は、労働、資本、消費それぞれの固定性にあると思えます。そして労働と資本の固定性が相互依存関係(補完性)をみたしていることも指摘されています。この固定性自体は消費の固定性をみれば明白なように個人と共同体の間でイメージの分裂が起きる可能性が示されていて、それを統合する可能性として経済政策に役割が振られています。こういった労働、資本、消費そして相互の補完関係で戦前の長期持続停滞を説明したのが高田の勢力理論です。これについてはすでに僕も10年前に論文を書いたのでよくわかる議論です(引用者;田中先生の高田保馬論についてはこちら(Economics Lovers Live公平賃金仮説リターンズ)も参考になるかと)。で、こういった共同体的利益と個・社会のイメージの分裂と統一という観点から経済論を敷衍したものは、当時は奥村宏の法人資本主義(これに対する森嶋の大シンパシーを忘れないように)、野口・榊原w論文、そしてなによりも村上泰亮の新中間大衆論、そしてやがてこれらの総合的な体系としての村上反古典派経済学=開発主義経済学、そして小室『危機の構造』などがすべて系脈としてでてきますね。

で、簡単にいうと資本の固定性というのは西部の理解ではほぼザモデル案のベース(不良債権処理の正当化としてのb.F2.4節、歪曲された構造改革www)でしかないわけで、あとの労働の固定性、消費の固定性(こちらは現代版は松原?w)などで今日の長期停滞を説明はできない、せいぜいすべて補助要因や偽装された原因(実は真因がもたらした結果)である、というのがリフレ派の説明ですね。この種の問題へのリフレ派の核心は、もちろんクルーグマンでもいいわけですが、よりわかりやすい形では『論争日本の経済危機』の岡田・飯田論説のどうみてみ岡田さんの書いたところwに明白に書かれています。

僕も偉そうに書いているけれども現状のリフレ派的な見地からすれば、例えば『日本型サラリーマン』の時代はやはり高田理論がベースで、でもそれでは解決できない問題があるそれでインタゲを出す、といういささか分裂気味な議論をあそこではまだ展開してまして、それが自分なりに方向性を自覚できるようになったのは、昭和恐慌研究会での議論を通してすこしづつでるかね。その意味で、西部氏の理論は個人的にはよくわかります。でもこの議論は行き止まりです。長期持続停滞を結局は説明できないもの。上のすべての固定性は長期停滞のメカニズムの前には擬似的不均衡にすぎないから。

「制度」を語る経済学者の「金融政策」を語らぬ傾向。その理由は?

梶ピエール  ↑いやあ、大変興味深いです。このテーマで一冊の本になりそうですね。個人的には西部ー村上ラインと都留重人のようなマルクス主義的な制度派経済学の関わりも気になるところです。それにしても、英米の経済学者はヒックスやスティグリッツのように「制度」を重視する議論をしながら金融政策のエキスパートでもあるという学者が珍しくないのに、日本で「制度」を語る学者というとここにあがった名前以外に青木昌彦といい、金子勝といい、どうしてそろいもそろって金融政策をスルーしちゃうのでしょうか?

韓流好きなリフレ派  梶ピエールさん、実はこれが今度の本(今度っても本当に今度かなあw)のテーマです、ネタあまりもってないのでつかいまわし(^^;。
西部ー村上ラインとブログの方でとりあげた都留たちの制度学派も当然に考えております(引用者;田中秀臣の「ノーガード経済論戦」都留重人氏とは誰だったのか都留重人氏とは誰だったのかⅡ)。金融政策スルーはやはり日銀(一昔前は大蔵日銀)の経済政策の基本理念が真正手形割引説 爆にしかすぎなかった時代がず~っと継続し、また政府の経済政策理念で一番体系化していたのが産業政策であったり、あとは大蔵省の実弾=角栄政治 だったわけで、政策の中で裁量にせよルール型にせよ金融政策が日本の政治経済の経済政策体系の中で歪んだあり方をとりつづけてきたことがあるのかもしれません。

梶ピエール  なるほど。制度派だけにwそのへんの「経路依存効果」による説明が説得的かも知れませんね。金融政策軽視という「罠にはまった」のは左翼だけではないと。

econ-econome  >金融政策が経済政策の中で歪んだ云々
よく分からないのですが、こちらは過去日銀の金融政策が為替レート管理のような体裁をとっていたことも関係してるのでしょうか? 

