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2006年4月28日 (金)

ゼロインフレの政治経済学

引き続き。Thomas I.Palley、“Zero is not the Optimal Rate of Inflation”

自然失業率仮説に基づけば最適なインフレ率はゼロ%であり、金融政策は自然失業率仮説の勧告に従ってゼロインフレを目標として運営されるべきだ、と多くの専門家(経済学者、エコノミスト、金融関係者(実務家)等々)は主張する。しかしながら、自然失業率仮説(NAIRU仮説)から導かれる結論は現実の失業率を自然失業率以下(以上)にとどめようとするればインフレの加速(ディスインフレないしはデフレの加速)を招くことになる、ということだけであって最適なインフレ率が何パーセントなのかを自然失業率仮説から引き出すことはできない(こちらも参照していただければ)。明白な誤りであるにもかかわらず、最適なインフレ率=ゼロインフレの理論的基礎付けとして自然失業率仮説が持ち出される理由(偽装する理由)は何なのか。

自然失業率仮説はトロイの木馬だ、というのが答えである。前回の後半でも若干触れたように、中央銀行の政策は真空状態の中で決定・実施されるわけではない。金融政策の決定・運営過程はpublic interestを三分する経済的なグループの影響から無縁ではありえない。financial capitalの利益を代弁するFRBは、彼ら(=financial capital)にとって望ましいデフレないしは低インフレという環境(=financial capitalにとっての最適なインフレ率;インフレはfinancial capitalの有する債権の実質価値を目減りさせるために好ましくなく、また過度のデフレは倒産や破産による債務不履行を発生させるためにやはり好ましくない。結果として若干デフレにバイアスがかかったゼロインフレを選好することになる)を正当化するための方便として自然失業率仮説を利用しているのである。“natural”(自然)という語が放つイメージを利用することによって、(ゼロインフレと自然失業率仮説を無理やり結びつけて)ゼロインフレ以外の環境があたかも不自然であるかのように一般の人々に思い込ませようとしているのである(インフレ=悪と信じ込ませるために、1970年代の加速するインフレの記憶を利用することもあろう)。自然失業率仮説を隠れ蓑とするゼロインフレの追求はfinancial capitalの利益増進を結果するだけだ・・・。陰謀論に聞こえるかもしれない。しかし、ゼロインフレと自然失業率仮説とは全く無関係であるにもかかわらず、両者に論理的な関係があるかのように語られている理由を探ろうとするならば、またFRBが理論的な基礎が薄弱なゼロインフレにこだわる理由を解明しようと試みるならば、こういった政治経済学的な説明(政策決定の裏にある政治力学の解明)も必要となるのではなかろうか。これはあくまで一つの仮説にすぎない。他に何か説得的な理由があるのであれば是非とも教えてもらいたいものだ。

かつてのケインジアンは政府をあたかも国民全体の利益(=public interest)のために奉仕する、慈悲深い賢人かのようにみなす傾向があり(=ハーヴェイ・ロードの前提;本来はこういう意味で使われてたわけではないけど)、確かにナイーブではあった。政府自体も私的利益に突き動かされる人間によって運営されているのであり、ハーヴェイ・ロードの前提にたって政策を議論するのは非現実的である。さらにいえば、一枚岩のpublic interestなるものが存在するかのようにみなすのも疑問である。public interestはいくつかの経済的なグループごとに、例えばlabour、financial capital, industrial capitalといったように分断されており(ケインズ『貨幣改革論』の3階級分類みたい)、FRBに対して最も大きな影響力を有するグループにとって最も望ましい(右下がりのフィリップスカーブ上の)失業率-インフレ率関係を実現するよう金融政策が運営されるわけである(labourの影響力が強いときには金融政策はインフレバイアス(低失業)を有し、financial capitalの影響が強まると金融政策はデフレバイアスを持つようになる;中央銀行の損失関数の中にグループごとのインフレへの選好の違いが反映されることになる)。より詳しい議論は“The Institutionalization of Deflationary Policy Bias(pdf)”を参照のこと(こっちの論文によれば中央銀行の独立性は問題(=民主的な統制を受ける中央銀行はインフレバイアスを有する+financial capitalの方を向いた中央銀行はデフレバイアスがかかった政策運営を実施する)の解消にはならないんだと。中銀を民主的な統制から解き放ったところで、3グループ間の勢力関係に従って特定グループに偏った政策運営を行う道は依然として残されているから(独立性を獲得することでヨリ一層特定グループ寄りの政策が実施される危険もあり)。人間の裁量を縛るためにもインタゲの導入を、と言いたいところだけども設定する目標インフレ率の選定にあたっても各グループ間の勢力関係でどうこうっていう話になるんでしょうね、Palley的には)。

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4つのフィリップスカーブ

Thomas I.Palley、“Zero is not the Optimal Rate of Inflation(pdf)”(Thomas Palley.com(articles)より)。公平賃金仮説文献巡りの旅の途上で偶然発見したもの。

「最適なインフレ率はゼロインフレである」という主張の理論的裏付けとして自然失業率(NAIRU)仮説(=垂直なフィリップスカーブの存在を主張するもの、としておきます)が持ち出されることがある(自然失業率とNAIRUの違いについては、“The Natural Rate, NAIRU, and Monetary Policy”(Carl E. Walsh)などを参照)。しかしながら、自然失業率仮説を仔細に眺めれば明らかになることだが、ゼロインフレが最適なインフレ率であるという結論をそこから導き出すことは不可能である(自然失業率仮説とゼロインフレが結び付けて論じられる理由(Palleyが提示する政治経済学的な一仮説)についてはこちらを参照)。以下、Palleyの議論に従ってNAIRU仮説と「最適なインフレ率はゼロインフレである」という主張が無関係であることを示すとともに、フィリップスカーブに関する(NAIRU仮説を含む)4つの代替的な見解を概観し、代替的なフィリップスカーブの議論から最適なインフレ率についてどのような結論を導き出すことが可能となるかを考察してみることにしよう。

1.NAIRU仮説

NAIRU仮説によれば政策的に自然失業率(=NAIRU)以下に現実の失業率を抑え続けることはできず早晩インフレの加速を招くだけである(現実の失業率はやがて自然失業率に回帰する)。厳格なNAIRU仮説(短期的にもフィリプスカーブは垂直)によると、金融緩和はインフレを加速させるだけであり失業率や実質GDPに一切の影響を及ぼすことはできない。インフレ率の水準に関わらず失業率や実質GDPの水準は変わらないわけであるから、最適なインフレ率は存在しない、ないしはあらゆるインフレ率が最適なインフレ率となる。

もう少し柔軟なNAIRU仮説によれば(フィリップスカーブは長期的には垂直になるけれども、短期的には右下がり、つまり一時的には(インフレの上昇というコストと引きかえに)失業率を自然失業率以下に引き下げることは可能)、最適なインフレ率は現実のインフレ率ということになる。なぜならば、現実のインフレ率を引き下げるためには(インフレ期待の調整に若干の遅れが伴うために(そのためフィリップスカーブが右下がりになるわけだけれども)実質賃金が高止まりする結果として)失業率の上昇(と実質GDPの低下)を受け入れねばならず、長期的には(ディスインフレが実現した暁には)失業率は自然失業率に回帰するだけであり、ディスインフレの過程で一時的に上昇した失業率を相殺するなんらかの果実が後になって得られるわけではない(ディスインフレの前後で失業率は変化していない(=自然失業率の水準にある))。一時的な失業率の上昇という見返りのないコストを負うぐらいならばむやみにインフレ率を引き下げようとするのではなく現実のインフレ率を維持すべきである、となる。反対に金融緩和によって一時的なインフレ率の上昇を受け入れるのであれば失業率や実質GDPの改善という一度限りの便益を享受することが可能となるわけであるから(インフレ期待が調整されれば失業率は元の自然失業率の水準に戻るだけであり、以前よりインフレ率が上昇するだけ(=垂直なフィリップスカーブ上を上方に向かって移動しただけ)である)中央銀行は一度限りの失業率改善を繰り返す誘因がある。インフレ率の高低は自然失業率の水準に影響を与えることはないのであるから、(インフレ率が下落したところで得られるものはないので;ちょっと不正確。正確にはディスインフレ政策の短期的な損失(移行過程における一時的な失業率の高まり)と長期的な利益(インフレによる恣意的な富の再配分(債権者→債務者)や将来期待の不確実性が抑制されることによってマクロ経済のパフォーマンスが改善され経済厚生が高まる)を比較考量したうえで利益が上回る場合もある。ただし自然失業率自体はインフレ率の水準から独立である。ディスインフレ政策によって自然失業率が下落するのであればフィリップスカーブは垂直にはならない)ディスインフレ政策によって一時的な痛みを被るよりは一時的な失業率改善を追い求める結果として、現実のインフレ率ではなくインフレが加速する状況が最適であるという結論になるかもしれない。

厳格なNAIRU仮説からはあらゆるインフレ率が、柔軟なNAIRU仮説からは現実のインフレ率ないしは加速するインフレが最適なインフレ率となり、ゼロインフレが最適なインフレ率であるという結論は自然失業率仮説のみからは決して引き出しえないわけである。

2.The positively sloped Phillips curve

ゼロインフレが最適なインフレ率であると言い得るためには、インフレ率が正である場合には(同時にデフレの場合にも)失業率が上昇したり実質GDPが下落するといった弊害が存在しなければならない。この事態を説明するための論理として考えうるのは、インフレ(デフレ)によって資源の誤配分(相対価格と絶対価格の混同による)が引き起こされたり、またインフレの効果を見定めるために資源(ないし時間、労力)が浪費されるために実質GDP(ないしは潜在GDP)の低下・失業率の高まりが生ずるというものである。この時フィリップスカーブが(インフレ率がプラスの範囲では)短期的にも長期的にも右上がりとなる(インフレ率が負(=デフレ)の範囲では右下がり)。インフレやデフレの幻惑による判断の歪みを回避するためにはインフレ率はゼロであるのが望ましい。NAIRU仮説ではなくこの見解こそがゼロインフレの理論的根拠となりうるものである。 

