2006年4月22日 (土)

最後の『冬ソナ』論

田中秀臣著「最後の『冬ソナ』論」(太田出版、2005年)

御多分に洩れず(?)、「冬ソナ」をはじめとする韓国ドラマ(一つも見てないかもしれない。申し訳ないですm()m)は未見でして、物語に秘められた暗示や隠喩を読み解くその見事な手綱さばきを評価する正当な資格があろうはずがなく、また映像を頭に思い浮かべつつ議論の展開を堪能するまたとない楽しみ(=「なるほど、あのシーンにはそういう意味が込められていたのか」とはたと膝を打つチャンス)もみすみす逃してしまう格好となってしまいました(例外的に一箇所だけ、「「脂ぎった顔で、ウェーハッハッハと嗤う」エコノミストという肩書きをもつ人物」(p10)の映像は脳裏に鮮明に浮かんできましたが)。本書を一読する前に少しだけでも「冬ソナ」を見ておくべきだったな~、というのが唯一の心残りであります。え? そんな話はどうでもいい? そうですか。そうですよね。

自己の欲望・満足(性欲)の充足を目的とした(渡辺淳一的な)利己的な愛だけが愛の唯一の形ではなく、自己の犠牲(不利益)も厭わずに(=仕事や家族を犠牲にしてでも)他人を絶対的に信じ切る(他者への共感に根ざす)利他的な愛もまたれっきとした愛の形である。また「ひとりの人間のなかには多様な動機が同時に共存していてもなにも困らない・・・」のであり、「利己的な愛と利他的な愛がひとりの人間のなかになんの矛盾もなく両立することができる」(p60)。

利己的な愛を体現するサンヒョク・ミニョンには利己的な愛で、利他的な愛を体現するチュンサンには利他的な愛で、それぞれ対峙するユジンの行動の二面性(まるで「しっぺ返し戦略」のようだ。特にチュンサン→ミニョン→チュンサン(利他的→利己的→利他的)への対応の変遷(チュンサンが記憶を喪失しミニョンとなるや(相手が利己的な愛を選択すると)利己的な愛で応じ(応戦し?)、ミニョンが記憶を回復しチュンサンが蘇るや(相手が利他的な愛を選択すると)利他的な愛で応じる(報いる?)。次の言葉は示唆的である。「愛情ゲームのなかで彼女が主に採用する戦略は、無償の純愛という戦略なのである」(p65))や「冬ソナ」ブームを支えた背景―「配偶者選択モジュール」(=利己的な愛の原動力)が規定する中高年女性の構造的な恋愛デフレと利他的な愛に共感する「利他的選択モジュール」(=利他的な愛の原動力)の働きによって支えられた冬ソナブーム―を(ヨン様の性格設定もですが)丹念に観察・分析することによって著者が「冬ソナ」から導き出したメッセージである。

著者が「冬ソナ」から引き出したこのメッセージは、実のところ「愛を節約する」経済学のあり方とデフレ不況下にある現在の日本経済の両者に対する一つの警鐘となっている。「効率」という基準(自己にとっての便益>自己にとっての費用、ならば効率的)に基づいて行為を評価する傾向にある「愛を節約する」経済学(=行為の背後に利己的な動機(選好体系)のみを想定)では、利他的な動機(「利他的選択モジュール」)から発する行為により人々の間に構築される「信頼」関係(「自分の利益ではなく、無私の貢献をしているものに対して社会や周囲の人間はそれなりの評価を与える。この人は信用できる、と」。(p136))の重要性になかなか気づくことができず、そのため利他的な愛を体現したものとしての「日本的雇用システム」が果たす役割を十全には理解することはできない。雇用の継続を保証する「終身雇用制」や名目賃金の一定の上昇を約束する「年功序列賃金制度」は、「愛を節約する」経済学の立場からすれば経済合理性にかける非効率的な制度に見えることだろう(=賃下げや解雇が必要な状況において厄介な足かせとなるだけであり、また雇用の流動化(柔軟で流動的な資源の移転)を束縛するものでしかない)。しかしながら、経営状態が苦しい状況にあっても安易な首切りや賃下げ(=短期的な利益を追求する)を回避し、従業員の現状維持に尽力する経営者の利他的な愛の戦略は、従業員の経営者・会社に対する「信頼」や忠誠を引き出し、時に「会社人間」とも揶揄される無私の(滅私の)、言い換えれば利他的な行為を誘発する源泉となる。会社に対する「信頼」が存在するもとでは、従業員は関係依存型の(あるいは組織特殊的な)人的投資に積極的に乗り出すインセンティブを有し、結果として企業の生産性は向上していく(効率性にもプラスに働く)ことだろう。短期的な利益を追求する経営者の判断(=首切り、賃下げ(あるいは成果主義的賃金制度の導入);効率至上の利己的な行為)は、従業員との(長期的な)信頼関係を崩壊させ、従業員のモラルややる気はいやおうなく低下してゆくことになるかもしれない。人間は利己的な原理だけではなく利他的な原理によっても突き動かされているのであり、社会が(経済が)円滑に進行してゆくためには配偶者選択モジュールに加えて利他的選択モジュールが活躍しうる場を確保する必要があるわけである。

私が『冬ソナ』からあえて経済学に対する有意な意義を見出すとすれば・・・まさに利己的な原理と利他的な原理が補い合うということ、そして同時に後者のより相対的な強調にこそ求めなければならないだろう。(p136)

デフレないしは不況は経営者に短期志向ないしは利己的になることを強いることによって(経営体力が弱まることで解雇や賃下げに乗り出さざるを得なくなる)信頼関係の崩壊に手を貸すことになる(「終身雇用制」や「年功序列賃金」はマクロ経済が安定している結果として成立しうるものである)。デフレが長引けば長引くほど、経営者と従業員間の「信頼」の源泉たる利他的選択モジュールの活躍余地は狭まり、配偶者選択モジュールが利他的選択モジュールを淘汰する可能性がいやましに高まることになる。デフレ不況のもとで進行する利己的な原理の利他的な原理への侵食を食いとどめるためにも(両者のアンバランスを是正するためにも)、一刻も早いデフレからの脱却が必要である。

(追記)経済は効率と信頼・公正ないしは利己的/利他的な原理の共存によってヨリ円滑に機能するという議論は実はヒックスも主張している点である。労使間の信頼関係が醸成されるためには労働者が公平(fair)に遇されていると感じることが必要であり、公平な賃金体系が維持される結果として賃金は粘着的になるとヒックスは述べる。労働者の生産性に応じて賃金を頻繁に改定することは、確立された公平な賃金体系を揺るがすことにより労働者に不公平感を抱かせ生産効率を引き下げることにつながる。「いかなる価格体系も(賃金体系とまったく同様に鉄道運賃体系も)、経済効率性の基準とともに公平性の基準をも充たさなければならない」(『ケインズ経済学の危機』(ヒックス本は絶版ばかりだね~(悲 )、p109)。

注記しておかなければならないことは、ヒックスは公平性の基準を充たすために価格が粘着的(固定的)になることの弊害をも十分に認識しているということである。長くなるが引用。