韓流好きなリフレ派  変動為替相場制移行後を考えるとやはり日銀の真正割引手形学説的金融政策=受動的金融政策は経済の不安定化に貢献してきたといえると思います。で、受動的すぎてw金融政策の重要性を認知した人というのは目立った事件(石油ショックなど)をみてもほとんどおらず、だいたいは日本型システム=構造的対応の勝利(石油ショックであれば労使協調でコストプッシュ型インフレを抑制とか)に軍配をあげてきて、この軍配の当否自体に関心がいくというのがいままでの論壇の論調ではないでしょうか。むしろ真のプレイやーは他にいるのに。とはいえ最近は金融政策についても注目はかなり集まってますよね。 

梶ピエール  ・・・ただ、後者(一般に「新制度学派」と区別して「現代制度学派」と言ったりしますが)においてもホジソンなんかはケインズ的なマクロ経済学との関わりが結構深いので(http://reflation.bblog.jp/entry/266635/参照。未読だがミンスキーなんかも同じような感じでは?)、どうも「制度」的要因を重視する論者がマクロ問題、特に金融政策一般に冷たい、というのは日本特殊な現象ではないかと思えてきました。上の田中先生のコメントを呼んでその思いはますます強くなりつつあります。

僕などはマクロ政策の重要性が相対的に低い(と思われている)国の経済をずっとやってきたのでもともと制度分析に対する関心は高いのですが、こういう「制度・構造好き」=「マクロ・金融政策嫌い」というこれまで日本の経済学界にみられた「疑似的」対立の構図はやはり問題だなと思うようになりました。というわけで個人的には田中先生の次回作を大変楽しみにさせていただきたいと思います。 

梶ピエール  あと例えばカール・ポランニーの経済人類学というと日本では栗本慎一郎などがもちあげたこともあって「反経済学」の代表みたいになってしまいましたが、ポランニーの『大転換』のペーパーバック版の序文は実はスティグリッツが書いているんですよね。これなんかも象徴的な事例ではないでしょうか。 

韓流好きなリフレ派  アメリカ制度学派の例えばコモンズなんか金融政策中心のリフレを大恐慌のときに率先して主張しましたし、制度学派vsリフレ派という構図にはほど遠いでしょうね。ワルラスの時代でいえば確かに梶谷さんの指摘の通りですが、もともと土木事業の官吏養成の技術のひとつとして経済学はフランスで発生してますんでもうその段階でばら撒き行政=リフレの手先です。ま、これはもちろん冗談いれてますがw
ホジソンはそうですね、それを訳した日本の方々は八木さん含めてアンチリフレですけどw ちなみに八木さんと共著がある僕ってww
ミンスキーはこれは藪下さんと読んだことがありますが、そのときは「ミンスキーのいってることはトービンがすでにきれいに説明している」終りみたいなw。それとついでにアナリティカルマルクス主義的な系譜にも近いダンカン・フォーリーという人がいるのですがこの人のグッドウィン流の非線形動学モデルのデフレ版がありますが、これも「そんな陳腐なモデルの説明まだしたい、ジー」と見つめられてこれまた終りみたいなw
考えてみるといろんな経済学者に手を出しては喜怒哀楽を体験してきたもんですw 

「制度」を語る経済学者は「金融政策」を語らない、というわけではなくて、「制度」を語る日本の経済学者は「金融政策」を語らない、ということのようですね。「日銀理論」が「制度」を語りつつも「金融政策」を語らぬ日本の経済学者を育んだ・・・。

現在も議論進行中の模様?ですので途中報告ということで。続報を待て!!

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2006年4月28日 (金)

ゼロインフレの政治経済学

引き続き。Thomas I.Palley、“Zero is not the Optimal Rate of Inflation”

自然失業率仮説に基づけば最適なインフレ率はゼロ%であり、金融政策は自然失業率仮説の勧告に従ってゼロインフレを目標として運営されるべきだ、と多くの専門家(経済学者、エコノミスト、金融関係者(実務家)等々)は主張する。しかしながら、自然失業率仮説(NAIRU仮説)から導かれる結論は現実の失業率を自然失業率以下(以上)にとどめようとするればインフレの加速(ディスインフレないしはデフレの加速)を招くことになる、ということだけであって最適なインフレ率が何パーセントなのかを自然失業率仮説から引き出すことはできない(こちらも参照していただければ)。明白な誤りであるにもかかわらず、最適なインフレ率=ゼロインフレの理論的基礎付けとして自然失業率仮説が持ち出される理由(偽装する理由)は何なのか。

自然失業率仮説はトロイの木馬だ、というのが答えである。前回の後半でも若干触れたように、中央銀行の政策は真空状態の中で決定・実施されるわけではない。金融政策の決定・運営過程はpublic interestを三分する経済的なグループの影響から無縁ではありえない。financial capitalの利益を代弁するFRBは、彼ら(=financial capital)にとって望ましいデフレないしは低インフレという環境(=financial capitalにとっての最適なインフレ率;インフレはfinancial capitalの有する債権の実質価値を目減りさせるために好ましくなく、また過度のデフレは倒産や破産による債務不履行を発生させるためにやはり好ましくない。結果として若干デフレにバイアスがかかったゼロインフレを選好することになる)を正当化するための方便として自然失業率仮説を利用しているのである。“natural”(自然)という語が放つイメージを利用することによって、(ゼロインフレと自然失業率仮説を無理やり結びつけて)ゼロインフレ以外の環境があたかも不自然であるかのように一般の人々に思い込ませようとしているのである(インフレ=悪と信じ込ませるために、1970年代の加速するインフレの記憶を利用することもあろう)。自然失業率仮説を隠れ蓑とするゼロインフレの追求はfinancial capitalの利益増進を結果するだけだ・・・。陰謀論に聞こえるかもしれない。しかし、ゼロインフレと自然失業率仮説とは全く無関係であるにもかかわらず、両者に論理的な関係があるかのように語られている理由を探ろうとするならば、またFRBが理論的な基礎が薄弱なゼロインフレにこだわる理由を解明しようと試みるならば、こういった政治経済学的な説明(政策決定の裏にある政治力学の解明)も必要となるのではなかろうか。これはあくまで一つの仮説にすぎない。他に何か説得的な理由があるのであれば是非とも教えてもらいたいものだ。