3.The Keynesian Phillips curve

フィリップスカーブは短期的にも長期的にも右下がりになる(インフレ率上昇と引き換えに失業率を低下させることが長期的にも可能。ただし、インフレ率が高くなるにつれて失業率改善の効果は徐々に弱まる)。フィリップスカーブが右下がりになるのは以前紹介したアカロフらの議論と同じ論理であり、“inflation greases the wheels of adjustment” in labor marketsということから導かれる。すなわち、インフレによって名目賃金の下方硬直性に抵触することなく実質賃金を調整する余地が広がり、ネガティブショックを被った産業(企業)部門において(名目賃金のカットに着手せずとも)実質賃金の高止まりを回避し、解雇や雇用抑制の圧力を緩和することが可能となるためである。低いインフレ率を出発点とするディスインフレ政策(例えばインフレ率を3%から1%に低下させる)は、実質賃金調整の余地を狭めることを意味し、ネガティブショックを被る産業部門から実質賃金を低下させる手段を奪い去り失業率を高止まりさせることになる(苦肉の策としての名目賃金のカットは潜在GDPを低下させるかもしれない)。

The Keynesian Phillips curveによれば、インフレは生産や失業率に対してポジティブな効果を有し、(インフレ率がプラスであれば長期的にも失業率を引き下げることが可能となるわけだから)ゼロインフレが最適であるという結論は決して導き得ない。この見解によれば、最適なインフレ率は自動的に決定される性質のものではなく(ゼロよりも幾分プラスのインフレ率ではあるけれども)、社会的な選好によって―社会の成員がインフレ率と失業率のどちらの変数を重視するか―右上がりのフィリップスカーブ上の一点の失業率-インフレ率関係が選ばれることになる(同じ点にとどまる(同じ点が選ばれる)必然性はない)。

4.The public finance Phillips curve

インフレ税によって政府収入が増加することで他の税を減税させる余地が生じ、(所得税が減税されれば)労働者の勤労意欲が引き出される(=生産性が高まる、労働供給が増える)結果として生産や失業率が改善される。結果としてフィリップスカーブは右下がりとなる。ただし、インフレ率が高くなり過ぎるとインフレ税による歳入増加の効果も減衰するために減税する余地がなくなり、また減価する貨幣を手放して貨幣の代用物を模索する動きが生ずるために(=資源の浪費)、フィリップスカーブはあるインフレ率を境に右上がりとなる。The public finance Phillips curveによると、最適なインフレ率はフィリップスカーブが(右下がりから右上がりへと)屈折するインフレ率ということになる。もちろんゼロインフレではない。

最適なインフレ率がゼロインフレである、という主張を支持する議論は2であり1ではない。また2はあくまでも理論的な可能性に過ぎず(そもそも最適なインフレ率=ゼロインフレ、と主張する人が2をその理論的根拠として挙げるのを見たことがない)、長期的なフィリップスカーブが右上がりであることを示す実証的な根拠は乏しい。一方で3・4が主張するようにフィリップスカーブが(低いインフレ率のもとでは)長期的にも右下がりであることを示す実証的な証拠は多数存在する。1・2が疑わしいのだとすれば、3・4が(特に3が)主張するように最適なインフレ率は社会的な選好によって決定されるということになる。インフレの弊害が実感しにくいのに比べ失業の悲惨さが明白であることに鑑みれば、失業率を最小にするインフレ率が最適なインフレ率である(ないしは社会的に最適なインフレ率として選択される)・・・、ということになりそうだけれども、社会全体の選好なるもの、ないしはpublic interestが一枚岩とみなすことは誤りである。public interestは経済的な利益を同じくする3つのグループ(labour、financia capital、industrial capital)に分割されており(詳しくは“The Institutionalization of Deflationary Policy Bias(pdf)”(Thomas Palley)を参照のこと)、望ましいインフレ率-失業率関係はグループごとに異なっている(各グループによって選択される(右上がりの)フィリップスカーブ上の点は違ってくる)。現実に選択されるインフレ率は政策過程において最も影響力のあるグループにとっての最適なインフレ率であり、社会全体にとっての最適ではない。labour、financia capital、industrial capitalの3グループ間の闘争(=FRBからのサポートを巡る争い)の結果として目標インフレ率(=“最適な”インフレ率として喧伝されるもの)が決定されるというわけである。

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オーカン法則

David Altig, Terry Fitzgerald, and Peter Rupert、“Okun's Law Revisited: Should We Worry about Low Unemployment?”。ネット上でオーカン(Arthur Okun)について調べている際に発見したもの。

The connection between unemployment and GDP growth is often formally summarized by the statistical relationship known as "Okun’s law." As developed by the late economist Arthur Okun in 1962, the "law" related decreases in the unemployment rate to increases in output growth. Over time, the exact quantitative form of this relationship has changed somewhat (a point we will return to below). However, the negative correlation between changes in the unemployment rate and changes in GDP growth is viewed as one of the most consistent relationships in macroeconomics.

オーカンは1960年代初期にアメリカ経済のデータから実質GDP成長率と失業率の変化の間に統計的に直線で近似しうる負の相関関係-失業率が1%低下するとGDP成長率がX%上昇する-が存在することを見出した。以来、実質GDP成長率と失業率の変化の間の安定した関係は「マクロ経済で最も信頼のおける経験則の一つ」(by トービン)としてオーカン法則と呼ばれるようになる(オーカンについてはhttp://cruel.org/econthought/profiles/okun.htmlhttp://www.econlib.org/library/Enc/bios/Okun.htmlも参照のこと。オーカン法則についてのヨリ詳しい説明は『マクロ経済と金融システム』(第1章 マクロ経済学と日本経済:オーカン法則再考(吉川洋))等をご覧ください)。

Basic economic theory tells us that output depends on both the amount of inputs used and the level of technology. In a very general categorization, the inputs to production are the labor services provided by a nation’s citizens and the services provided by the current capital stock. It follows, then, that changes in output can result from changes in overall productivity, in the flow of capital services, and/or in the quantity of labor services. When observed over a relatively short horizon, such as a quarter or a year, shifts in the aggregate capital stock are likely to be limited because of the difficulty of quickly adjusting the size of this stock. Therefore, changes in output will largely reflect changes in productivity (output per hour) and in the level of labor services

マクロの生産関数を想起すれば明らかなように、技術進歩率の上昇やインプット(労働投入量・資本ストック量)の増加はアウトプット(GDP)を増加させる。同じことだがインプットの増加率の上昇はアウトプットの増加率を上昇させる。

労働投入量(the labor services provided)の変化率=労働時間の変化率(percentage change(以下⊿)in hours per worker)+労働参加率~(⊿ in labor force participation)+人口増加率~(⊿ in population growth)+その他~(⊿ in other relevant factors (such as worker efficiency levels))-失業率の変化(the absolute change in the unemployment rate)

であるから、失業率の低下は労働投入量の増加率を上昇させ、ひいてはGDP成長率を上昇させる。その他の事情が一定であるならば(労働投入に関する諸要因や技術進歩・資本ストック量が急激に変化しない限り(あるいはそれらが不連続的に変化しないならば))失業率の低下とGDP成長率の間に安定した負の相関関係を見出すことが可能となる。一見するとオーカン法則が導かれたように見えるけれども、失業率が独立して変化すると仮定する限りにおいてオーカン法則が予測するほどのGDP成長率の上昇は望めないはずである(オーカンの観察によれば(戦後~1960年初期のアメリカ経済では)失業率が1%低下するとGDP成長率は約3%上昇する。労働の限界生産性が逓減すると考えるならばこのことを説明することは困難である)。失業率が低下すると雇用が増加するという直接的な影響に加えて(失業率は独立して変化するものではない)、労働供給の増加(労働参加率の上昇)・1人当たり労働時間の増加・労働生産性の増加等(労働投入量の構成要因の変化)が随伴するという事実に着目することによって大きなオーカン係数(オーカンの観察では約3)を説明することが可能となる(The reason that the association between the unemployment rate and output is relatively strong is that changes in the unemployment rate are related to changes in the other factors that affect output growth. For example, using average annual data, a rising unemployment rate is strongly associated with decreases in both hours per worker and labor force participation. Since each of these factors contributes to falling output, it is clear how small upticks in the unemployment rate could be associated with larger declines in GDP;この点に関しては先に紹介した吉川論文も参照のこと)。

Our discussion can be summarized by the simple observation that the relationship between the unemployment rate and GDP growth changes through time or, in Okun’s language, that potential GDP growth is not constant over time. Although this is widely understood to be true over extended periods—decade to decade, say—it is equally true over the much shorter horizons that characterize the business cycle. If these changes are substantial, Okun’s rule of thumb can send very misleading signals about the rate of economic growth associated with any given change in the unemployment rate.