もし、価格(および賃金)がもっと安定していれば、万事がうまくいくはずだ、したがって、固定価格市場には、たとえかぎられた程度にもせよ安定性にそれが役立つのだから、積極的メリットがあるのだ、と。・・・しかし、それには、その反面、嘆かわしいデメリットがあることをも、私は十分に心得ている。私が主張しているのは、私がこれまでに論じてきた諸問題を心にとどめておくことが経済学者のなすべきことの一部分である、ということ―価格は配分機能だけでなく社会的機能をももっているのだということを経済学者は常に意識すべきだ、非常にはっきりと意識すべきだ、ということである。しかし、価格は、たしかに配分機能をももっているのであり、その配分機能を明らかにしてきたことが、経済学の主要な成果のうちの一つなのである。私は、われわれはその方向で学んできたことのすべてを捨て去るべきだ、などということを、いささかも述べているわけではない。われわれは、そのことをもしっかりと心にとどめなければならないのである。たしかにわれわれは、価格機構の自由な使用によって最適効率が達成されうるような世界は現実からはほど遠いものであることを、よく知らなければならない。しかし、だからといって、そのことは、経済効率を改善する―時おり言われるように、準最適化する―実際的方法を求めてわれわれがたえず努力したりすべきではない、という理由にはならないのである。このことは、先のこととまったく同様に、われわれの義務の一部分なのである。(『ケインズ経済学の危機』、p117~118)

効率追求も公平の追求同様に重要だということです。

| | コメント (394) | トラックバック (0)

耐久財のディレンマ

部屋の整理をしている時に森嶋通夫著『思想としての近代経済学』を発見。何気なしに読む。

経済学入門ないしは経済学史の最初の講義で紹介されて(佐和隆光著『経済学とは何だろうか』も同時に紹介されていたと思う)、純粋無垢で元気溌剌な若きHicksian(当時はヒックスなんてもちろん知らない。森嶋通夫と聞いてもピンともこなかった)は、講義終了後迷うことなく本屋に駆け込んだものだ(中古で買うなんて汚らわしい発想は持ち合わせておりませんでした。きっちり620円出して購入)。佐和本も一緒に出てきたということはその時同時に購入したのだろう。夢と希望に心躍らせ、やる気に満ち満ちた18の春。遠い昔の話です。

著者がこの本の中で取り上げるテーマは大きく分けて二つ。「ビジョンの充実―経済学と社会学の総合―」(第Ⅱ部の表題)と「反セイ法則」(「耐久財のディレンマ」)。当時は第Ⅱ部を熱心に何度も何度も読み返したようだ。あちらこちらに赤線が引いてある。一方で第Ⅰ部・第Ⅲ部は読んだ形跡が見つからない。新品同様の良質の状態である。

時代は流れてどうやら視野狭隘な人間に落ちぶれてしまったらしい。というのも、赤いページ(赤線まみれだから)は足早に、白いページは行きつ戻りつゆったりとしたペースで読み進んでいったからである。

これまでに概観した経済諸理論を総合すれば、次のような近代経済学の資本主義観が得られる。まず第一に、シュンペーターが力説したように資本主義は安定的でない。資本主義の発展コースは、「企業者」の創意と「銀行家」の勇断に・・・依存して、旧軌道から不安定的に離れ去り、飛躍的な大発展を遂げる。第二にそれはまた、ヴィクセルが見たように貨幣面で極めて不安定である。大きい革新が枯渇すれば、収益逓減の法則により、資本の生産力(したがって正常利子率)が低下するから、貨幣利子率は高位に取り残されて、下方への累積過程が生じる。これを是正すべく貨幣利子率を下げれば、下げ過ぎて上方向への転進が生じ、物価騰貴が生じる。・・・更にその上シュンペーター、ヒックス、ヴィクセルは、いずれもワルラスが残した「耐久財のディレンマ」を直視していない。彼らはワルラス同様、完全雇用均衡が成立しうると考えるが、そのためには非現実的な「セイ法則」を仮定するか、利潤率均等化の動きを無視しなければならぬ(p95~96)。

資本主義はその成功のゆえに没落する、とかのシュンペーターは述べている。没落するかどうかはひとまず置いておくが、資本の蓄積が進み(耐久財の存在感が増し)経済的に豊かになるにつれて、当該経済は構造的な不均衡(貯蓄>投資)を抱えこみ不況と失業から逃れることがますます困難なことになってゆく。耐久財のディレンマによって資本財市場での価格調整が機能しなくなり「反セイ法則」(有効需要の原理)が現実のものとなるからである。

耐久財(テレビや冷蔵庫(消費財)、機械設備(資本財)等数回ないし数年にわたって繰り返し使用可能な財)には2つの市場が存在する。著者が例としてあげているように自動車には売買のための市場とレンタルのための市場がある。自動車がP円であり、レンタル料金がq円であるとき、手元にP円を保有している人は自動車を購入して運転を楽しむことができる(運転によるサービスをレンタルしているとも言える)と同時にレンタル市場を利用して収益を稼ぐことも可能である。P円で購入した自動車を一年間貸し出すと(減価償却率をδとすると)q-δPだけの収入を得ることができ、その時の収益(利潤)率は(q-δP)/Pとなる。レンタル業に乗り出さずとも収益を稼ぐことは可能だから(P円を銀行に預けたり証券に投資すればよい)、このレンタルによる収益率はその他の資産投資から得られる収益率と等しくなければならない(等しくなるよう調整が働く)。利子率をiとし、その他資産の収益率をこれで代表させると耐久財についての利潤率均等の条件 i=(q-δP)/P が得られる。

自動車の価格Pとそのレンタル料金qはそれぞれの市場で需給を均衡させる水準に決定される。ここで問題となるのは各市場で決定された均衡価格(P*、q*)が耐久財についての利潤率均等の条件をも同時に満たしうるかどうかということである。レンタル市場で需給を均衡させるレンタル料金がq*に決定され、また利子率が与えられると利潤率均等の条件から自動車価格P’が求められる。はたしてP’は自動車(売買)市場を均衡させる水準(P’=P*)でありうるだろうか。極めて偶然的な場合を除いてP’では自動車売買市場での需給は均衡しないであろう(価格Pが需給調整機能を放棄する)。つまりは利潤率均等の条件を前提する限り、レンタル市場・自動車売買市場が同時に均衡するのは困難なことなのである(「耐久財のディレンマ」)(ガレリャーニ(P.Garegnani)が同様の指摘をしているということをどこかで読んだ記憶があるんだが、はてさてどこだったかしら。ワルラスによる一般均衡の枠組みの下(正常利潤を含んだ費用方程式)においては諸資本財間の利潤率の均等を保証するメカニズムは存在しない、みたいな感じだったかしら )。

耐久資本財(機械設備)市場においてP’で需給が均衡しない場合(上で論じてきたことは耐久財一般にも妥当する;Pは新品の機械価格、qは機械の生産用役の価格(生産部門と機械保管部門の間に機械の生産用役のレンタル市場があると擬制的に考える)、p44参照)、資本財に売れ残り(需要<供給)や品不足(需要>供給)が発生する(需要の大きさが供給の水準を決定する「反セイ法則」)。「株式会社が発達するにつれ、大衆資本が動員された結果、大多数の資本家は企業経営とは何の関係もない人となってしま」い「資本家と企業者は独立にな」(p151)ると投資決定(資本財需要)と貯蓄(資本財供給)決定も独立になされるようになり、(第一次世界大戦後のように)「生産力は高水準だが停滞し、技術が発展する可能性は乏しく、したがって技術革新の余地はほとんどな」(p151)く「経済が発展して投資機会が少なくなると、資本財を供給しても、需要されるとは限らなくなった」(p231)。資本財供給は過少な資本財需要にあわせて抑制され、資本財生産産業の労働需要量や資本用役への需要量は減少、労働市場や資本用役市場には過剰供給(失業や遊休設備・予期せぬ在庫増)が発生する。労働市場で価格調整(実質賃金の下落)が行われる結果として過剰雇用は一掃されるだろう。しかしながら新たに失業した人々は「賃金下落により労働意志をなくして自発的に市場から退場した自発的失業者のようにも見えるが、それはもとをただせば、資本財に対する有効需要が少ないことにより、資本財を数量調整した結果生じた失業である。ケインズはこのような有効需要の不足に基づく失業は、一見自発的に見えても、彼のいう失業、すなわち非自発的失業として取り扱う」(p232)。