かつてのケインジアンは政府をあたかも国民全体の利益(=public interest)のために奉仕する、慈悲深い賢人かのようにみなす傾向があり(=ハーヴェイ・ロードの前提;本来はこういう意味で使われてたわけではないけど)、確かにナイーブではあった。政府自体も私的利益に突き動かされる人間によって運営されているのであり、ハーヴェイ・ロードの前提にたって政策を議論するのは非現実的である。さらにいえば、一枚岩のpublic interestなるものが存在するかのようにみなすのも疑問である。public interestはいくつかの経済的なグループごとに、例えばlabour、financial capital, industrial capitalといったように分断されており(ケインズ『貨幣改革論』の3階級分類みたい)、FRBに対して最も大きな影響力を有するグループにとって最も望ましい(右下がりのフィリップスカーブ上の)失業率-インフレ率関係を実現するよう金融政策が運営されるわけである(labourの影響力が強いときには金融政策はインフレバイアス(低失業)を有し、financial capitalの影響が強まると金融政策はデフレバイアスを持つようになる;中央銀行の損失関数の中にグループごとのインフレへの選好の違いが反映されることになる)。より詳しい議論は“The Institutionalization of Deflationary Policy Bias(pdf)”を参照のこと(こっちの論文によれば中央銀行の独立性は問題(=民主的な統制を受ける中央銀行はインフレバイアスを有する+financial capitalの方を向いた中央銀行はデフレバイアスがかかった政策運営を実施する)の解消にはならないんだと。中銀を民主的な統制から解き放ったところで、3グループ間の勢力関係に従って特定グループに偏った政策運営を行う道は依然として残されているから(独立性を獲得することでヨリ一層特定グループ寄りの政策が実施される危険もあり)。人間の裁量を縛るためにもインタゲの導入を、と言いたいところだけども設定する目標インフレ率の選定にあたっても各グループ間の勢力関係でどうこうっていう話になるんでしょうね、Palley的には)。

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4つのフィリップスカーブ

Thomas I.Palley、“Zero is not the Optimal Rate of Inflation(pdf)”(Thomas Palley.com(articles)より)。公平賃金仮説文献巡りの旅の途上で偶然発見したもの。

「最適なインフレ率はゼロインフレである」という主張の理論的裏付けとして自然失業率(NAIRU)仮説(=垂直なフィリップスカーブの存在を主張するもの、としておきます)が持ち出されることがある(自然失業率とNAIRUの違いについては、“The Natural Rate, NAIRU, and Monetary Policy”(Carl E. Walsh)などを参照)。しかしながら、自然失業率仮説を仔細に眺めれば明らかになることだが、ゼロインフレが最適なインフレ率であるという結論をそこから導き出すことは不可能である(自然失業率仮説とゼロインフレが結び付けて論じられる理由(Palleyが提示する政治経済学的な一仮説)についてはこちらを参照)。以下、Palleyの議論に従ってNAIRU仮説と「最適なインフレ率はゼロインフレである」という主張が無関係であることを示すとともに、フィリップスカーブに関する(NAIRU仮説を含む)4つの代替的な見解を概観し、代替的なフィリップスカーブの議論から最適なインフレ率についてどのような結論を導き出すことが可能となるかを考察してみることにしよう。

1.NAIRU仮説

NAIRU仮説によれば政策的に自然失業率(=NAIRU)以下に現実の失業率を抑え続けることはできず早晩インフレの加速を招くだけである(現実の失業率はやがて自然失業率に回帰する)。厳格なNAIRU仮説(短期的にもフィリプスカーブは垂直)によると、金融緩和はインフレを加速させるだけであり失業率や実質GDPに一切の影響を及ぼすことはできない。インフレ率の水準に関わらず失業率や実質GDPの水準は変わらないわけであるから、最適なインフレ率は存在しない、ないしはあらゆるインフレ率が最適なインフレ率となる。