従前のオーカン法則が高い現実妥当性を有するには、失業率の変化と労働投入に関するその他構成要因との関係が安定的(予測可能)であることに加え(それらの関係性が希薄になったりあるいは相関関係の向きが正反対になったりすると失業率の変化とGDP成長率の変化との関係は(オーカン係数の値が変化したりして)予測困難(不安定)なものとなるだろう)、技術進歩率の変化が予測可能である(あるいは技術進歩率の変化は無視できるほど小さい)という厳しい条件が要請される。技術進歩率と失業率の変化との間にはそれほど明確な関係性を見出すことはできず、また技術進歩率の変動はGDP成長率の変動の過半を説明することを考えると(Productivity changes are only slightly correlated with changes in the unemployment rate, and the variability of these changes is large—roughly two-thirds of the variability of output)、従前のオーカン法則が妥当するのは見るべき技術進歩率の変動がないときだけであり、オーカン法則を万古不易の自然法則のように捉えるのは正しくないということになる。現実経済の動向(データ)を仔細に眺め、潜在GDP(技術進歩率)の変動を可能な限り迅速かつ正確に把握する必要がある。すなわち、経験則としてのオーカン法則が今後もその価値を維持し続ける(分析装置として使用されることに耐え得る)ためには(技術進歩の変動を考慮することにより)継続的にリニューアルされ続ける必要があるということである。

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フリードマン、グリーンスパンを語る

Economist's ViewよりM.フリードマンのWSJにおけるグリーンスパン評が届きました。

Milton Friedman: Greenspan Ruled with Discretion http://economistsview.typepad.com/economistsview/2006/01/milton_friedman_1.html

グリーンスパンによる絶妙な金融政策運営の結果としてアメリカ経済のインフレ率は低位安定、意思決定における不確実性が減殺されたため、ビジネスでの資源の効率的な活用が可能となり、その結果グリーンスパン時代のアメリカ経済は急激な生産性の上昇をみることになった。中央銀行にインフレ率を安定させるための能力ないし技術が備わっているかどうかについて私フリードマンはこれまで懐疑的であったけれども(歴史上何度も繰り返される失敗から私はそう判断したのであり、マネーサプライルールを設けて政策運営の自由度を縛るべきであると主張した理由も彼ら中央銀行家の裁量には任せておけないと考えたからである)、グリーンスパンの政策運営の実績を前にしては私の(中央銀行のインフレを制御する能力への)疑念も撤回せざるを得ないであろう。マネーサプライルール(k%ルール)なしでも中央銀行はインフレを制御できるし、またインフレ率の変動を抑えることもできる。これからはインフレを制御できなかったからといって言い訳は一切できないだろう。グリーンスパンがやったようにすればいいんだから。中央銀行は何が何でもインフレを制御しなければならず、またインフレ率の上昇を許してはならない。

ただでは転ばぬフリードマン。さすがですな~。グリーンスパンのおかげで他国の(バーナンキ新体制のFRBも含む)中央銀行は大きな責任・義務を背負わされたわけです。どっかの島国の中央銀行はやりすぎの感がありますけども(過ぎたるは及ばざるが如し、っていいますからね~)。あ、直訳じゃないです、念のため(ほぼ(後半部の)直訳ですけど)。

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Friedman's Plucking Model

Economist's View(by Mark Thoma)を覗いたらフリードマンのPlucking Model関連の話題が取り上げられていた。

“New Support for Friedman's Plucking Model”
http://economistsview.typepad.com/economistsview/2006/01/new_support_for.html

Plucking Modelによれば・・・

Plucking 経済は長期的なトレンド線に沿って(トレンド線を挟んで)上下に対称的に循環するのではなくて、基本的には経済は完全雇用GDPないしは潜在GDP水準を維持しつつ進行する(トレンド線を超えて景気が過熱することはない、政策的な支えなしには、かな?)もののネガティブな需要ショック(例えば行き過ぎた金融引締め)によってデフレギャップが発生→時間が経つにつれて潜在GDP水準に復帰→ネガティブな需要ショック→トレンド線へ復帰・・・を繰り返す。ブームの規模はそれ以前の景気下降の程度によっておおよそ推測可能である(=相関関係(←GDPの下落幅とその後のGDPの上昇幅の間における相関関係)が見出しうる)が(トレンド線(トレンド自体の変化の可能性は排除しないが)からの落ち込みをカバーするようにその後のブームの過程でGDPが上昇する)、ブーム後の不況の程度(←GDPの下落幅、の方が正確か)は予測できない。

Plucking Modelによれば今日の不況は前回のブームとは無関係ということになる。景気があまりにも過熱し過ぎたがために(種々の過剰(今の日本では3つの過剰(=過剰雇用・過剰負債・過剰設備)なんて言われてますが)をキャンセルする必要から)今日経済は停滞せざるを得ないということはいえず、またブームが過熱的であればあるほど不況の深度も深いとは言えない。

"If further substantiated empirically," the lack of boom-bust correlation "would cast grave doubt on those theories that see as a source of a deep depression the excesses of the prior expansion [the Mises cycle theory is a clear example]." (さらなる実証的な証拠によってこのモデルの妥当性が支持されるならば、boom-bustの間には何の相関関係も存しないというこのモデルの結論は、不況の原因をそれ以前の過剰な景気拡張に求めるオーストリア流の景気循環理論の妥当性に重大な疑問を投げかけることになろう)                          (Roger W. Garrison、“Friedman's "PluckingModel"”より引用)

Garrisonはこのフリードマンの主張に反論して、Plucking Modelとオーストリア流景気循環理論との接合を図ろうとする。フリードマンとオーストリア学派の間ではブームの意味合いが異なりそれぞれブームという語で、フリードマン=bust後にトレンド線へと回帰する過程/オーストリア学派(特にミーゼス・ハイエク)=信用拡張によるmalinvestment、を表現している。信用拡張によるmalinvestmentは(経済の消費構造と適合的でない利子率環境を人為的な政策によって生み出した場合に)経済がトレンド線上に沿って進行している過程において生じるものであり、その歪みが徐々に蓄積しやがて調整局面を向かえるや、bustという結果を招くことになる(malinvestmentの調整過程におけるsecondary deflation)。フリードマンは経済がトレンド線上にあることをもって経済が正常に進行している証拠と見なすが、実は(信用拡張により人為的な景気拡張を生み出すことで)トレンド線上において既にその後のbustの種が蒔かれているとオーストリア学派は考えるわけである。政策(の失敗)による経済の撹乱がbustの一つの原因であるという点で両者に違いはない。

(追記)上に貼り付けたグラフをどこから引っ張ってきたか失念、・・・しちゃってましたが無事発見。

Roger W. Garrison、“Is Milton Friedman a Keynesian?”。Garrisonさんだったのね。

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ケインズ革命の弊害

Milton Friedman(1968)、“The role of Monetary Policy”, The American Economic Review, Vol.58(1)。

(ヴィクセルの自然利子率概念にヒントを得て)自然失業率なる概念が初登場する論文(=アメリカ経済学会会長講演)。フリードマン,カルドア, ソロー/新飯田宏訳『インフレーションと金融政策』(日本経済新聞社, 1972年)に邦訳されたものが所収・・・のはず(手元にないんで断言はできませんけれども)。本論文の導入部において論じられている金融政策への評価の変遷について少しばかりまとめておこうかと(保坂直達訳『インフレーションと失業』(マグロウヒル好学社, 1978年)所収の「第Ⅳ講 貨幣的経済理論における反革命」は以下の議論と補完的な内容となっております)。

金融政策の(経済安定化の手段としての)有効性については、時代ごとに―振り子が大きく左右に振れるごとく―両極端の見解が大勢を占めるに至ってきた。金融政策の万能性を喧伝する意見が多数の支持を勝ち得たかと思うと、金融政策の無効性を弁じたてる主張が説得的なものとして受け入れられるようになる。1920年代のアメリカ経済の未曾有の繁栄はFRBによる巧緻な(あるいは時宜を得た)金融政策の賜物であり、今や(知識と経験を備えた(有能な)FRBによる金融政策運営を前提する限り)景気変動は過去の遺物と成り果てたのだ、との強気の声も1930年代の大不況を経験するや一転して悲観的な物言い―「金融政策は紐のようなものであり、紐は引く(=景気の過熱を抑えるあるいはインフレの加速を抑止する)ことはできても押す(=景気停滞から経済を救い出す)ことはできない」and「馬を水飲み場まで連れて行くことはできても水を飲ませることはできない」―に取って代わられることになる。戦後20年間は金融政策の(景気安定化手段としての)無効性が当然視された時代であり、金融政策の役割は国債の利払い費を抑え(あるいは国債の価格を維持するために)、また金利生活者の安楽死に寄与するために利子率を低位に安定させること(=cheap money policy)に限定された。しかしながら、各国におけるcheap money policyの採用は過剰な流動性の供給を結果し、(戦間期のように失業や不況ではなくて)インフレーションが戦後経済の主要課題であることが明らかになるにつれて金融政策のポテンシャル(マクロ経済へ与えるインパクト)に関する見直しの機運が生じ始めてきた。振り子が逆方向に(1920年代の方向に向かって)振れつつあるわけである。金融政策が一切無効であるということが誤りであるのと同じく、1920年代に信じられていたように金融政策によれば何事でも可能であるかのように論じるのもまたあまりに単純過ぎる見方である。「我々は金融政策にそれがなしうる以上の役割をあてがう危険に、またそれが解決できそうもない課題を押し付ける危険に、そしてその結果としてそれが本来なしうる貢献を阻害してしまう危険に、直面している(we are in danger of assigning to monetary policy a larger role than it can perform, in danger of asking it to accomplish tasks that it cannot achieve, and as a result, in danger of preventing it from making the contribution that it is capable of making.(p5))」。金融政策への過剰な期待を戒めるために、ここで金融政策にできること/できないことを慎重に議論しておく必要がある。不毛な議論を繰り返さぬためにも、また(金融政策への見解が右往左往することによって引き起こされる)マクロ経済の無用の混乱を予防するためにも、振り子の振れすぎは是非とも食い止めておかねばならない。

この流れで金融政策にできないこと=名目金利/失業率を一定の値に(自然利子率/自然失業率以上or以下に)ペッグすること(インフレないしデフレの加速なしにはペッグし続けることはできない)が後半で論じられるわけですが(*)、ここでは1930年代以降60年代頃までに支配的であった金融政策無効説の普及に果たしたケインズ革命の役割についてちょっとだけメモ。