森嶋教授によれば「耐久財のディレンマ」が「反セイ法則」(過少な投資需要の大きさに生産(貯蓄)が圧縮される)を通じて大量失業の脅威を経済に及ぼすようになるのは経済発展の結果であるという。

資本蓄積が進行し、経済発展がなし遂げられるにつれ、投資機会の多くは実現済みのものとなり、少ししか投資機会が残されていなくなる。その結果、技術発展が急速に進行する例外的な時代を除いては、一般に投資需要は、余剰生産物(実物貯蓄)より遥かに小さくなる。「供給(貯蓄)はそれ自身に対する需要(投資)をつくる」という意味のセイ法則は満たされなくなる。すなわち資本蓄積、経済発展の必然的結果として、経済はセイ法則の時代から反セイ法則の時代に転換する。(p240)

反セイ法則が現実的に妥当し始めるのは「耐久財の持つ比重が、近代社会で大きくなったことと、生産力が増大したために耐久財について容易に生産過剰が起こりうるようになったから」(p47)であり、「異論もありえようが、私自身は、おそらくは第一次世界大戦前から、ほぼ(戦後には、全く)そういう時代になってしま」(p232)い、「戦間期および第二次大戦後を通じて、現実がセイ法則から遠ざかるにつれ、完全雇用均衡も実現不可能になったのである」(p233)。森嶋教授のこのような見方からは世界恐慌も反セイ法則(構造的な投資需要不足=デフレ期待による名目期待キャッシュフローの低迷が原因ではなく、資本蓄積による収益逓減の結果としての名目期待キャッシュフローの低迷が原因)が現実世界で猛威を振るった一例ということになる(p152~153参照)。

経済発展の結果として資本の蓄積が進み豊かになると投資需要は低迷せざるを得ない。投資需要の不足は構造的なものである(根本的な打開策は投資ブームをもたらすようなイノベーションの実現。公共投資をするなり金利を低位に維持するなりして技術革新が実現するのをひたすら待つしかない)。現在の日本においてゼロ金利にもかかわらず一向に景気が回復しないのも投資需要が構造的に不足してるからなんでしょうかね? 日本が豊かすぎるのが原因なんでしょうか? イノベーションの実現を期待するしかないんでしょうか? 日銀さん、どう思います?

| | コメント (696) | トラックバック (0)

出口の抜け方

7月12、13日に開催された金融政策決定会合での決定は、前回と同様当座預金残高目標を30~35兆円に維持するとともに、俗に言う「なお書き修正」として、金融機関の「資金需要が極めて弱いと判断される場合には」残高目標の下限割れも容認する姿勢を引き継いだ形となっている。果たして下限割れ容認は量的緩和政策解除への地ならしを意味するのだろうか。量的緩和の出口は間近なのか。「出口政策」について冷静に、現実的なものとして考えるべき時のようである(総裁定例記者会見において記者の「金融経済月報の中で「供給オペに対する札割れが続く」という表現があるが、札割れが頻発すると量的緩和政策の目標を維持できないはずである。今回このように表現された理由について、何がしかの下ごしらえの意味があるのか。総裁の言葉で言えば「積み残しがある」かのようなイメージを受けるが如何か。」との質問に「私どもとしては、5月20日の金融政策決定会合で「なお書き」を修正して、流動性需要が著しく減退しているような場合に一時的な目標値の下限割れがあるということを決定したわけである。現にその方針のもとに金融調節を行ってきているわけであるから、その後の市場状況を述べる場合に、札割れ現象にまったく触れないでいくことはあまり正直ではないだろうと思う。記者の皆様や私どものように札割れ現象という言葉を既に何回も耳にしている人達と違って、金融経済月報は一般の方々にも読んで頂くわけであるので、札割れという現象が一度も表現されたことがないというのは、むしろおかしいということである。それ以上の深読みは明らかに深読みであり、それ以上の意味は一切ない。」と答えており、この総裁の言葉をそのまま信じれば「出口」はまだまだ先のようではあるが・・・)。

量的緩和政策の解除条件として日銀は3つの条件を挙げている

  1. 直近公表の消費者物価指数の前年比上昇率が、単月でゼロ%以上となるだけでなく、基調的な動きとしてゼロ%以上であると判断できること

  2. 消費者物価指数の前年比上昇率が、先行き再びマイナスとなると見込まれないこと(政策委員の多くが消費者物価指数の前年比上昇率がゼロ%を超える見通しを有していること)

  3. 量的緩和政策を継続することが適当であると判断されるような経済・物価情勢が見受けられないこと

この3条件が満たされた場合、量的緩和政策は出口を迎えることになる。量的緩和という異常事態から金利(コールレート)を操作目標とする正常な、また伝統的な金融調節へ。終着点ははっきりしている。しかしながら、その道程ははっきりしない。当座預金残高目標を徐々に減額していくのか、それとも一気にゼロ金利解除に踏み込むのか。果たしてどれだけのスピードで出口を駆け抜けていくのだろうか。

安達誠司著『デフレは終わるのか』を参照して量的緩和解除の具体的プロセスを考えてみよう。安達氏は植田和男・日銀審議委員(当時)の2004年5月26日の日経CNBCの番組上での発言から出口政策のプロセスを3段階にまとめている(p77)。

  1. 量的緩和の解除

  2. 量的緩和と通常の金利政策との過渡期の政策運営

  3. 平時の金融政策運営

2の過渡期においてゼロ金利を維持するか(量的緩和→ゼロ金利→通常の金利政策)、それともゼロ金利を解除してコールレートの変動(上昇)を認めるか(量的緩和→通常の金利政策)。前者はスロースピードの出口政策であり、後者はハイスピードの出口政策といえよう。間にゼロ金利を挟むということは、当座預金残高を徐々に減額していくことを意味しており(所要準備を上回る超過準備を容認)、一気に通常の金利政策に回帰することは超過準備を一挙に放出する(当座預金残高を所要準備の水準まで圧縮する)ことを意味している(積み進捗率の調整によりコールレートを操作するためには支払準備は所要準備の近辺にある必要がある。大幅な超過準備が存在する状況ではコールレートは低位で安定したままのはずである)。ハイスピードの出口政策を実施するためには、日銀は大規模の売りオペにうってでるか準備預金率を大幅に引き上げなければならない(超過準備は30兆円近くに上る)。安達氏は実行可能性の観点からハイスピードの出口政策に対し否定的な結論を下している(「金利政策への回帰」を出口と位置付けるならば、金利政策への回帰のための必要条件である「余剰準備の解消」が大きなネックとなるため、実現は実質的にはほぼ不可能であると結論付けられる。」(p103))。

そもそも現在は「出口政策」に乗り出すべき時なのだろうか。安達氏は、テイラー・ルールやマッカラム・ルールによる現状の金融政策の評価、1936~37年にアメリカで実施された「出口政策」の歴史を踏まえて次のように述べる(アメリカの前例から4つの教訓を引き出しています)。

当時のアメリカにおける一連の政策パッケージは、2003年5月以降の大規模な円売りドル買い介入とそれに付随した量的緩和の拡大というわが国のデフレ圧力解消局面に酷似していると考えられる。このことはリフレ派が想定しなかった「レジーム転換なしのリフレ政策」でもいったんは、デフレ圧力の解消が可能であることを示唆している。だが、「レジーム転換なしのリフレ政策」はどうしても「早すぎる出口政策発動」の誘惑を断ち切ることが困難なようである。この点については、現在の日本も同様のケースである可能性が高く、「早すぎる出口政策」が今後のリスクとなる可能性は棄て切れない。(p92)