もう少し柔軟なNAIRU仮説によれば(フィリップスカーブは長期的には垂直になるけれども、短期的には右下がり、つまり一時的には(インフレの上昇というコストと引きかえに)失業率を自然失業率以下に引き下げることは可能)、最適なインフレ率は現実のインフレ率ということになる。なぜならば、現実のインフレ率を引き下げるためには(インフレ期待の調整に若干の遅れが伴うために(そのためフィリップスカーブが右下がりになるわけだけれども)実質賃金が高止まりする結果として)失業率の上昇(と実質GDPの低下)を受け入れねばならず、長期的には(ディスインフレが実現した暁には)失業率は自然失業率に回帰するだけであり、ディスインフレの過程で一時的に上昇した失業率を相殺するなんらかの果実が後になって得られるわけではない(ディスインフレの前後で失業率は変化していない(=自然失業率の水準にある))。一時的な失業率の上昇という見返りのないコストを負うぐらいならばむやみにインフレ率を引き下げようとするのではなく現実のインフレ率を維持すべきである、となる。反対に金融緩和によって一時的なインフレ率の上昇を受け入れるのであれば失業率や実質GDPの改善という一度限りの便益を享受することが可能となるわけであるから(インフレ期待が調整されれば失業率は元の自然失業率の水準に戻るだけであり、以前よりインフレ率が上昇するだけ(=垂直なフィリップスカーブ上を上方に向かって移動しただけ)である)中央銀行は一度限りの失業率改善を繰り返す誘因がある。インフレ率の高低は自然失業率の水準に影響を与えることはないのであるから、(インフレ率が下落したところで得られるものはないので;ちょっと不正確。正確にはディスインフレ政策の短期的な損失(移行過程における一時的な失業率の高まり)と長期的な利益(インフレによる恣意的な富の再配分(債権者→債務者)や将来期待の不確実性が抑制されることによってマクロ経済のパフォーマンスが改善され経済厚生が高まる)を比較考量したうえで利益が上回る場合もある。ただし自然失業率自体はインフレ率の水準から独立である。ディスインフレ政策によって自然失業率が下落するのであればフィリップスカーブは垂直にはならない)ディスインフレ政策によって一時的な痛みを被るよりは一時的な失業率改善を追い求める結果として、現実のインフレ率ではなくインフレが加速する状況が最適であるという結論になるかもしれない。

厳格なNAIRU仮説からはあらゆるインフレ率が、柔軟なNAIRU仮説からは現実のインフレ率ないしは加速するインフレが最適なインフレ率となり、ゼロインフレが最適なインフレ率であるという結論は自然失業率仮説のみからは決して引き出しえないわけである。

2.The positively sloped Phillips curve

ゼロインフレが最適なインフレ率であると言い得るためには、インフレ率が正である場合には(同時にデフレの場合にも)失業率が上昇したり実質GDPが下落するといった弊害が存在しなければならない。この事態を説明するための論理として考えうるのは、インフレ(デフレ)によって資源の誤配分(相対価格と絶対価格の混同による)が引き起こされたり、またインフレの効果を見定めるために資源(ないし時間、労力)が浪費されるために実質GDP(ないしは潜在GDP)の低下・失業率の高まりが生ずるというものである。この時フィリップスカーブが(インフレ率がプラスの範囲では)短期的にも長期的にも右上がりとなる(インフレ率が負(=デフレ)の範囲では右下がり)。インフレやデフレの幻惑による判断の歪みを回避するためにはインフレ率はゼロであるのが望ましい。NAIRU仮説ではなくこの見解こそがゼロインフレの理論的根拠となりうるものである。 

3.The Keynesian Phillips curve

フィリップスカーブは短期的にも長期的にも右下がりになる(インフレ率上昇と引き換えに失業率を低下させることが長期的にも可能。ただし、インフレ率が高くなるにつれて失業率改善の効果は徐々に弱まる)。フィリップスカーブが右下がりになるのは以前紹介したアカロフらの議論と同じ論理であり、“inflation greases the wheels of adjustment” in labor marketsということから導かれる。すなわち、インフレによって名目賃金の下方硬直性に抵触することなく実質賃金を調整する余地が広がり、ネガティブショックを被った産業(企業)部門において(名目賃金のカットに着手せずとも)実質賃金の高止まりを回避し、解雇や雇用抑制の圧力を緩和することが可能となるためである。低いインフレ率を出発点とするディスインフレ政策(例えばインフレ率を3%から1%に低下させる)は、実質賃金調整の余地を狭めることを意味し、ネガティブショックを被る産業部門から実質賃金を低下させる手段を奪い去り失業率を高止まりさせることになる(苦肉の策としての名目賃金のカットは潜在GDPを低下させるかもしれない)。

The Keynesian Phillips curveによれば、インフレは生産や失業率に対してポジティブな効果を有し、(インフレ率がプラスであれば長期的にも失業率を引き下げることが可能となるわけだから)ゼロインフレが最適であるという結論は決して導き得ない。この見解によれば、最適なインフレ率は自動的に決定される性質のものではなく(ゼロよりも幾分プラスのインフレ率ではあるけれども)、社会的な選好によって―社会の成員がインフレ率と失業率のどちらの変数を重視するか―右上がりのフィリップスカーブ上の一点の失業率-インフレ率関係が選ばれることになる(同じ点にとどまる(同じ点が選ばれる)必然性はない)。