ケインズないし彼の追従者たちによれば、1930年代の大恐慌は投資機会の消失(a collapse of investment/a shortage of investment opportunities)ないしは消費の節制(stubborn thriftiness)を原因とする総需要(有効需要)の収縮の結果として引き起こされたものであり、金融政策では対処不可能な事態であったとする。というのも、流動性の罠に陥っている(=貨幣の投機的需要が無限大)状況下においてはもはや金利を引き下げることができず、百歩譲って金融緩和の結果として金利が引き下げられたとしても設備投資や消費は金利に対して不感応的(金利が低下しても設備投資や消費はそれほど刺激されない)であると彼ら(Hansenをはじめとするアメリカン)ケインジアンは考えたからである。設備投資・消費の不足を補うために彼らが主張した代替策はというと・・・、そう財政政策である。政府支出(公共投資)により民間による設備投資の不足を補い、また減税により消費を喚起することによって有効需要の維持に努めるべきである。

ケインズ革命は金融政策無効説の理論的根拠となることによって各国によるcheap money policyの採用を後押しした。そしてcheap money policyこそがインフレの加速を招いた、とフリードマンは主張するわけであるから、戦後世界におけるインフレの蔓延=ケインズ革命がもたらした弊害と認識していることになりますか(こちらも参照)。

もう一つ。大恐慌理解に果たしたケインズ革命の弊害というのも考えられる。ケインジアンによれば、大恐慌はアグレッシブな金融政策ににもかかわらず引き起こされたものであり、金融政策の無効性を例証するまたとない事例と考えられた(Keynes and most other economists of the time believed that the Great Contraction in the United States occurred despite aggressive expansionary policies by the monetary authorities― that they did their best but their best was not good enough.(p3))。しかしながら、実際には大恐慌の期間中(1929~1933年)マネーサプライは3分の1も減少していたのであり、FRBによる金融政策はアグレッシュブどころかむしろ(マネタリーベースの供給を制限し、また金融システム危機に対処するための流動性供給の役割を放棄したわけであるから)デフレ促進的であったとさえ言い得るわけである。大恐慌は金融政策の無効性を実証するものではなく、反対に金融政策がいかに強力なインパクトを持ちうるのかをまざまざと知らしめる悲劇的な歴史的証言なのである(The Great Contraction is tragic testimony to the power of monetary policy― not, as Keynes and so many of his contemporaries believed, evidence of its impotence.)。金融政策が大恐慌に果たした(原因としての、またはそこからの脱出策としての)役割について一般にそれほど知られていないのもケインズ革命の影響によるところと言えるのかもしれない。

(*)一点だけ引用しとこう。

As an empirical matter, low interest rates are a sign that monetary policy has been tight― in the sense that the quantity of money has grown slowly; high interest rates are a sign that monetary policy has been easy― in the sense that the quantity of money has grown rapidly.

・・・Paradoxically, the monetary authority could assure low nominal rates of interest― but to do so it would have to start out in what seems like the opposite direction, by engaging in a deflationary monetary policy. Similarly, it could assure high nominal interest rates by engaging in an inflationary policy and accepting a temporary movement in interest rates in the opposite derection.(p7)

名目金利が低い水準にあるのは、それまで引締め気味の金融政策が実施されてきた結果であり、金融が緩和されている証拠では必ずしもない。逆に名目金利が高水準にあるのは、これまで緩和気味の金融政策が実施されてきた結果であって金融が引き締められている証拠とはならない。金融緩和により当初は金利は下落するであろうが、金融緩和の効果が浸透するにつれ徐々に(所得増加による貨幣需要増加の結果として、物価上昇による実質貨幣残高減少の結果として、また期待インフレ率の上昇の結果として)名目金利は上昇していく(金融引締めは当初は金利を引き上げ、その後徐々に金利は下落してゆくことになる)。現時点における名目金利水準が金融政策のどの時点における効果を反映しているかを判別することは困難であるため、 名目金利を金融政策運営上の指標とすること(名目金利の高低を金融が緩和されているかそれとも引き締まっているかの判断材料とすること)は危険である。

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2006年4月22日 (土)

現代中国と1970年代の日本

Barry Eichengreen and Mariko Hatase,“Can a Rapidly-Growing Export-Oriented Economy Smoothly Exit an Exchange Rate Peg?  Lessons for China from Japan's High-Growth Era”(日本銀行、IMES Discussion Paper Series 2005年8月)

1970年代における日本の為替制度改革の経験-1ドル=360円でのドルへのペッグからの脱却(1971年8月;アメリカによる金=ドル兌換停止(ブレトンウッズ体制の終焉))→1ドル=308円で再びドルにペッグ(1971年12月;スミソニアン協定)→変動相場制に移行(1973年)-を考察することにより、中国の人民元改革の将来の指針を得ることを目的とする。当時(1950年代~1970年代)の日本経済と近年の中国経済の異同を綿密に比較した上で、「export-oriented, fast-growing economies in the early stages of catch-up that exited voluntarily from a peg.」という歴史上稀な(現在の中国経済と同様の性格を有する)ケースである1970年代の日本における為替制度改革の体験を現在の中国のhistorical precedentと見なして人民元改革の今後の教訓を引き出す(1ドル360円から308円への平価切上げはアメリカからの圧力によって強いられたものではなく日本自身の自発的な判断(exited voluntarily from a peg)であったとする。ニクソンによる金=ドル兌換停止の宣言後二週間にわたって1ドル360円を維持するために当局(日銀、大蔵省)が為替介入を行っていた点をその論拠とする)。

1ドル=360円という固定レートは1949年(ドッジライン)から1971年まで約20年間にわたって維持され続けた。当初はその水準はovervalueされている(日本経済の実力からすると為替水準はもう少し切り下げるべきである)と考えられており、経済が成長するにつれて経常収支が赤字を計上したため(政府のドル準備の流出を防ぐため、あるいは1ドル360円を維持するために)金融引締めにより景気の抑制に乗り出さざるを得なかったが(「国際収支の天井」(“balance of payments ceiling.”))、1950年代の後半から1960年代にかけて貿易財部門の生産性の向上(政府主導の合理化計画(Government-led rationalization of the metals, machinery and chemicals sectors)も貢献)が進展した結果として1ドル=360円というレートは徐々にundervalueになり、大規模な貿易黒字が計上されるようになっていく(「国際収支の天井」にぶつかり経済の成長を金融引締めで阻害する必要はなくなる)。外国からの貿易黒字削減の圧力をかわすために(capital inflow によるマクロ経済へのインフレ圧力を抑制するために)、輸入の増加を目的として為替規制や貿易障壁の緩和・撤廃に乗り出すものの(undervalueな)平価の切上げという選択に踏み出すまでには至らず(1ドル=360円という固定レートは“immutable condition”と見なされていた)、1971年いわゆる「ニクソンショック」を迎えることになる。

ニクソン大統領による金=ドル兌換停止の宣言後、政府当局はしばらくの間(1971年8月27日まで)1ドル=360円のレートで為替介入を行うものの、やがては為替水準の増価を容認し1ドル=308円に到達したところで再びドルにペッグする(16.9%の平価切り上げ)。平価切上げがマクロ経済に及ばすdeflationary effectを回避するために財政金融両面から景気の下支えのための政策出動がなされ、景気への悪影響は軽微なもの(1972年第1四半期の輸出は0.1%の減少(前年の同期比)にとどまり、第4四半期には15.7%の増加を記録した;1972年の第1四半期の実質GDP成長率は年率換算で10%を超える勢い)にとどまった(ドルとのペッグに固執しフロート制(ダーティーフロート)への移行が遅れたがために1973~74年のインフレの加速を招いた、とする小宮隆太郎氏らの研究も紹介)。1973年になるとスミソニアン協定の決定も維持することが困難となり、円は1ドル=265円まで増価、当局の為替介入の結果としてレートは264円から266円の間に維持されることになる(1973年9月まで)。1971年、1973年の円の増価時において政府当局は為替介入を実施し(「Japan’s float was heavily managed」)、急激な為替変動を防止、このことは現在の中国に対して示唆を与えるものである。

外為規制が存在し(資本取引の自由化が達成されていない)、インターバンクでの為替先物市場が未発達であった1970年代の日本においても柔軟な為替レートへの移行は実現可能であったことから(戦後日本の外為規制・為替先物市場の発展の様子(詳細はp20~23を参照)を考察した結果として得た結論)、中国人民元の自由な変動、市場によるレート決定を現実のものとするためには資本取引の自由化の実現と厚みがあり流動的な為替先物市場の発展が不可欠である(資本取引の制限が緩和・撤廃され、上海におけるインターバンクの為替先物市場がさらに発達を見せるまではこれ以上の人民元改革に乗り出すべきではない)、という議論に疑問を提示する。政府当局による急激な為替変動の回避(機動的な為替介入)が実施されるならば、という重要な但し書きがつくが(急激な為替変動が政府の介入によって回避されるならば、資本取引の規制が存在しようが先物市場が未成熟だろうがヨリ柔軟な為替制度への移行は実現可能)。

結論:1970年代の日本-資本取引規制が存在し為替先物市場が未発達である、rapidly-growing, export-oriented economy-は、政府当局による機動的な為替介入に支えられて、成功裡にヨリ柔軟な為替制度へ移行した。大幅な平価切上げがマクロ経済にそれほど重大な悪影響を及ぼさなかったのは、財政金融政策による需要維持政策と世界経済の景気拡張という偶然(計量経済学的な手法に基づく観察の結果、世界経済が好景気局面にあったことで日本経済に対して与えたプラス効果が大きなものであったことが判明)に助けられた面があり、運命を偶然に委ねるつもりがないならば適宜為替介入を実施することによって国内経済へのインパクトを減殺し、急激な実質為替レートの増価を避ける必要がある(ドルペッグからの脱却後に即座に完全な変動為替制度に移行するとマクロ経済に対して大きなネガティブ効果を与及ぼしてしまう可能性が大)。