デフレを解消することへの明確なコミットメントが無い状況(経済主体のデフレ期待転換への働きかけが無い状況)で自然治癒を果たした1937年のアメリカ経済は「出口政策」に乗り出して失敗を犯した。私が言えることは、出口の先に広がる景色ばかりに気をとられて道中石に躓かないよう注意してください、ということだけである。

| | コメント (587) | トラックバック (0)

非効率なナッシュ均衡に陥った日本経済

藪下史郎著『非対称情報の経済学』(光文社新書、2002年)を再読。

情報の非対称性が引き起こす問題―逆選択やモラハザード―について、著者が大学院生時代に師事したスティグリッツの経歴を交えつつ、実にわかりやすく丁寧な説明がなされている。新味が無いといえばそういえなくもないけれども(経済学になじみの薄い一般ビジネスマンや大学一年生を対象とした「通勤電車の中でも手軽に読める」入門書、と位置付けてるんだから仕方ないか)興味深い指摘も散見される。一つだけ引用。

アダム・スミス以来経済学では、経済発展のためには分業が重要な役割を果たしているということを指摘してきた。・・・交換経済のためには分業が行われ、各人が専門分野に特化することによって、生産性を高めた・・・しかし特化は、自分の専門分野だけの生産に従事することであるため、その分野についてはより詳しく知ることができるが、それ以外の分野については情報を得る機会が少なくなる。多くの人々は、専門または自らが生産過程に従事している分野についは多くの情報を持つが、それ以外の分野については情報を持たなくなる。すなわち、経済発展に伴って必然的に非対称情報が生まれるのである。(p82)

最終章の7章では低迷する日本のマクロ経済の問題が取り上げられている。本書の中で私が最も関心を引かれた個所である。「規制緩和や構造改革などは長期的に経済効率を高める上で必要不可欠であったとしても、失業率のような短期的問題の解決には有効でな(い)」、「貨幣金融部門から実物経済への影響だけでなく、実物部門での企業経営が悪化することが、銀行に不良債権を生み出し金融システムを不安定化するという、逆方向への関連が重要であることが分かる」、「不安定な金融システムと実物部門でのデフレや失業問題は、総需要不足だけでなく、さまざまな市場機能の不完全性が複雑に絡み合って生じているため、・・・単に財政政策か金融政策か、またマクロ政策かミクロ政策か、という二者択一的な問題ではなく、それらを総合的かつ有機的に用いる必要がある」。

「総合的かつ有機的」な政策対応が求められているにもかかわらず、民間部門と政策当局を含む日本経済全体は非効率的なナッシュ均衡状態にあるという。財務省は累積する赤字に、日銀は将来のインフレに、それぞれ懸念を抱き単独での景気刺激策に乗り出すことに躊躇する。自己資本の減少を防ごうとする結果、銀行は不況下での不良債権処理には乗り気でない(新たな不良債権を生むだけ)。不確実な将来に備え、企業部門は積極的な投資を控え、家計部門は消費よりも貯蓄を優先する。他の経済主体の行動を所与とする限り、危険回避的な行動をとり続けることが各人にとっては最適な反応となる。結果として経済全体としては非効率な状態はいつまでも続き、不況から抜け出す兆しはなかなか見えてこない。

「日本経済が陥っている非効率なナッシュ均衡的現状から脱却し、素早い景気回復を実現するためには、積極的かつ総合的経済政策を迅速に実行する力強い政治力が不可欠である」(p233)んだけども、莫大な政治的エネルギーは郵政民営化に注がれ続けているわけで・・・。

| | コメント (4603) | トラックバック (0)

2006年4月20日 (木)

IS-LMの使用法

前回続き。IS-LMへの批判について。

根井雅弘著『「ケインズ革命」の群像』ではIS-LMに対する2つの批判(IS-LMがケインズの重要な側面を捨象している点を問題視するもの)が取り上げられている。第一はパシネッティによるもので、IS-LMでは変数間の関係が相互依存的なものとして捉えられており、変数間の因果関係の吟味といった(ケインズが本来有していたはずの)視角が忘却されてしまっているという批判である。IS-LMでは所得(Y)と利子率(i)がIS曲線とLM曲線が接する点で同時決定される。変数間の依存関係は視野に入っているけれども因果関係ははっきりしない。本来ケインズは流動性選好が原因となって所得や雇用量が規定されるという明確な因果の連鎖(「原因から結果へと因果順序がはっきりしている型」としてのケインズ体系)を想定していたはずである。つまりは、流動性選好によって利子率が決定される→資本の限界効率と利子率比較により設備投資量が決定される→総需要量/雇用量の決定、というように。

「ケインズは、限界主義的経済理論家に広くみられる、『すべてのものは他のすべてのものに依存している』とする姿勢に反対し、どの変数同士が、連立方程式体系で表わすのが最も適切であると判断されるほど互いに十分緊密に相互依存しているか、そして、互いに相互依存関係にある二つの変数の間でも、どちらの方向の因果関係が圧倒的に強いか(そしてどちらの方向の因果関係がずっと弱いか)ということの識別に基づいて、どの一方方向の因果関係だけを定式化することが最も適切であるかということを確定することが、経済理論家としての自分の任務である、と考えるのである」(パシネッティ『経済成長と所得分配』、p50)(根井、p140からの孫引き)

第二の批判はシャックルによるものである。「失業の理論は、現実の人間の状況につきまとう不確実な期待や冒険的な意思決定(シャックルは、これを‘enterprise’と呼ぶ)を取り扱わなければならないという意味で、必然的に無秩序の理論となる」のであり、「『一般理論』の核心は、それが「無秩序の経済学」(Economics of Disorder)を理論化したもの」であるはずにもかかわらず、IS-LMでは「‘enterprise’が占めるべき正当な場所が全くない」(根井、p136)。「‘enterprise’とはリスクであり、リスクとは無知なのに対して、均衡とは無知の事実上の追放」を意味するわけで、均衡という枠組みに基礎付けられたIS-LMは「無知の事実上の追放」の上に成り立っていることになる。簡単に言えば将来の不確実性(とそれ故の期待の不確定性)を無視したIS-LMの罪を咎めているわけです。

第二の批判に関して(シャックルに直接返答するというかたちをとっているわけではないが)ヒックスは面白いことを語っている。

The relation which is expressed in the IS curve is a flow relation, which・・・must refer to a period, such as the year・・・. But the relation expressed in the LM curve is, or should be, a stock relation, a balance-sheet relation. It must therefore refer to a point of time, not to a period. How are the two to be fitted together? (“IS-LM-an Explanation”、p328)   

IS関係は貯蓄-投資の均等化というフロー均衡(関係)を記述しており、LM関係は貨幣(債券)需給の均等化というストック均衡(関係)を記述している。フロー(期間)とストック(時点)という異なる時間の次元に属しているものを同時に取り扱うためにはどうしたらよいだろうか? 一つの解決策はLM関係をIS関係に適合させる、つまりは期間にわたる(あるいは期間を通じた)ストック均衡(ある一時点においてストック均衡が実現されているというにとどまらずフロー均衡(I=S)が実現されている期間の間においても同時にストック均衡が実現されている(ストック均衡が維持されている maintenance of stock equilibrium))という概念を持ち込むことである。