4.The public finance Phillips curve

インフレ税によって政府収入が増加することで他の税を減税させる余地が生じ、(所得税が減税されれば)労働者の勤労意欲が引き出される(=生産性が高まる、労働供給が増える)結果として生産や失業率が改善される。結果としてフィリップスカーブは右下がりとなる。ただし、インフレ率が高くなり過ぎるとインフレ税による歳入増加の効果も減衰するために減税する余地がなくなり、また減価する貨幣を手放して貨幣の代用物を模索する動きが生ずるために(=資源の浪費)、フィリップスカーブはあるインフレ率を境に右上がりとなる。The public finance Phillips curveによると、最適なインフレ率はフィリップスカーブが(右下がりから右上がりへと)屈折するインフレ率ということになる。もちろんゼロインフレではない。

最適なインフレ率がゼロインフレである、という主張を支持する議論は2であり1ではない。また2はあくまでも理論的な可能性に過ぎず(そもそも最適なインフレ率=ゼロインフレ、と主張する人が2をその理論的根拠として挙げるのを見たことがない)、長期的なフィリップスカーブが右上がりであることを示す実証的な根拠は乏しい。一方で3・4が主張するようにフィリップスカーブが(低いインフレ率のもとでは)長期的にも右下がりであることを示す実証的な証拠は多数存在する。1・2が疑わしいのだとすれば、3・4が(特に3が)主張するように最適なインフレ率は社会的な選好によって決定されるということになる。インフレの弊害が実感しにくいのに比べ失業の悲惨さが明白であることに鑑みれば、失業率を最小にするインフレ率が最適なインフレ率である(ないしは社会的に最適なインフレ率として選択される)・・・、ということになりそうだけれども、社会全体の選好なるもの、ないしはpublic interestが一枚岩とみなすことは誤りである。public interestは経済的な利益を同じくする3つのグループ(labour、financia capital、industrial capital)に分割されており(詳しくは“The Institutionalization of Deflationary Policy Bias(pdf)”(Thomas Palley)を参照のこと)、望ましいインフレ率-失業率関係はグループごとに異なっている(各グループによって選択される(右上がりの)フィリップスカーブ上の点は違ってくる)。現実に選択されるインフレ率は政策過程において最も影響力のあるグループにとっての最適なインフレ率であり、社会全体にとっての最適ではない。labour、financia capital、industrial capitalの3グループ間の闘争(=FRBからのサポートを巡る争い)の結果として目標インフレ率(=“最適な”インフレ率として喧伝されるもの)が決定されるというわけである。

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オーカン法則

David Altig, Terry Fitzgerald, and Peter Rupert、“Okun's Law Revisited: Should We Worry about Low Unemployment?”。ネット上でオーカン(Arthur Okun)について調べている際に発見したもの。

The connection between unemployment and GDP growth is often formally summarized by the statistical relationship known as "Okun’s law." As developed by the late economist Arthur Okun in 1962, the "law" related decreases in the unemployment rate to increases in output growth. Over time, the exact quantitative form of this relationship has changed somewhat (a point we will return to below). However, the negative correlation between changes in the unemployment rate and changes in GDP growth is viewed as one of the most consistent relationships in macroeconomics.

オーカンは1960年代初期にアメリカ経済のデータから実質GDP成長率と失業率の変化の間に統計的に直線で近似しうる負の相関関係-失業率が1%低下するとGDP成長率がX%上昇する-が存在することを見出した。以来、実質GDP成長率と失業率の変化の間の安定した関係は「マクロ経済で最も信頼のおける経験則の一つ」(by トービン)としてオーカン法則と呼ばれるようになる(オーカンについてはhttp://cruel.org/econthought/profiles/okun.htmlhttp://www.econlib.org/library/Enc/bios/Okun.htmlも参照のこと。オーカン法則についてのヨリ詳しい説明は『マクロ経済と金融システム』(第1章 マクロ経済学と日本経済:オーカン法則再考(吉川洋))等をご覧ください)。

Basic economic theory tells us that output depends on both the amount of inputs used and the level of technology. In a very general categorization, the inputs to production are the labor services provided by a nation’s citizens and the services provided by the current capital stock. It follows, then, that changes in output can result from changes in overall productivity, in the flow of capital services, and/or in the quantity of labor services. When observed over a relatively short horizon, such as a quarter or a year, shifts in the aggregate capital stock are likely to be limited because of the difficulty of quickly adjusting the size of this stock. Therefore, changes in output will largely reflect changes in productivity (output per hour) and in the level of labor services

マクロの生産関数を想起すれば明らかなように、技術進歩率の上昇やインプット(労働投入量・資本ストック量)の増加はアウトプット(GDP)を増加させる。同じことだがインプットの増加率の上昇はアウトプットの増加率を上昇させる。