今般の中国の通貨バスケット制への移行(漸進的な為替制度改革)は、1970年代日本の経験から引き出しうる教訓に合致したものである(自発的にドルペッグから脱した点(諸外国からは更なる平価切上げの圧力を受けていたがそれを排した)も同じである)。輸出企業のマージン率の低さ、大規模な不良債権を抱える銀行の脆弱な基盤、GDPに占める輸出の割合の高さなど現代中国の特徴を考えると、1970年代の日本以上に急激な実質為替レートの増価を避ける必要がある(実質為替レートの上昇は企業利潤を圧縮し設備投資の低迷を招く。1970年代の日本では実質為替レートの上昇は設備投資に(輸出と比べて)ヨリ大きなマイナスの影響を与えた)。今回の通貨バスケット制移行後の措置としては、為替介入を実施しつつ変動幅を徐々に拡大させるような漸進的な手法が望ましい(完全な変動相場制への移行は急激な実質為替レートの増価を招く恐れがある)。1970年代の日本の経験から得られる教訓としてかように結論付けられるのではなかろうか。

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FTPL

土居丈朗“「物価水準の財政理論」の真意(pdf)”(土居丈朗のサイトより)。

FTPL(Fiscal Theory of the Price Level;物価水準の財政理論)は、「物価変動は貨幣的な現象ではなく財政政策による現象である」ことを主張するものである。

物価水準の財政理論によると、物価変動は財政政策、なかんずく国債残高の多寡によって起こり、通貨供給量は影響を与えないとみる。さらに言えば、この理論が成り立てば、国債発行額自体が物価変動に影響を与えるのであって、国債の日銀引受けや日銀買いオペ(に伴う通貨増発)は物価変動には何も影響を与えない、とも主張する。

政府の予算制約式は、

名目税収+名目公債発行額=名目公債費+名目一般歳出    →名目公債費-名目公債発行額=物価水準×実質PB(税収マイナス一般歳出) 

と表現され、この予算制約式を満たすように物価水準が決定される。

予算制約式が満たされない=政府による債務不履行と同値であるから、財政の破綻を避けようとするならば上記の予算制約式は満たされねばならない。実質表示のプライマリーバランスの赤字額が名目国債発行額を上回る時には物価水準が下落する(デフレ)ことによって、また反対に後者が前者を上回る時には物価水準が上昇する(インフレ)ことによって予算制約式の左辺と右辺の等式が維持されることになる。

実質一般歳出の増加や実質税収の減少が名目公債発行額の増加に比してより大きい状況が続く限りデフレは続くことになる。つまり、デフレが続くか否かは、政府の財政運営次第である。

デフレは、追加的に発行した国債の利払い償還の時期が訪れ、予算制約式の左辺にある名目公債費が増加することによって解消される(実質PBや名目国債発行額が公債の追加発行前後で変化しない時)。「物価水準の財政理論が成り立つとき、追加的に公債を発行する時点で物価水準は低下し、その利払償還の時点で物価水準は上昇する」。

是非とも注意せねばならないことは、物価水準の財政理論=物価変動に対する金融政策の無効性を立証する議論、と捉えることは極端な(あるいは歪曲された)単純化であるということである。名目国債発行額のみによって物価水準が決定されるという議論の背後には金融政策運営に関するある仮定が存在する。「日本銀行の金融政策は、政府の財政政策に対して従属的で、名目金利をターゲットにして通貨供給量を調節している」「名目利子率をターゲットにして金融政策を実施している」という仮定である。中央銀行が通貨供給量を、あるいはマネタリベース(当座預金残高)を操作目標として金融政策を運営しているならば、結論は若干変ってくる。

名目公債残高を増やすこととマネタリー・ベースを増やすこととはほぼ同義であることがわかる。さらに言えば、マネタリー・ベースは中央銀行の負債であるから、広義の政府債務であるとみなすことができるから、そうみなしても名目公債残高を増やすこととマネタリー・ベースを増やすこととはほぼ同義であるといえる。このことから、財政理論に基づいて考えても、マネタリー・ベースは物価水準に影響を与えるということができる。         

物価水準の財政理論というネーミングは誤解を招きかねない点がある。政府発行の国債は償還期限のある負債であり、日銀の発行する日本銀行券は償還期限のない負債である。政府と中央銀行を一体として捉えれば(統合政府)、政府負債の発行額が物価水準を決定しているわけであるから(「名目公債残高を増やすこととマネタリー・ベースを増やすことはほぼ同義であるといえる」)、物価水準の財政理論(FTPL)というよりは物価水準の負債理論(Debt Theory of the Price Level;DTPL)と呼ぶほうが適当ではなかろうか。

最後に土居先生からの貴重なお言葉を。 

財政理論の見方を、とかく物価変動について金融政策が無力であるかのように悪用する向きがあるが、それは論理的にも誤りである。・・・物価水準の財政理論は、物価変動について金融政策が無力であることではなく、物価水準の変動は財政金融政策のスタンスが影響を与えることを示唆している。量的緩和政策を積極的に行わないことによって、デフレ対策を主に財政政策だけに依存する風潮がある今日において、物価水準の財政理論をその論拠としないように、国民が見守らなければならない。

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“rise and rise and rise”/“fall and fall and fall”

持ち上げるだけ持ち上げといてからその後容赦なく叩き落す。というよりも、なじるために誉めそやすと考えた方が適当か。マスコミないしはワイドショーの論法だけども、表題とはあまり、いや全く関係ない。取り上げるのは昨日出てきたヴィクセルです。

ネットをうろちょろしてたらヴィクセルの論文を見つけた。一世紀近く前の論文をネット上でタダで読めるとは思わなんだ。“The Influence of the Rate of Interest on Prices”

If, other things remaining the same, the leading banks of the world were to lower their rate of interest, say 1 per cent below its ordinary level, and keep it so for some years, then the prices of all commodities would rise and rise and rise without any limit whatever; on the contrary, if the leading banks were to raise their rate of interest, say 1 per cent above its normal level, and keep it so for some years, then all prices would fall and fall and fall without any limit except Zero.

市場利子率(銀行の貸付利子率)が自然利子率(the profit on capital、資本の限界生産性)を下回り続けると物価はとどまることなく上昇し(rise and rise and rise:累積的なインフレ)、上回り続けると物価はとどまることなく(0にはならないが)下落する(fall and fall and fall:累積的なデフレ)。そのメカニズムについてはヒックス先生に聞いてみよう(『経済学の思考法』3章)。

引き下げられた(現実の)利子率の最初の効果は、(投入物としての)資本財に対する需要の増加であろう。(資本財が反応するとしても)直ちに反応しない一部の資本財供給が確かにあろうから、一部の資本財価格は少なくとも確実に上昇するだろう。この価格の上昇は予期しない収益をもたらし、その一部はやがて支出されるであろう。したがって消費財需要もまた、すぐにではないがやがて増加するであろう。投入物の価格は上昇するが、産出物の価格が上昇しない期間があり、この期間には、投入物価格の相対的上昇によって投資の収益率が減少するであろう。したがってここでも真の自然利子率を下回る擬似的な自然利子率があり、一時的に現実の利子率と均衡するようになるであろう。しかし時間が経つにつれて、消費財需要は増加するに違いないし、その価格も上昇するに違いない。したがって、他の解釈と同じように、擬似的な自然利子率は真の自然利子率に戻り、「累積的な」拡張が継続するであろう。(p86~87)

資本財価格の上昇が先行するため(資本財価格の上昇により収益が圧迫され、その影響を考慮に入れた「擬似」の自然利子率と市場利子率の差は(自然利子率-市場利子率)よりも小さい、時には一致する場合もあり)、一時的な市場利子率の低下は累積的な価格上昇につながらない。消費財価格が上昇し始めた時にも依然として市場利子率が低位な水準に維持されていれば、(消費財(産出物)価格の上昇により)「擬似」の自然利子率は真の自然利子率の水準まで上昇、その後資本財・消費財価格は二つの利子率(自然/市場)の差額から生じる利潤分配の増加による需要増を反映して「累積的」に上昇し続ける。

自然利子率と市場利子率の乖離はそのまま放置され続けるとは限らない。

When interest is low in proportion to the existing rate of profit, and if, as I take it, the prices thereby rise, then, of course, trade will require more sovereigns and bank-notes, and therefore the sums lent will not all come back to the bank, but part of them will remain in the boxes and purses of the public; in consequence, the bank reserves will melt away while the amount of their liabilities very likely has increased, which will force them to raise their rate of interest.

銀行貨幣が唯一の支払手段である純粋信用経済(where all payments were made by transference in the bank-books)では、銀行が貸し付けた資金はどこかの銀行に預金として還流してくる(あるいは貸付先の銀行口座に貸付金額を記入)。物価が上昇している時には、その分必要な貨幣も増加するから銀行貸付も預金も増加。振り込み依頼の金額が増大する結果として支払準備(当座預金)は目減りし(変動が大きくなり)、増大する預金に対して必要となる支払準備が増大する。借入需要を抑えるため(支払準備の目減りを防ぐため)に銀行は貸付利子率を高め、これ以上の貸付・預金増加を抑制しようとする。やがて、高まる市場利子率は自然利子率の水準に一致する。

誰とは言わないが是非とも心して聞いていただきたい言葉。

it turns into a positive support of our theory, as soon as we fix our eyes on the relativity of the conception of interest on money, its necessary connection with profit on capital. The rate of interest is never high or low in itself, but only in relation to the profit which people can make with the money in their hands, and this, of course, varies. In good times, when trade is brisk, the rate of profit is high, and, what is of great consequence, is generally expected to remain high; in periods of depression it is low, and expected to remain low. The rate of interest on money follows, no doubt, the same course, but not at once, not of itself; it is, as it were, dragged after the rate of profit by the movement of prices and the consequent changes in the state of bank reserve, caused by the difference between the two rates. ・・・In one word, the interest on money is, in reality, very often low when it seems to be high, and high when it seems to be low .