わたくしは前に、時間をつうじての均衡はストック均衡の持続を必要とすると述べた。これはたんに期首と期末においてストック均衡があるばかりでなく、またその期の進行中も引きつづきストック均衡があるという意味に解釈してよいであろう。たとえばわれわれが「長」期を「短」期の系列と考えるとき、この「長」期は、それに含まれるそれぞれの「短」期が時間をつうじての均衡にある場合のみ、同時に時間をつうじての均衡にあるのである。予想は相互に抵触しないものと考えられているから、ある「短」期とつぎのそれとのつなぎ目で予想の改訂が行われることはない。体系はこれらのつなぎ目のどれにおいてもストック均衡にあり、またこれらの相抵触しない予想に関してもストック均衡にある。これは予想―その「長」期のなかで生じてくる需要に関する―が正しい場合のみ可能である。時間をつうじての均衡は、このようにその期間内の予想の、現実との一致を必要条件としており、任意であってよいのは一そう遠い将来に関する予想だけである。(『資本と成長Ⅰ』、p166~167)

時間(期間)を通じてのストック均衡が維持されるのは予想(期待)と現実の食い違い(期待の錯誤)がない場合のみである。同じ時間軸上でISとLMがそれぞれ均衡にあると想定するためには、期待が確実に実現するという非現実的な仮定を必要とする。そもそもLiquidity(流動性;LMの“L”)の存在理由は将来の不確実性にあるのではないか。将来に関する期待が不確実であり物事が期待通りにすすまない(期待が現実に裏切られる)からこそ流動性が保有されるのではなかったか。IS-LMを厳密な形で定式化する(時間の次元を揃える)こと(時間を通じてのストック均衡の維持を想定すること)は将来の不確実性を無視することと同値なのである。

ヒックスのこの議論はシャックルの批判に対する完全な敗北を認めることになるのだろうか。将来の不確実性を取り扱えない(取り扱おうとしない)IS-LMには何らの価値も存在しないということになるのだろうか。答えは使用法に依存してYesともNoともなりうる。将来を予測するためではなく過去を説明するためであればIS-LMは依然として有用である。使い方さえ間違えなければ(将来予測のために利用するという欲さえ持たなければ)、IS-LMは今後も十分価値あるモデルとして生き続けていくことができる。

When one turns to questions of policy, looking towards the future instead of the past, the use of equilibrium methods is still more suspect. For one cannot prescribe policy without considering at least the possibility that policy may be changed. There can be no change of policy if everything is to go on as expected-if the economy is to remain in what (however approximately) may be regarded as its existing equilibrium. It may be hoped that, after the change in policy, the economy will somehow, at some time in the future, settle into what may be regarded, in the same sense, as a new equilibrium; but there must necessarily be a stage before that equilibrium is reached.(“IS-LM~”、p331)

政策変更がどういった影響を及ぼすのかということを考察することは将来の経済状況を予測することである。政策の変更は将来の経済環境に対する経済主体の認識を変化させ、期待の有り様を変容させる(結果として政策実施前後で行動も変化する)。新たな期待形成の元で新しい均衡がやがては実現するけれども、政策変更前の古い均衡からその新しい均衡に到達するまでには調整過程を要する。ある長さを持った期間(period)において均衡が実現されると考えるIS-LMではその調整過程を説明できない。時間を通じたストック均衡(LM均衡)が維持されるためにはある期間(period)において期待の改訂が行われないと想定する必要があり、IS-LMを用いて政策変更の将来効果を説明することは政策変更が経済主体の期待形成に何らの影響を及ぼさないと見なすことを意味することになる。モデル形成(現実の抽象化)の過程で現実のある側面を捨象することは致し方ない面があるけれども、政策変更による期待の変容あるいは将来の不確実性に基づく期待形成の改訂の可能性を無視することが妥当な抽象化といえるかどうか。将来の不確実性(政策変更も含めて)に直面している現実経済において各経済主体は将来に対する期待を形成し、それに基づいて意思決定を行っているわけであり、現実経済の今後の展開を予測する上で期待に基づく意思決定(加えて期待形成の変更の可能性)を無視すること(未知の将来をモデル内に組み込まないこと)は致命的な欠陥と言えるのではないだろうか。

期待の改訂が行われるのは将来が未知であり、(事前に)何が起こるか完全には予測できないからである。これから起こることを予測するためには将来環境(に関する認識)の変化による期待の改訂の可能性を無視することはできないないが、すでに起こってしまったことを説明するためには期待改訂の可能性を考慮する必要はない。予測すべき将来が過去のものとなっておりすでに意思決定は済んでいるからである。既に起こってしまったことに関して期待の改訂が行われるはずはない。

We have, then, facts before us; we know or can find out what・・・did actually happen in some past year. In order to explain what happened, we must confront these facts with what we think would have happened if something (some alleged cause) had been different. About that, since it did not happen, we can have no factual information; we can only deduce it with the aid of a thory, or model. And since the theory is to tell us what would have happened, the variables in the model must be determined. And that would seem to mean that the model, in some sense, must be in equilibrium.(同上、p327)

IS-LMの交点(均衡所得/利子率)は過去(のある年)に実際に起こったことを示している。IS曲線の中でLM曲線と交差する点のみが実際に起こったことであり、LM曲線との交点以外のIS曲線上の点は利子率が現実とは違う水準にあったならばどうなっていただろうかということを理論的に推測したものである。現実には起こっていないのであるから、均衡利子率水準以外のIS曲線上の点が(それぞれの利子率水準における)フロー均衡を正確に描写しているかどうかは知り得ないけれども、あたかも均衡にあったかのように取り扱うとしても過去を説明するという目的からすれば許される単純化であろう(It is sufficient to treat the economy, as it actually was in the year question, as if it were in equilibrium.・・・it is permissible to regard the departures from equilibrium, which we admit to have existed, as being random.)。

過去を説明するため、過去において実際とは違う状況であったらどうなっていただろうかという思考実験のため、にその使用を限定するならばIS-LMもまだまだ捨てたものではないということです。将来の不確実性を取り扱っていないという批判はIS-LMに対する過剰な期待の裏返しともいえるもので、IS-LMは過去(加えて可能性としての過去)を描写するものと禁欲的に考えればよいのではないでしょうか。

We are to confine attention to the problem of explaining the past, a less exacting application than prediction of what will happen or prescription of what should happen, but surely one that comes first. If we are unable to explain the past, what right have to attempt to predict the future? I find that concentration on explanation of the past is quite illuminating.(同上、p327)

過去を説明することしかできないからといって落胆する必要はない。過去を説明することができずにどうして将来を予測することなどできようものか(将来を予測しようなどと大それたことを言えるものか)。経済のメカニズムについての知識を蓄積し、もって将来予測の手助けとするためにも過去を説明する手段(モデル)の存在は大変貴重なものなのである。

『資本と成長』のリンク先を探してたら見つけた(『資本と成長』はAmazonでもbk1でも紀伊國屋でも「現在取り扱いしておりません」だと)。相変わらず勉強になるな~。 http://www.ichigobbs.net/cgi/15bbs/economy/0040/1-70

| | コメント (3380) | トラックバック (0)

諸々の「ケインズ革命」

根井雅弘著『「ケインズ革命」の群像』を読む。

1936年以前に経済学者として生をうけていたことは幸いであった―然り。しかもあまりにも以前に生まれていなかったことが!