労働投入量(the labor services provided)の変化率=労働時間の変化率(percentage change(以下⊿)in hours per worker)+労働参加率~(⊿ in labor force participation)+人口増加率~(⊿ in population growth)+その他~(⊿ in other relevant factors (such as worker efficiency levels))-失業率の変化(the absolute change in the unemployment rate)

であるから、失業率の低下は労働投入量の増加率を上昇させ、ひいてはGDP成長率を上昇させる。その他の事情が一定であるならば(労働投入に関する諸要因や技術進歩・資本ストック量が急激に変化しない限り(あるいはそれらが不連続的に変化しないならば))失業率の低下とGDP成長率の間に安定した負の相関関係を見出すことが可能となる。一見するとオーカン法則が導かれたように見えるけれども、失業率が独立して変化すると仮定する限りにおいてオーカン法則が予測するほどのGDP成長率の上昇は望めないはずである(オーカンの観察によれば(戦後~1960年初期のアメリカ経済では)失業率が1%低下するとGDP成長率は約3%上昇する。労働の限界生産性が逓減すると考えるならばこのことを説明することは困難である)。失業率が低下すると雇用が増加するという直接的な影響に加えて(失業率は独立して変化するものではない)、労働供給の増加(労働参加率の上昇)・1人当たり労働時間の増加・労働生産性の増加等(労働投入量の構成要因の変化)が随伴するという事実に着目することによって大きなオーカン係数(オーカンの観察では約3)を説明することが可能となる(The reason that the association between the unemployment rate and output is relatively strong is that changes in the unemployment rate are related to changes in the other factors that affect output growth. For example, using average annual data, a rising unemployment rate is strongly associated with decreases in both hours per worker and labor force participation. Since each of these factors contributes to falling output, it is clear how small upticks in the unemployment rate could be associated with larger declines in GDP;この点に関しては先に紹介した吉川論文も参照のこと)。

Our discussion can be summarized by the simple observation that the relationship between the unemployment rate and GDP growth changes through time or, in Okun’s language, that potential GDP growth is not constant over time. Although this is widely understood to be true over extended periods—decade to decade, say—it is equally true over the much shorter horizons that characterize the business cycle. If these changes are substantial, Okun’s rule of thumb can send very misleading signals about the rate of economic growth associated with any given change in the unemployment rate.

従前のオーカン法則が高い現実妥当性を有するには、失業率の変化と労働投入に関するその他構成要因との関係が安定的(予測可能)であることに加え(それらの関係性が希薄になったりあるいは相関関係の向きが正反対になったりすると失業率の変化とGDP成長率の変化との関係は(オーカン係数の値が変化したりして)予測困難(不安定)なものとなるだろう)、技術進歩率の変化が予測可能である(あるいは技術進歩率の変化は無視できるほど小さい)という厳しい条件が要請される。技術進歩率と失業率の変化との間にはそれほど明確な関係性を見出すことはできず、また技術進歩率の変動はGDP成長率の変動の過半を説明することを考えると(Productivity changes are only slightly correlated with changes in the unemployment rate, and the variability of these changes is large—roughly two-thirds of the variability of output)、従前のオーカン法則が妥当するのは見るべき技術進歩率の変動がないときだけであり、オーカン法則を万古不易の自然法則のように捉えるのは正しくないということになる。現実経済の動向(データ)を仔細に眺め、潜在GDP(技術進歩率)の変動を可能な限り迅速かつ正確に把握する必要がある。すなわち、経験則としてのオーカン法則が今後もその価値を維持し続ける(分析装置として使用されることに耐え得る)ためには(技術進歩の変動を考慮することにより)継続的にリニューアルされ続ける必要があるということである。

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2006年4月22日 (土)

現代中国と1970年代の日本

Barry Eichengreen and Mariko Hatase,“Can a Rapidly-Growing Export-Oriented Economy Smoothly Exit an Exchange Rate Peg?  Lessons for China from Japan's High-Growth Era”(日本銀行、IMES Discussion Paper Series 2005年8月)

1970年代における日本の為替制度改革の経験-1ドル=360円でのドルへのペッグからの脱却(1971年8月;アメリカによる金=ドル兌換停止(ブレトンウッズ体制の終焉))→1ドル=308円で再びドルにペッグ(1971年12月;スミソニアン協定)→変動相場制に移行(1973年)-を考察することにより、中国の人民元改革の将来の指針を得ることを目的とする。当時(1950年代~1970年代)の日本経済と近年の中国経済の異同を綿密に比較した上で、「export-oriented, fast-growing economies in the early stages of catch-up that exited voluntarily from a peg.」という歴史上稀な(現在の中国経済と同様の性格を有する)ケースである1970年代の日本における為替制度改革の体験を現在の中国のhistorical precedentと見なして人民元改革の今後の教訓を引き出す(1ドル360円から308円への平価切上げはアメリカからの圧力によって強いられたものではなく日本自身の自発的な判断(exited voluntarily from a peg)であったとする。ニクソンによる金=ドル兌換停止の宣言後二週間にわたって1ドル360円を維持するために当局(日銀、大蔵省)が為替介入を行っていた点をその論拠とする)。