市場利子率が低位にあるときには物価が上昇し、高い時には物価は下落する。ヴィクセルの議論ではそうなるように考えられるが、実際に統計を見てみると物価の上昇時に利子率は上昇しており、物価が下落している時には利子率も下落している。統計によるヴィクセルへの反論に対するヴィクセルの再反論が上の言葉である。(名目)金利の水準だけを見て、その水準が高いか低いかを述べ立てることはできない。あくまで自然利子率との対比の上で市場利子率が高いか低いかを判断すべきである。景気が良い時=物価上昇時には自然利子率が高いためその分市場利子率も高くなるのであり、景気が悪い時=物価下落時には自然利子率が低くなるため市場利子率も低くなる。最後の言葉は記憶しておきたい。「市場利子率が高く見える時には実際には(自然利子率との対比でみれば)割安なのであり、市場利子率が低く見えるときには割高なのである。」

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需要は有限か

西部邁氏が先導した「出エジプト」(塩沢由典教授による命名)の動きに共鳴し反経済学の道をまっしぐらに突き進んでいたあの頃(そう昔のことではないけれども)、佐伯啓思著『「欲望」と資本主義』の以下の一節を読んで目から鱗が落ちる思いをしたものである。

ふつう経済学では、人間の欲望はあらかじめ無限にあり、これに対して生産資源は有限なのだから、生産物はこの無限の欲望のもとでつねに絶対的に不足していると考えられている。だから経済学の問題はあくまで「稀少性」にあるとされる。どんなに生産しすぎても人間の絶対の欲望に対しては生産過剰ということはないのであって、問題はあくまで「稀少」な資源をどのように使い、かぎられた生産物をどのように分配するかにある。・・・人間の欲望は潜在的には無限かもしれないが、そのもっとも基本的なものは生存に関わるものだろう。すると、これは決して無限なわけではない。・・・ひとつの「種」が社会を構成して存続するための基本条件・・・という観点からすると、人間は明らかに生存に関わる以上のものを生み出しているのである。・・・一般的にあらゆる人間社会は基本的生存水準以上の生産力をもっているのである。その意味では生産は常に「過剰」なのだ。だからこう考えれば、人間社会の経済問題は「稀少」にあるのではなく、むしろ「過剰」にあるというべきではなかろうか。(p75~76)

経済学の教科書を見ると消費の限界効用は逓減すると書いてある。豊かになり消費水準が高まるにつれていつかは欲しいものがなくなってしまうのではないか。(マクロとしての)消費の限界効用もやがて飽和してしまい、生産が需要を上回ることが常態となってしまう(=構造的な過剰生産・超過供給が定着する)のではないか。コンビニやデパートで新品同様の弁当や雑貨が廃棄される様を指摘して生産過剰の例証とする向きもある。「豊かな国で生産は過剰になる」という言明は我々の「常識」に訴える力を持っており、そのため欲しいものがないから(=構造的な消費需要の不足のため)現在の日本は長引く不況から抜け出すことができないのである(=現在の不況は豊かさの裏返しである)、という議論に多くの人々が説得力を感じてしまうのかもしれない。

コンビニでアルバイトをした経験がある人ならば、まだ食することが可能な弁当を惜しげもなく大量に廃棄する際にもったいないと感じたことがあるはずだ。なんて贅沢な、アフリカの貧しい人々は日々の生活にも困っているというのに、と強い憤りを覚える正義感溢れる人もいるかもしれない。しかし、コンビニという社会の片隅での経験・観察を一国経済レベルにまで一般化して、「豊かな国では生産は需要を超過する」と結論付けるのはあまりにも飛躍しすぎである。商品に売れ残りが発生する(あるいは廃棄される)理由はその値段が高すぎるためか、あるいはそもそもその商品に対する需要が存在しないためである。大量に廃棄される商品は次回からは入荷が抑えられ(あるいは値下げされ)、その一方ですぐに売り切れとなりしばしば在庫不足に見舞われるような売れ筋の人気商品が存在する。コンビニという狭い世界の中においても、生産過剰の商品もあれば需要過剰な商品も存在するわけである。POSシステムにお金をかけて投資するのも、消費者の動向を素早く見極め、商品間の需給の誤差を調整するためである。営利を目的とする以上、いつまでも大量廃棄されるような(需要のない)商品を店頭に残しておくはずがない。部分的な生産過剰から全体的な生産過剰を類推するのは大きな過ちである。

欲しいものがなければ無理して物を買う(=消費する)よりは貯蓄にお金を回すことになるであろう→貯蓄水準が高いこと(消費水準が低いこと)は欲しいものがないことのあらわれである、との推論によって生産が過剰である(生産が需要を超過する)のは「欲しいものがない」あるいは「需要が有限である(豊かになれば欲しいものがなくなる)」からだとする向きもある。しかしながら、高貯蓄=欲しいものがない、と単純に等式で語ることはできないのであって、高貯蓄、言い換えると消費低迷の原因は単一にとどまらず、欲しいものがあっても消費が低迷することがある。この点の詳しい議論は「何を消費するか」と「どれだけ消費するか」とを区別すべきだと説く岩田規久男著『デフレの経済学』第7章を参照して欲しいが、価格下落の期待(=デフレ期待)もまた消費低迷の一因となりうる(=価格下落の期待は消費を将来に延期する誘因となる)ということは注記しておきたいところである。

急速な技術革新や東欧の市場参入、新興工業国の輸出の急増により資本主義経済は(一国経済にとどまらず世界全体で見て)過剰供給状態に陥った、との議論も存在する。困った時のKrugman。・・・というわけで、クルーグマンはこの主張に「グローバル・グラット・ドクトリン」という名を冠して『資本主義経済の幻想』の中で反駁を行っている(ウェブ上でも読めます。Is Capitalism too productive?kmori58さん情報。どうもありがとうございますm()m)。以下、Krugmanの議論を簡単に追ってみることにしよう。

Krugmanはグローバル・グラット・ドクトリンが成立するための前提条件として3点挙げている(p37)。

  1. グローバルな生産能力は例外的なまでの速さ、おそらくは前例のないほどの高い伸び率で増大しつづけている

  2. 先進国の需要は、潜在供給力の増大に追いついていくことができない

  3. 新興経済圏の成長は、グローバルに見て需要面よりもむしろ供給面でより大きく貢献するであろう

1については逸話や印象論―特定分野での過剰生産の事実や「ムーアの法則」etc―によって形作られた思いつきに過ぎず、統計数字を用いてここ数年のうちにおいて例外的といえるほどの生産力の伸びが見出せないことを指摘、2については「所得が上がるにつれて消費者は、必要な物をすべて購入してしまって満足するようになる、つまり所得が増えるにつれて支出を増やすことには躊躇するようになる、という観念」(p42)の産物であり、これまた統計数字からアメリカの消費支出が増大する所得に歩調をあわせて上昇していることを指摘、「「恒常的な」所得の上昇が見られる場合、それは経済成長に伴うものだが、彼らの支出は所得の上昇に比例して増加する」(p43~44)と結論付ける。3については新興市場諸国は対外債務を返済するため消費を抑えて輸出主導の成長戦略をとっており、低賃金に基づく価格競争力を武器に貿易黒字を計上しているはずという思いつきにほかならず、またまた統計数字を用いて正規(regular?)の経済学者が予測する通り* 実際には新興市場国の多くは貿易赤字を抱えており、賃金も生産性の上昇に伴うかたちで上昇していることを明らかにする。

*新興市場諸国の生産性上昇は所得の上昇をもたらす。発展途上の国の人々は、貧しさのため現在の消費水準に満足しているはずもなく、所得増加は供給の増加に劣らぬほどの需要増加につながるはずだ。また、国内貯蓄を上回るほどの投資機会を国内に有する新興市場国の場合(S<I)、支出は収入を上回り資本収支の黒字、翻って貿易赤字を計上するはずである(ISバランス論)。また、当初の価格競争力の優位も生産性上昇に伴う賃金上昇によって軽減されるはずである。(p44~45参照)

統計数字を見る限り、グローバル・グラット・ドクトリンが成り立つための前提条件は一つも満たされていない。グローバル・グラット論者は「実在しない問題が実在すると思い込」んでいるのである。

グローバル・グラット・ドクトリンを説く者たちは、退治すべき怪物どもがあたりを徘徊しているというのに(他に解決すべき重大な経済問題があるにも関わらずという意味:引用者)、ドン・キホーテのように風車に挑みかかろうとしているのである(p57)。

生産力過剰に関する懸念は1930年代の大恐慌期にも存在したという(「大恐慌期における雇用不足を1920年代に広汎に導入された大量生産技術に結びつけようとしたのは、ごく当然のことであった」、p34)。「常識」「実感」に訴える考え、あるいは「既得観念」のしぶとさをまざまざと知らされる思いである(フランスでジョスパン政権期に「ワークシェアリング」の議論がグローバル・グラット・ドクトリンと関連付けられて台頭してきた、という指摘も興味深い)。

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構造改革のミソ

数年前の某缶コーヒーCMだったと思うが、その中でダウンタウンの松本人志が何気なく語っていた言葉が今も記憶に残っている(松ちゃん自身が考えたかは知らないが)。       

構造改革のミソはなぁ、「構造を改革する」ことにあるのであって、「改革を構造する」ことではないんだな~。

正確な口調まではさすがに忘れたけれども、内容に関しては大きくは違っていないと思う。

第一に問われるべきであり、また忘れてならないのは何のための改革か、ということである。構造改革の目的が資源の効率的な配分を促進し、経済の潜在的な(長期的な)成長力を高めることであるとすると、改革に着手する以上は資源配分の歪みを生んでいる「構造」を特定し、改革の結果としてその資源配分の歪みが解消されることを示さなければならない。“これまで誰も成し遂げられなかったことをやってのけたのだ”、“強い抵抗を跳ね返して苦心の末に改革を実現させたのだ”、とあたかも改革することそのものに意味があるとでも言わんばかりに、「改革したという事実」に焦点を当てその事実を誇示するというのは本末転倒の事態である。改革はあくまで手段なのであり、改革自体が自己目的化してしまってはならない。誇示すべきは改革の成果なのである。「改革を構造する」という意味での「構造改革」は本来的な意味での構造改革とは言えない。                           