暁に生きてあるは幸いなり

されどその身若くありしは至福なるべし

『一般理論』は、南海島民の孤立した種族を最初に襲ってこれをほとんど全滅させた疫病のごとき思いがけない猛威をもって、年齢35歳以下のたいていの経済学者をとらえた。50歳以上の経済学者は、結局、その病気にまったく免疫であった。時がたつにつれ、その中間にある経済学者の大部分も、しばしばそうとは知らずして、あるいはそうとは認めようとはせずに、その熱に感染しはじめた。(p12)

サミュエルソンがケインズ『一般理論』に接した若かりし日の衝撃を熱っぽく語った有名な言葉(とある評論家氏によれば、時代が停止したような紋切り型の表現であり、あまりに陳腐な修辞であるそうだ(「南海島民の~経済学者をとらえた」の件を指して)。宇沢弘文教授の言葉と勘違いなさっているようで、いらぬ批判をうけた宇沢教授はこの怒りの矛先を一体どこに向けたらよいのでしょうか。宇沢『経済学の考え方』と同時に取り上げられている間宮陽介『ケインズとハイエク』は「新書にしては一見とっつきが悪いが、文章の密度にムラがなく、著者の意気込みも十分に読み取れる」(p85)と好評価。宇沢本は間宮本と対照的とのこと)。

「正統派(古典派)経済学」への徹底的・根源的な批判を意図したケインズ『一般理論』は若き経済学徒から(サミュエルソンに限らず)熱狂的な支持をもって迎えられた。大恐慌という現実の苦境を目の前にして何らの解決策を提示しえない正統派に対する鬱憤を募らせていた経済学者の卵たちにとって、不況の発生メカニズムの説明とそれへの処方箋を用意しているかに見えたケインズ『一般理論』は一つの福音のように感じられたからである。

十人十色と言いますが(10人の経済学者が一堂に会して経済問題について議論すると11個の処方箋が提示されるようですので十人十一色がヨリ正確でしょうか。経済学にまつわる迷言についてはhttp://www.econ.kobe-u.ac.jp/~koba/econ/ejoke.htmも参照のこと)、ケインズ解釈も人によりけり多種多様です。時代や場所が異なれば一層そうなります。各国ないしは各地域におけるケインズ解釈の具体的な有り様(加えて簡潔に定式化(体系化)されたケインズ像への反発やケインズその人に対する反論も含む)を辿っていく。これが本書の主旨となります。主な舞台はアメリカ(ハーバード)とイギリス(LSE(ロンドン)、ケンブリッジ)。

サミュエルソンが乗数分析(貯蓄・投資による所得決定理論)や新古典派総合をケインズの真髄として強調すれば、J.ロビンソンが雇用の質を(「経済学の第二の危機」)、ガルブレイスが需要の質(「依存効果」、「社会的バランス」の欠如等)を問題にする(スウィージーとシュンペーターもでてきます。「理論と実践は区別すべきとの信念を持つ」シュンペーターと「時論を書き続けることによって理論を研磨した(理論と実践が手を携えている)」ケインズとの相容れない性格(体質)等)(アメリカ)。徹底した新古典派経済学の教育を受けたカルドアのケインズ派への転向(分配の限界生産力説からケインズ乗数理論を基礎とする分配理論へ)があれば(ロビンズの後年における自己批判も)、ハイエクは集計量で経済分析を行う道を切り開いたケインズを批判する(LSE)。ケインズとピグーの対立(公共投資の割り当てに関する考えの相違・不確実性の見方の違い等)、『貨幣論』を執筆するにあたって大きな影響を受けたロバートソンからの離別(利子論を巡る対立(貸付資金説(フロー)VS流動性選好説(ストック)))、そしてヒックスによるIS-LM図とパシネッティ・シャックルによる批判(ヒックスはLSEに含めるべきか)・・・(ケンブリッジ)。『一般理論』の同時発見者としてのカレツキー(ヒックスの伸縮価格/固定価格市場という市場類型認識はカレツキーの「需要によって決定される価格」/「費用によって決定される価格」の区別に触発されたものとのこと)、ケインズの弟子としてのJ.ロビンソン・カーン・ハロッドについても触れられております。

興味深い記述を一つ二つ引用。

新古典派総合は、完全雇用の達成を目標としただけではない。それは、さらに、完全雇用を達成した後でも、緩和的金融政策によって投資を拡大するとともに、緊縮的財政政策によってインフレーションを抑制しながら経済成長率を高めていくことをねらっていた。・・・(以下はサミュエルソンの言葉;引用者)「新古典派総合の結果の一つは、現代社会は、拡張的貨幣政策をとりながら、他方ではディマンド・プル・インフレーションをさまたげるために十分厳格な財政政策を採用することによって、資本の深化を導きだし、これにより完全雇用点における成長率を高めうるという楽観的な見解である。要するに、これらの施策を結合させれば、完全雇用所得のなかの消費部分を引き下げながら、しかも完全雇用自体をおびやかさないことも可能であろう」(p28)

・・・留意しなければならないのは、ケインズによる客観的経済法則の発見という場合、それが経済全体のスケールで集計された経済数量・・・の間の因果関係の発見だということである。・・・ミクロの経済主体の行動が多様であるとしても、そうした個々の経済主体の行動の合成量は単一の客観的な数量である。それは個々の経済主体の意思の産物であるが、そうした個々の意思から独立した数量である。ケインズの発見した客観的経済法則とは、こうした集計量の間の法則なのである。(p80)

ヒックスIS-LMに対するシャックルの批判(不確実性の無視)について(そしてこの批判を念頭においての「IS-LMは過去の説明のためにのみ限定して使うべきだ」というヒックス発言)は後ほど書く予定。

| | コメント (260) | トラックバック (0)

流動性のワナ

貨幣需要の投機的動機=貨幣と「債券」(コンソル債)間の資産選択の問題、について(堀内昭義著『金融論』、p140~144参照)。コンソル債(確定利付き債)の流通価格;P=cF/i (F:額面価格、c:クーポン率、i:利子率(最終利回り))

コンソル債を1年間保有することによる収益率(1年後に市場で売却);P(0)=cF/(1+α)+P(1)/(1+α)→α=[cF+(P(1)-P(0))]/P(0)%20(P(0)・P(1);現在・1年後の債券の流通価格、α;収益率=利息とキャピタルゲインを現在の市場価格で割った値)

(a)i(0)=C/P(0) (C=cF)

(b)α=[C+(P(1)-P(0))]/P(0)=i(0)-(i(1)-i(0))/i(1)

(b)の導出過程;α=C/P(0)+P(1)/P(0)-1=i(0)+[C/i(1)]/[C/i(0)]-1=i(0)+i(0)/i(1)-1=i(0)+[i(0)-i(1)]*1/i(1)=i(0)-(i(1)-i(0))/i(1)

(b)に示されているように収益率αと最終利回りiは一致するとは限らない。来期の利子率が今期よりも高まると予想される時(i(1)>i(0))、収益率αは最終利回りi(0)を下回る。来期に利子率が高まると予想することは債券価格が下落すると予想していることと同値であり、最終利回りが正であってもキャピタルロスを嫌気して貨幣が保有される場合が存在する(i(1)>i(0)と予想し、また利子率の期待上昇幅がかなり大である時に、収益率αがマイナスになる場合がある)。i(1)がある一定値に止まり続ける場合、今期の利子率i(0)が下落すればするほど将来の債券価格の下落が期待され貨幣に対する需要が高まることになる。このようにして投機的動機に基づく貨幣需要は利子率の減少関数として規定される。

利子率の減少関数である流動性選好関数(貨幣需要関数)を導くに際して、i(1)に関する「非弾力的な期待」という仮定(人々は利子率に関してある正常な水準が存在すると想定しており、正常利子率に関する期待は今期の利子率変動の影響をそれほど受けない)が背後に存在する。

今期の利子率i(0)の変化が来期の利子率i(1)にどれだけの変化をもたらすかを表現する指標として期待の弾力性βを定義。β=[di(1)/i(1)]/[di(0)/i(0)]である(今期の利子率が1%上昇した時、来期の利子率が何%上昇するかを測定)。