1ドル=360円という固定レートは1949年(ドッジライン)から1971年まで約20年間にわたって維持され続けた。当初はその水準はovervalueされている(日本経済の実力からすると為替水準はもう少し切り下げるべきである)と考えられており、経済が成長するにつれて経常収支が赤字を計上したため(政府のドル準備の流出を防ぐため、あるいは1ドル360円を維持するために)金融引締めにより景気の抑制に乗り出さざるを得なかったが(「国際収支の天井」(“balance of payments ceiling.”))、1950年代の後半から1960年代にかけて貿易財部門の生産性の向上(政府主導の合理化計画(Government-led rationalization of the metals, machinery and chemicals sectors)も貢献)が進展した結果として1ドル=360円というレートは徐々にundervalueになり、大規模な貿易黒字が計上されるようになっていく(「国際収支の天井」にぶつかり経済の成長を金融引締めで阻害する必要はなくなる)。外国からの貿易黒字削減の圧力をかわすために(capital inflow によるマクロ経済へのインフレ圧力を抑制するために)、輸入の増加を目的として為替規制や貿易障壁の緩和・撤廃に乗り出すものの(undervalueな)平価の切上げという選択に踏み出すまでには至らず(1ドル=360円という固定レートは“immutable condition”と見なされていた)、1971年いわゆる「ニクソンショック」を迎えることになる。

ニクソン大統領による金=ドル兌換停止の宣言後、政府当局はしばらくの間(1971年8月27日まで)1ドル=360円のレートで為替介入を行うものの、やがては為替水準の増価を容認し1ドル=308円に到達したところで再びドルにペッグする(16.9%の平価切り上げ)。平価切上げがマクロ経済に及ばすdeflationary effectを回避するために財政金融両面から景気の下支えのための政策出動がなされ、景気への悪影響は軽微なもの(1972年第1四半期の輸出は0.1%の減少(前年の同期比)にとどまり、第4四半期には15.7%の増加を記録した;1972年の第1四半期の実質GDP成長率は年率換算で10%を超える勢い)にとどまった(ドルとのペッグに固執しフロート制(ダーティーフロート)への移行が遅れたがために1973~74年のインフレの加速を招いた、とする小宮隆太郎氏らの研究も紹介)。1973年になるとスミソニアン協定の決定も維持することが困難となり、円は1ドル=265円まで増価、当局の為替介入の結果としてレートは264円から266円の間に維持されることになる(1973年9月まで)。1971年、1973年の円の増価時において政府当局は為替介入を実施し(「Japan’s float was heavily managed」)、急激な為替変動を防止、このことは現在の中国に対して示唆を与えるものである。

外為規制が存在し(資本取引の自由化が達成されていない)、インターバンクでの為替先物市場が未発達であった1970年代の日本においても柔軟な為替レートへの移行は実現可能であったことから(戦後日本の外為規制・為替先物市場の発展の様子(詳細はp20~23を参照)を考察した結果として得た結論)、中国人民元の自由な変動、市場によるレート決定を現実のものとするためには資本取引の自由化の実現と厚みがあり流動的な為替先物市場の発展が不可欠である(資本取引の制限が緩和・撤廃され、上海におけるインターバンクの為替先物市場がさらに発達を見せるまではこれ以上の人民元改革に乗り出すべきではない)、という議論に疑問を提示する。政府当局による急激な為替変動の回避(機動的な為替介入)が実施されるならば、という重要な但し書きがつくが(急激な為替変動が政府の介入によって回避されるならば、資本取引の規制が存在しようが先物市場が未成熟だろうがヨリ柔軟な為替制度への移行は実現可能)。

結論:1970年代の日本-資本取引規制が存在し為替先物市場が未発達である、rapidly-growing, export-oriented economy-は、政府当局による機動的な為替介入に支えられて、成功裡にヨリ柔軟な為替制度へ移行した。大幅な平価切上げがマクロ経済にそれほど重大な悪影響を及ぼさなかったのは、財政金融政策による需要維持政策と世界経済の景気拡張という偶然(計量経済学的な手法に基づく観察の結果、世界経済が好景気局面にあったことで日本経済に対して与えたプラス効果が大きなものであったことが判明)に助けられた面があり、運命を偶然に委ねるつもりがないならば適宜為替介入を実施することによって国内経済へのインパクトを減殺し、急激な実質為替レートの増価を避ける必要がある(ドルペッグからの脱却後に即座に完全な変動為替制度に移行するとマクロ経済に対して大きなネガティブ効果を与及ぼしてしまう可能性が大)。