さて郵政民営化である。郵政3事業のうちここでは郵貯について取り上げたい。といっても私が語ることができるのはごくわずか、いや何もないと言ってもよいかもしれない。“韓流好き田中VS高橋ヴェーダー卿”というリフレ派内部での激論に何をか付け加えようとしたところで、私の能力から鑑みるに無理がある。ただ、両者ともに現時点において(財投改革後の)郵貯の存在が歪んだ資金配分をもたらしてはいないという点では一致しているようだ。また、政府介入を許すような市場の失敗が存在するわけでもないみたい(市場の失敗がないのであれば政府は手を引きなさいということになるんだろうが、現状でも特段問題は見出せない。害もなければ益もない。単純に必要ないんじゃないだろうか)。存在しても存在していなくてもどちらでもかまわない存在。なら廃止してしまえ、というのは短絡なのだろうか。

一体郵政民営化の目的は何なのだろうか? 目的なしの改革は「改革を構造する」ことなのではないのか。新規の事業に乗り出さなければ赤字に転落してしまうような事業体をなぜ民営化してまで残す必要があるんだろうか。もしかしたら民業圧迫が郵政民営化の目的なのか。金融業界における競争を活発にして・・・・という話なのかしら? ということは競争制限的な規制は依然健在なのであろうか。財政赤字の縮小・小さな政府の実現なんて話もあるようだけど、果たして郵政民営化がその手段として適当なんだろうか。疑問は尽きない。郵政民営化の目的が見えてこない。一体目的は何なんだ。

「情けは人の為ならず」や「流れに掉さす」という諺がえてして逆の意味に取り違えられることがあるように、「創造的破壊」という言葉もシュンペーター自身の意図とは正反対の意味を含ませて語られることがある。シュンペーター自身は、新結合による革新者の新規参入(創造)がそれまでの経済構造のあり方(均衡下にある市場、循環)を変容させる(破壊)という意味で「創造的破壊」―創造の過程において旧来の伝統なりが破壊されていく―という言葉を使っていたはずである。まず創造ありきである。しかしながら、破壊の中から創造が生まれるという意味で「創造的破壊」が―破壊したあとに創造が生まれる―持ち出されることがある。旧弊を破壊せん、さすれば何か生まれよう。バクーニンもどきの言説に他ならない、とかの西部翁は語っている

「改革を構造する」構造改革には、破壊ありきの「創造的破壊」の精神と一脈通じるところがあるのかもしれない。現状を変えれば何とかなる、改革/破壊がその後よい結果を生む(に違いない)。希望的観測の吐露にしかすぎない、無責任な考えだと感じるんだが。郵政民営化に関しては某首相の自己満足のような気もするけど。

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最後の『冬ソナ』論

田中秀臣著「最後の『冬ソナ』論」(太田出版、2005年)

御多分に洩れず(?)、「冬ソナ」をはじめとする韓国ドラマ(一つも見てないかもしれない。申し訳ないですm()m)は未見でして、物語に秘められた暗示や隠喩を読み解くその見事な手綱さばきを評価する正当な資格があろうはずがなく、また映像を頭に思い浮かべつつ議論の展開を堪能するまたとない楽しみ(=「なるほど、あのシーンにはそういう意味が込められていたのか」とはたと膝を打つチャンス)もみすみす逃してしまう格好となってしまいました(例外的に一箇所だけ、「「脂ぎった顔で、ウェーハッハッハと嗤う」エコノミストという肩書きをもつ人物」(p10)の映像は脳裏に鮮明に浮かんできましたが)。本書を一読する前に少しだけでも「冬ソナ」を見ておくべきだったな~、というのが唯一の心残りであります。え? そんな話はどうでもいい? そうですか。そうですよね。

自己の欲望・満足(性欲)の充足を目的とした(渡辺淳一的な)利己的な愛だけが愛の唯一の形ではなく、自己の犠牲(不利益)も厭わずに(=仕事や家族を犠牲にしてでも)他人を絶対的に信じ切る(他者への共感に根ざす)利他的な愛もまたれっきとした愛の形である。また「ひとりの人間のなかには多様な動機が同時に共存していてもなにも困らない・・・」のであり、「利己的な愛と利他的な愛がひとりの人間のなかになんの矛盾もなく両立することができる」(p60)。

利己的な愛を体現するサンヒョク・ミニョンには利己的な愛で、利他的な愛を体現するチュンサンには利他的な愛で、それぞれ対峙するユジンの行動の二面性(まるで「しっぺ返し戦略」のようだ。特にチュンサン→ミニョン→チュンサン(利他的→利己的→利他的)への対応の変遷(チュンサンが記憶を喪失しミニョンとなるや(相手が利己的な愛を選択すると)利己的な愛で応じ(応戦し?)、ミニョンが記憶を回復しチュンサンが蘇るや(相手が利他的な愛を選択すると)利他的な愛で応じる(報いる?)。次の言葉は示唆的である。「愛情ゲームのなかで彼女が主に採用する戦略は、無償の純愛という戦略なのである」(p65))や「冬ソナ」ブームを支えた背景―「配偶者選択モジュール」(=利己的な愛の原動力)が規定する中高年女性の構造的な恋愛デフレと利他的な愛に共感する「利他的選択モジュール」(=利他的な愛の原動力)の働きによって支えられた冬ソナブーム―を(ヨン様の性格設定もですが)丹念に観察・分析することによって著者が「冬ソナ」から導き出したメッセージである。

著者が「冬ソナ」から引き出したこのメッセージは、実のところ「愛を節約する」経済学のあり方とデフレ不況下にある現在の日本経済の両者に対する一つの警鐘となっている。「効率」という基準(自己にとっての便益>自己にとっての費用、ならば効率的)に基づいて行為を評価する傾向にある「愛を節約する」経済学(=行為の背後に利己的な動機(選好体系)のみを想定)では、利他的な動機(「利他的選択モジュール」)から発する行為により人々の間に構築される「信頼」関係(「自分の利益ではなく、無私の貢献をしているものに対して社会や周囲の人間はそれなりの評価を与える。この人は信用できる、と」。(p136))の重要性になかなか気づくことができず、そのため利他的な愛を体現したものとしての「日本的雇用システム」が果たす役割を十全には理解することはできない。雇用の継続を保証する「終身雇用制」や名目賃金の一定の上昇を約束する「年功序列賃金制度」は、「愛を節約する」経済学の立場からすれば経済合理性にかける非効率的な制度に見えることだろう(=賃下げや解雇が必要な状況において厄介な足かせとなるだけであり、また雇用の流動化(柔軟で流動的な資源の移転)を束縛するものでしかない)。しかしながら、経営状態が苦しい状況にあっても安易な首切りや賃下げ(=短期的な利益を追求する)を回避し、従業員の現状維持に尽力する経営者の利他的な愛の戦略は、従業員の経営者・会社に対する「信頼」や忠誠を引き出し、時に「会社人間」とも揶揄される無私の(滅私の)、言い換えれば利他的な行為を誘発する源泉となる。会社に対する「信頼」が存在するもとでは、従業員は関係依存型の(あるいは組織特殊的な)人的投資に積極的に乗り出すインセンティブを有し、結果として企業の生産性は向上していく(効率性にもプラスに働く)ことだろう。短期的な利益を追求する経営者の判断(=首切り、賃下げ(あるいは成果主義的賃金制度の導入);効率至上の利己的な行為)は、従業員との(長期的な)信頼関係を崩壊させ、従業員のモラルややる気はいやおうなく低下してゆくことになるかもしれない。人間は利己的な原理だけではなく利他的な原理によっても突き動かされているのであり、社会が(経済が)円滑に進行してゆくためには配偶者選択モジュールに加えて利他的選択モジュールが活躍しうる場を確保する必要があるわけである。

私が『冬ソナ』からあえて経済学に対する有意な意義を見出すとすれば・・・まさに利己的な原理と利他的な原理が補い合うということ、そして同時に後者のより相対的な強調にこそ求めなければならないだろう。(p136)

デフレないしは不況は経営者に短期志向ないしは利己的になることを強いることによって(経営体力が弱まることで解雇や賃下げに乗り出さざるを得なくなる)信頼関係の崩壊に手を貸すことになる(「終身雇用制」や「年功序列賃金」はマクロ経済が安定している結果として成立しうるものである)。デフレが長引けば長引くほど、経営者と従業員間の「信頼」の源泉たる利他的選択モジュールの活躍余地は狭まり、配偶者選択モジュールが利他的選択モジュールを淘汰する可能性がいやましに高まることになる。デフレ不況のもとで進行する利己的な原理の利他的な原理への侵食を食いとどめるためにも(両者のアンバランスを是正するためにも)、一刻も早いデフレからの脱却が必要である。

(追記)経済は効率と信頼・公正ないしは利己的/利他的な原理の共存によってヨリ円滑に機能するという議論は実はヒックスも主張している点である。労使間の信頼関係が醸成されるためには労働者が公平(fair)に遇されていると感じることが必要であり、公平な賃金体系が維持される結果として賃金は粘着的になるとヒックスは述べる。労働者の生産性に応じて賃金を頻繁に改定することは、確立された公平な賃金体系を揺るがすことにより労働者に不公平感を抱かせ生産効率を引き下げることにつながる。「いかなる価格体系も(賃金体系とまったく同様に鉄道運賃体系も)、経済効率性の基準とともに公平性の基準をも充たさなければならない」(『ケインズ経済学の危機』(ヒックス本は絶版ばかりだね~(悲 )、p109)。

注記しておかなければならないことは、ヒックスは公平性の基準を充たすために価格が粘着的(固定的)になることの弊害をも十分に認識しているということである。長くなるが引用。