(c)(=(b)を全微分);dα/di(0)=1+(1/i(1))(1-β)

(c)((b)=i(0)+i(0)/i(1)-1)の導出過程;dα=[∂α/∂i(0)]*di(0)+[∂α/∂i(1)]*di(1)=[1+1/i(1)]*di(0)+[-i(0)/i(1)*i(1)]*di(1)→(両辺をdi(0)で割る)dα/di(0)=[1+1/i(1)]-{i(0)/[i(1)*i(1)]}*[di(1)/di(0)]=1+(1/i(1)){1-[i(0)/i(1)]*[di(1)/di(0)]}=1+(1/i(1))(1-β)

期待の弾力性が小さい時(1よりも小の時)、今期の利子率i(0)の上昇は債券の期待収益率αを上昇させることになる。今期の利子率が正常水準を上回ったとしても、人々は利子率は正常値に回帰(下落)してくるだろうと判断する(今期の利子率上昇を観察してもそれに併せて将来の利子率期待(正常利子率)を上方修正しない)。つまりは債券価格が上昇することを期待(キャピタルゲインの獲得を期待)して債券への需要が増加、貨幣需要は減少するわけである。利子率上昇が貨幣需要を減少させる。流動性選好関数の出来上がりである。

長い長い前置きはこれにて終了。この記事を書いた理由は別のところにある(昨日の記事で非弾力的期待に触れたのでそれについても書こうとは考えたけれども)。同書のp145~146における流動性の罠に関する記述が実に興味深く、そのことを論じたかったわけである。その部分を引用。

(流動性のワナが生じる)第二の可能性は、今期の貨幣供給の増加が、将来の金融引締めの期待を生み出し、人々の利子率の期待値i(1)が上昇してしまう場合である。この場合には、貨幣供給曲線MMの右方向へのシフトに対応して、需要曲線LLが同じく右方向へシフトする。その結果、資産市場の均衡は、以前とほぼ同じ利子率水準の下で成立するのである。(p145)

縦軸が利子率を、横軸が貨幣需要・供給量を表す二次元の図上において、右下がりの貨幣需要曲線(LL、利子率が低下すると貨幣需要が増加)と縦軸に平行な貨幣供給曲線(MM)が交差する点において貨幣市場は均衡する。利子率の期待値i(1)が上昇した時、(b)より債券の期待収益率は低下するので債券需要は減少する。この時、同じ利子率i(0)の水準における貨幣需要は増加するので、需要曲線LLは右方へシフトするのである。「今期の貨幣供給の増加が、将来の金融引締めの期待を生み出」すと(c)においてβが負の値をとることになり、債券価格の急激な下落が期待されて(1/i(1)の下落幅との兼ね合いによるが)、そうでない場合と比較すると貨幣需要がヨリ強まることになる。貨幣供給曲線の右方シフトは貨幣需要曲線の右方シフトによって相殺され、利子率の水準は緩和以前とそれほど変らぬ状態で推移するため、金融緩和による景気刺激効果が発揮されることはない。

今期の金融緩和措置が将来においても維持される(将来も金融緩和は続く)と期待されるとどうなるだろうか。利子率の期待値i(1)が下落すると貨幣需要曲線は左方にシフトする。貨幣供給曲線の右方シフトと合わせて考えると、(流動性のワナから脱して)利子率i(0)の下落を生んで景気に対してポジティブな影響を及ぼすことになろう。(c)のβは正の値を取り、以前と比べその値が上昇するならば(1-β)が下落するので(1/i(1)は上昇するため、二つの兼ね合いにもよるが)債券への需要が増加、貨幣需要は減少して貨幣需要曲線は左方にシフトすることになる(βが1よりも大きい値を取る時、急激な貨幣需要の減少を生むだろう。非弾力的な期待を仮定しなければ、このケースの流動性のワナから脱することはより簡単なことなる(あるいは、民間経済主体の期待に働きかける政策を視野に入れることが可能になるわけで政策手段の数が増えると言ってもよい))。民間経済主体に将来も金融が緩和され続けることを期待させて(将来の金融緩和をコミットすることで?)流動性の罠から脱出する。なんだかクルーグマンの主張(流動性の罠の定義は違うが)を髣髴とさせる話ですね(流動性のワナの第一のケース、すなわち貨幣需要曲線がある利子率水準で水平になる場合においては対策は困難である。ただし、利子率期待の非弾力性を仮定する限りにおいてだが)。

| | コメント (1814) | トラックバック (0)

2006年4月19日 (水)

世界経済の新皇帝

一つの時代=「the Greenspan era」(A.Blinder, R.Reis、“Understanding Greenspan Standard(pdf)”)が終焉しようとしている。1987年以来約18年間の長きにわたり(この間米国大統領の座はパパブッシュ→クリントン→子ブッシュ、の3人が務めあげている)、FRB議長としてアメリカ経済の「繁栄の90年代」(ないしは「素晴らしい10年」 “Fabulous Decade”;A.ブラインダー/J.イェレン著『良い政策 悪い政策-1990年代アメリカの教訓』)を演出したグリーンスパンが明日2月1日をもって議長職を辞するのである。「マエストロ(名指揮者)」グリーンスパンの後を継ぎ、FRB議長として、また「世界経済の新皇帝」として新たな時代の幕を開くその男の名はベン・バーナンキ Ben Bernanke。マサチューセッツ工科大学で経済学博士号を取得後、スタンフォード大学、プリンストン大学等で教鞭をとり、2002年にFRB理事、そして2005年には大統領経済諮問委員会(CEA)委員長に就任。アカデミックな世界だけでなく政策の現場でも精力的な活躍を続ける世界を代表する経済学者である。

406213260501 バーナンキとは一体何者なのか? 彼は何を考え、我々をどこへ連れて行こうとしているのか? 果たして彼に「世界経済の新皇帝」としての任が務まるのであろうか? これらの疑問に答えるべく、「バーナンキ経済学」の真髄を解き明かすために緊急出版(1カ月半(!!)という短時日で脱稿)されたのが田中秀臣著『ベン・バーナンキ 世界経済の新皇帝』である。

バーナンキといえば「日銀はケチャップでも買え!」、「日銀幹部は一人を除いてジャンクだ!」という刺激的(挑発的?)な発言でよく知られているが、本書では経済学の初歩的な議論からはじめて「バーナンキ経済学」の二本柱「大恐慌研究」/「インフレターゲット研究」の内容を懇切丁寧に解説することで、これらの発言の背後にあるバーナンキの思考枠組みを明快に浮かび上がらせていく。何故デフレが生じるのか? 中央銀行がインフレターゲットを設定することで期待される効果は何なのか? 日本経済がデフレ不況に陥ったのはどういった理由からであり、またこの停滞状況から脱するためにはいかなる政策を処方すべきであるのか? バーナンキの足取りを辿りながら、著者はこれらの問いに次々と説得的な回答を寄せていく。バーナンキを語り、理解することは、経済学を、そして現実の経済問題を語り、理解することでもあるのだ、ということを読後しみじみと感じ入った次第である。