今般の中国の通貨バスケット制への移行(漸進的な為替制度改革)は、1970年代日本の経験から引き出しうる教訓に合致したものである(自発的にドルペッグから脱した点(諸外国からは更なる平価切上げの圧力を受けていたがそれを排した)も同じである)。輸出企業のマージン率の低さ、大規模な不良債権を抱える銀行の脆弱な基盤、GDPに占める輸出の割合の高さなど現代中国の特徴を考えると、1970年代の日本以上に急激な実質為替レートの増価を避ける必要がある(実質為替レートの上昇は企業利潤を圧縮し設備投資の低迷を招く。1970年代の日本では実質為替レートの上昇は設備投資に(輸出と比べて)ヨリ大きなマイナスの影響を与えた)。今回の通貨バスケット制移行後の措置としては、為替介入を実施しつつ変動幅を徐々に拡大させるような漸進的な手法が望ましい(完全な変動相場制への移行は急激な実質為替レートの増価を招く恐れがある)。1970年代の日本の経験から得られる教訓としてかように結論付けられるのではなかろうか。

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FTPL

土居丈朗“「物価水準の財政理論」の真意(pdf)”(土居丈朗のサイトより)。

FTPL(Fiscal Theory of the Price Level;物価水準の財政理論)は、「物価変動は貨幣的な現象ではなく財政政策による現象である」ことを主張するものである。

物価水準の財政理論によると、物価変動は財政政策、なかんずく国債残高の多寡によって起こり、通貨供給量は影響を与えないとみる。さらに言えば、この理論が成り立てば、国債発行額自体が物価変動に影響を与えるのであって、国債の日銀引受けや日銀買いオペ(に伴う通貨増発)は物価変動には何も影響を与えない、とも主張する。

政府の予算制約式は、

名目税収+名目公債発行額=名目公債費+名目一般歳出    →名目公債費-名目公債発行額=物価水準×実質PB(税収マイナス一般歳出) 

と表現され、この予算制約式を満たすように物価水準が決定される。

予算制約式が満たされない=政府による債務不履行と同値であるから、財政の破綻を避けようとするならば上記の予算制約式は満たされねばならない。実質表示のプライマリーバランスの赤字額が名目国債発行額を上回る時には物価水準が下落する(デフレ)ことによって、また反対に後者が前者を上回る時には物価水準が上昇する(インフレ)ことによって予算制約式の左辺と右辺の等式が維持されることになる。

実質一般歳出の増加や実質税収の減少が名目公債発行額の増加に比してより大きい状況が続く限りデフレは続くことになる。つまり、デフレが続くか否かは、政府の財政運営次第である。

デフレは、追加的に発行した国債の利払い償還の時期が訪れ、予算制約式の左辺にある名目公債費が増加することによって解消される(実質PBや名目国債発行額が公債の追加発行前後で変化しない時)。「物価水準の財政理論が成り立つとき、追加的に公債を発行する時点で物価水準は低下し、その利払償還の時点で物価水準は上昇する」。

是非とも注意せねばならないことは、物価水準の財政理論=物価変動に対する金融政策の無効性を立証する議論、と捉えることは極端な(あるいは歪曲された)単純化であるということである。名目国債発行額のみによって物価水準が決定されるという議論の背後には金融政策運営に関するある仮定が存在する。「日本銀行の金融政策は、政府の財政政策に対して従属的で、名目金利をターゲットにして通貨供給量を調節している」「名目利子率をターゲットにして金融政策を実施している」という仮定である。中央銀行が通貨供給量を、あるいはマネタリベース(当座預金残高)を操作目標として金融政策を運営しているならば、結論は若干変ってくる。

名目公債残高を増やすこととマネタリー・ベースを増やすこととはほぼ同義であることがわかる。さらに言えば、マネタリー・ベースは中央銀行の負債であるから、広義の政府債務であるとみなすことができるから、そうみなしても名目公債残高を増やすこととマネタリー・ベースを増やすこととはほぼ同義であるといえる。このことから、財政理論に基づいて考えても、マネタリー・ベースは物価水準に影響を与えるということができる。         

物価水準の財政理論というネーミングは誤解を招きかねない点がある。政府発行の国債は償還期限のある負債であり、日銀の発行する日本銀行券は償還期限のない負債である。政府と中央銀行を一体として捉えれば(統合政府)、政府負債の発行額が物価水準を決定しているわけであるから(「名目公債残高を増やすこととマネタリー・ベースを増やすことはほぼ同義であるといえる」)、物価水準の財政理論(FTPL)というよりは物価水準の負債理論(Debt Theory of the Price Level;DTPL)と呼ぶほうが適当ではなかろうか。

最後に土居先生からの貴重なお言葉を。 

財政理論の見方を、とかく物価変動について金融政策が無力であるかのように悪用する向きがあるが、それは論理的にも誤りである。・・・物価水準の財政理論は、物価変動について金融政策が無力であることではなく、物価水準の変動は財政金融政策のスタンスが影響を与えることを示唆している。量的緩和政策を積極的に行わないことによって、デフレ対策を主に財政政策だけに依存する風潮がある今日において、物価水準の財政理論をその論拠としないように、国民が見守らなければならない。

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