バーナンキの研究活動―特に大恐慌研究・インフレターゲット研究―において一貫していることは、同じ過ちを繰り返さないためにも歴史から真摯に学びとる態度の重要性への認識である。大恐慌研究を通じてデフレの弊害・稚拙な金融政策の有害性を学んだ結果が日本銀行の政策運営に対する(過去の教訓を生かしていないものへの)激烈な批判へとつながっているわけであり、またインフレターゲットを設定することの必要性を認識するにいたったのも1970年代のGreat Inflationの経験からの一つの帰結である(「バーナンキは、この70年代のインフレ予想形成の失敗がいかに社会的コスト(失業)を生み出したかを説明し、今後このような失敗をしないためにも、経済主体の予想形成が金融政策の欠かせない要素になる―と力説している」(p182))。 バーナンキはその学究生活を通じて以下のグリーンスパンの言葉を長年にわたり実践してきたわけであり、前任者からFRB議長という(名目的な)ポストばかりではなく、その精神(スピリット)をもしっかと引き継いでいるわけである。

History teaches us that no matter how well intentioned economic policies and decisions may be, policymakers never can possess enough knowledge of the complexities of the economy nor sufficiently foresee changes in the economic environment to avoid error. But history can and does provide examples that can help guide policymakers away from repeating the worst mistakes of the past. Indeed, only through an understanding of historical precedents can we continue to improve our policies.(At a book reception for the publication of volume I of Allan Meltzer's History of the Federal Reserve

歴史をひもとけばわかるように、いかに政策や決定が善意に基づいていたとしても、政策担当者たちが経済の複雑さについて十分な知識を保有することはないし、経済の変化について十分に予見して誤りを避けることができるというわけでもない。けれども政策担当者たちは、歴史を学ぶことで、「過去の最悪の過ちを繰り返す」愚行を避ける手がかりを得ることができる。実際、歴史的先例に学んでこそはじめて、わたしたちは自分たちの政策を改善し続けることができるのだ(若田部昌澄著『経済学者たちの闘い』、p286より)

「おわりに」において著者は次のように語っている。

私のデフレ研究は、バーナンキの論文を最初に読んだ15年前に始まり、そしていま、本書を書き終えることで一山越えたように思える。15年にわたってバーナンキ経済学への関心を維持してきたわけだが、その理由の一つは、不幸なことだが日本がその間ずっと(そしていまもなお)大停滞を継続してきたからにほかならない。その意味で、これからも日本経済はまだまだ彼から豊かなアドバイスを汲み取ることができるだろう。(p213)

「失われた15年」なしには本書と出会う機会はもしかしたらなかったのかもしれない。その意味では「失われた15年」にも効用が存在したといえるのかもしれない。「失われた15年」が与えてくれたプレゼント。拍手をもって迎えてよいものか、まったくもって複雑な心境ではある。

| | コメント (2678) | トラックバック (0)

2005年7月16日 (土)

理論における革命の条件

暑い。あまりに暑くて現実から逃避したくなる。経済学者にとどまらず大学の教授は、象牙の塔に立て篭る浮世離れした存在との見方が世間一般的な評。regularなエコノミストを目指す私も観念の世界に生きる感覚に慣れておかねばならぬだろう。心頭を滅却すれば火もまた涼しと言うではないか。心の持ちようでどんな苦痛にも耐えられるのなら、徹底的に現実逃避・浮世離れしてこの暑さをぶっ飛ばそう。というわけでハリー・ジョンソン著『ケインジアン-マネタリスト論争』を読む。時代錯誤も浮世離れの一つの条件だろう。

付録論文「ケインズ革命とマネタリスト反革命」は、「「知的変革の経済学および社会学」への修学旅行」であり、経済学世界における理論面での革命(反革命)が成就するために必要となる条件(「経済学の発展において革命や反革命を可能とする社会的および知的諸条件」)を皮肉をこめつつ考察している。なぜ『一般理論』が経済学界にあれほど急速に受け入れられ伝播していったかを仔細に眺めることにより、ジョンソンは革命が成就するために新理論が備えるべき5つの特性を挙げる。

1.既成の正統派理論が仮に最善を尽くしたとしても、解決不能であるような社会問題を発見し、学問的に新しく、また説得力をもつ分析方法を採用して旧学説の結論を逆転させることができること:解決不能な問題=(新)古典派にとっての失業、ケインジアンにとってのインフレ

2.新理論は新鮮さを持ちながらも、同時に正統派理論の正しい部分、あるいは少なくとも誤りであることがはっきりしていない部分を、出来るだけ吸収したものでなければならない=古い概念に新しい、かつわかりにくい名称を与えること:ケインジアン(「資本の限界生産性」→「資本の限界効率」、マーシャルのk→「流動性選好」)、マネタリスト(フリードマンによる新貨幣数量説;「流動性選好説を、富の性質や、富と所得との関係のより精巧な分析を基礎として一般化したものにすぎません。」、富→「恒常所得」)

3.適度の難しさを持つこと。年輩の経済学者には難しすぎるが、若い世代にとっては十分に挑戦しやすく、かつ報いのあるものとなる、つまり野心的な若い学者にとっては職業上の新しい機会への道を開くことを許す程度にしか難しくない。

4.才能があり、日和見主義者ではない学者たちに既成理論よりも魅力を持つ新しい方法論を与え得ること:マーシャルの部分均衡分析とヒックス・アレンによる数学的な一般均衡理論の間隙を埋めるものとしての『一般理論』(数学的には従来より高度な能力を要するが、集計的一般均衡体系として複雑すぎない。また、部分均衡分析のように現実の経済問題と深い関連をもつ)

5.計量経済学者たちにとって未知だがやりがいのある仕事―経験的関係の推定―を提供すること:ケインジアンによる消費関数、マネタリストによる貨幣需要関数

理論の内容如何というよりは経済学者集団の心理のあり様に基づいた分析、「学問的動機」ではなく「政治的動機」に着目した分析である。辛らつで冷ややかな観察だが、読後なぜだかジョンソンのことが好きになった。

「正統派の本質とは、偉大な思想家たちの微妙で高度な理論を、一組の簡単な原理や単純明快なスローガンに変えてしまうことによって、平均的頭脳の持ち主たちが自分たちにも十分理解出来、かつその「理論」の助けをかりて経済学者としてやっていけると考えるようにすることにあります。」(p145)、「ケインズ自身は・・・経済の歴史の流れもよく知っており、また経済理論は一定の限られた歴史的環境の下での政策立案に付随したものとして役立つにすぎないこともよく承知していました。ケインズの信奉者たち・・・は、ケインズが歴史的背景を考慮して行なった分析を、時間や空間に制約されない一組の普遍原理に作り変えてしまいましたが・・・」(p153)。Hicksianと名乗る私も心に深く止めておかねばならぬ戒めである。

ところでジョンソンは「清算主義」的心性についても言及している。1930年代の大恐慌期、「他の経済学者は、大不況をもって、企業や個人が過去におかした投機や、その他の誤った経済行為という罪悪に対して天から下された正当な罰であると見なしました。このようにミクロ的要因に注意を集中させたため、かえって当時すでに手のとどくところに存在したマクロ的分析の重要性を見落としてしまったのです。この誤りによって不況への政策提言にしても、一般性をもった確かな理論的裏づけのないものとなり、ある種の公共事業といった、その場かぎりの思いつき的なものになってしまいました。」(p146~147)。清算主義的心性というのは「時間や空間に制約されない」もののようですね。

この本をどこで購入したかは忘れたが、店先の100円コーナーに置いてあったことだけは憶えている。丁寧にも本の裏表紙に当時の書評が貼り付けてある。

日経新聞1980年(昭和55年)3月9日日曜日。評者は野口悠紀雄氏。肩書きは一橋大学助教授。「なお、ケインズ的政策は現実にはあまり実行されず、したがって戦後の経済的繁栄はそれとは無関係という主張は、わが国でも妥当する。したがって、ケインズ理論への批判がその成功から生じたとする一部のケインジアンの主張は、全く的外れである。」

| | コメント (242) | トラックバック (0)