もし、価格(および賃金)がもっと安定していれば、万事がうまくいくはずだ、したがって、固定価格市場には、たとえかぎられた程度にもせよ安定性にそれが役立つのだから、積極的メリットがあるのだ、と。・・・しかし、それには、その反面、嘆かわしいデメリットがあることをも、私は十分に心得ている。私が主張しているのは、私がこれまでに論じてきた諸問題を心にとどめておくことが経済学者のなすべきことの一部分である、ということ―価格は配分機能だけでなく社会的機能をももっているのだということを経済学者は常に意識すべきだ、非常にはっきりと意識すべきだ、ということである。しかし、価格は、たしかに配分機能をももっているのであり、その配分機能を明らかにしてきたことが、経済学の主要な成果のうちの一つなのである。私は、われわれはその方向で学んできたことのすべてを捨て去るべきだ、などということを、いささかも述べているわけではない。われわれは、そのことをもしっかりと心にとどめなければならないのである。たしかにわれわれは、価格機構の自由な使用によって最適効率が達成されうるような世界は現実からはほど遠いものであることを、よく知らなければならない。しかし、だからといって、そのことは、経済効率を改善する―時おり言われるように、準最適化する―実際的方法を求めてわれわれがたえず努力したりすべきではない、という理由にはならないのである。このことは、先のこととまったく同様に、われわれの義務の一部分なのである。(『ケインズ経済学の危機』、p117~118)

効率追求も公平の追求同様に重要だということです。

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耐久財のディレンマ

部屋の整理をしている時に森嶋通夫著『思想としての近代経済学』を発見。何気なしに読む。

経済学入門ないしは経済学史の最初の講義で紹介されて(佐和隆光著『経済学とは何だろうか』も同時に紹介されていたと思う)、純粋無垢で元気溌剌な若きHicksian(当時はヒックスなんてもちろん知らない。森嶋通夫と聞いてもピンともこなかった)は、講義終了後迷うことなく本屋に駆け込んだものだ(中古で買うなんて汚らわしい発想は持ち合わせておりませんでした。きっちり620円出して購入)。佐和本も一緒に出てきたということはその時同時に購入したのだろう。夢と希望に心躍らせ、やる気に満ち満ちた18の春。遠い昔の話です。

著者がこの本の中で取り上げるテーマは大きく分けて二つ。「ビジョンの充実―経済学と社会学の総合―」(第Ⅱ部の表題)と「反セイ法則」(「耐久財のディレンマ」)。当時は第Ⅱ部を熱心に何度も何度も読み返したようだ。あちらこちらに赤線が引いてある。一方で第Ⅰ部・第Ⅲ部は読んだ形跡が見つからない。新品同様の良質の状態である。

時代は流れてどうやら視野狭隘な人間に落ちぶれてしまったらしい。というのも、赤いページ(赤線まみれだから)は足早に、白いページは行きつ戻りつゆったりとしたペースで読み進んでいったからである。

これまでに概観した経済諸理論を総合すれば、次のような近代経済学の資本主義観が得られる。まず第一に、シュンペーターが力説したように資本主義は安定的でない。資本主義の発展コースは、「企業者」の創意と「銀行家」の勇断に・・・依存して、旧軌道から不安定的に離れ去り、飛躍的な大発展を遂げる。第二にそれはまた、ヴィクセルが見たように貨幣面で極めて不安定である。大きい革新が枯渇すれば、収益逓減の法則により、資本の生産力(したがって正常利子率)が低下するから、貨幣利子率は高位に取り残されて、下方への累積過程が生じる。これを是正すべく貨幣利子率を下げれば、下げ過ぎて上方向への転進が生じ、物価騰貴が生じる。・・・更にその上シュンペーター、ヒックス、ヴィクセルは、いずれもワルラスが残した「耐久財のディレンマ」を直視していない。彼らはワルラス同様、完全雇用均衡が成立しうると考えるが、そのためには非現実的な「セイ法則」を仮定するか、利潤率均等化の動きを無視しなければならぬ(p95~96)。

資本主義はその成功のゆえに没落する、とかのシュンペーターは述べている。没落するかどうかはひとまず置いておくが、資本の蓄積が進み(耐久財の存在感が増し)経済的に豊かになるにつれて、当該経済は構造的な不均衡(貯蓄>投資)を抱えこみ不況と失業から逃れることがますます困難なことになってゆく。耐久財のディレンマによって資本財市場での価格調整が機能しなくなり「反セイ法則」(有効需要の原理)が現実のものとなるからである。

耐久財(テレビや冷蔵庫(消費財)、機械設備(資本財)等数回ないし数年にわたって繰り返し使用可能な財)には2つの市場が存在する。著者が例としてあげているように自動車には売買のための市場とレンタルのための市場がある。自動車がP円であり、レンタル料金がq円であるとき、手元にP円を保有している人は自動車を購入して運転を楽しむことができる(運転によるサービスをレンタルしているとも言える)と同時にレンタル市場を利用して収益を稼ぐことも可能である。P円で購入した自動車を一年間貸し出すと(減価償却率をδとすると)q-δPだけの収入を得ることができ、その時の収益(利潤)率は(q-δP)/Pとなる。レンタル業に乗り出さずとも収益を稼ぐことは可能だから(P円を銀行に預けたり証券に投資すればよい)、このレンタルによる収益率はその他の資産投資から得られる収益率と等しくなければならない(等しくなるよう調整が働く)。利子率をiとし、その他資産の収益率をこれで代表させると耐久財についての利潤率均等の条件 i=(q-δP)/P が得られる。

自動車の価格Pとそのレンタル料金qはそれぞれの市場で需給を均衡させる水準に決定される。ここで問題となるのは各市場で決定された均衡価格(P*、q*)が耐久財についての利潤率均等の条件をも同時に満たしうるかどうかということである。レンタル市場で需給を均衡させるレンタル料金がq*に決定され、また利子率が与えられると利潤率均等の条件から自動車価格P’が求められる。はたしてP’は自動車(売買)市場を均衡させる水準(P’=P*)でありうるだろうか。極めて偶然的な場合を除いてP’では自動車売買市場での需給は均衡しないであろう(価格Pが需給調整機能を放棄する)。つまりは利潤率均等の条件を前提する限り、レンタル市場・自動車売買市場が同時に均衡するのは困難なことなのである(「耐久財のディレンマ」)(ガレリャーニ(P.Garegnani)が同様の指摘をしているということをどこかで読んだ記憶があるんだが、はてさてどこだったかしら。ワルラスによる一般均衡の枠組みの下(正常利潤を含んだ費用方程式)においては諸資本財間の利潤率の均等を保証するメカニズムは存在しない、みたいな感じだったかしら )。

耐久資本財(機械設備)市場においてP’で需給が均衡しない場合(上で論じてきたことは耐久財一般にも妥当する;Pは新品の機械価格、qは機械の生産用役の価格(生産部門と機械保管部門の間に機械の生産用役のレンタル市場があると擬制的に考える)、p44参照)、資本財に売れ残り(需要<供給)や品不足(需要>供給)が発生する(需要の大きさが供給の水準を決定する「反セイ法則」)。「株式会社が発達するにつれ、大衆資本が動員された結果、大多数の資本家は企業経営とは何の関係もない人となってしま」い「資本家と企業者は独立にな」(p151)ると投資決定(資本財需要)と貯蓄(資本財供給)決定も独立になされるようになり、(第一次世界大戦後のように)「生産力は高水準だが停滞し、技術が発展する可能性は乏しく、したがって技術革新の余地はほとんどな」(p151)く「経済が発展して投資機会が少なくなると、資本財を供給しても、需要されるとは限らなくなった」(p231)。資本財供給は過少な資本財需要にあわせて抑制され、資本財生産産業の労働需要量や資本用役への需要量は減少、労働市場や資本用役市場には過剰供給(失業や遊休設備・予期せぬ在庫増)が発生する。労働市場で価格調整(実質賃金の下落)が行われる結果として過剰雇用は一掃されるだろう。しかしながら新たに失業した人々は「賃金下落により労働意志をなくして自発的に市場から退場した自発的失業者のようにも見えるが、それはもとをただせば、資本財に対する有効需要が少ないことにより、資本財を数量調整した結果生じた失業である。ケインズはこのような有効需要の不足に基づく失業は、一見自発的に見えても、彼のいう失業、すなわち非自発的失業として取り扱う」(p232)。

森嶋教授によれば「耐久財のディレンマ」が「反セイ法則」(過少な投資需要の大きさに生産(貯蓄)が圧縮される)を通じて大量失業の脅威を経済に及ぼすようになるのは経済発展の結果であるという。

資本蓄積が進行し、経済発展がなし遂げられるにつれ、投資機会の多くは実現済みのものとなり、少ししか投資機会が残されていなくなる。その結果、技術発展が急速に進行する例外的な時代を除いては、一般に投資需要は、余剰生産物(実物貯蓄)より遥かに小さくなる。「供給(貯蓄)はそれ自身に対する需要(投資)をつくる」という意味のセイ法則は満たされなくなる。すなわち資本蓄積、経済発展の必然的結果として、経済はセイ法則の時代から反セイ法則の時代に転換する。(p240)

反セイ法則が現実的に妥当し始めるのは「耐久財の持つ比重が、近代社会で大きくなったことと、生産力が増大したために耐久財について容易に生産過剰が起こりうるようになったから」(p47)であり、「異論もありえようが、私自身は、おそらくは第一次世界大戦前から、ほぼ(戦後には、全く)そういう時代になってしま」(p232)い、「戦間期および第二次大戦後を通じて、現実がセイ法則から遠ざかるにつれ、完全雇用均衡も実現不可能になったのである」(p233)。森嶋教授のこのような見方からは世界恐慌も反セイ法則(構造的な投資需要不足=デフレ期待による名目期待キャッシュフローの低迷が原因ではなく、資本蓄積による収益逓減の結果としての名目期待キャッシュフローの低迷が原因)が現実世界で猛威を振るった一例ということになる(p152~153参照)。

経済発展の結果として資本の蓄積が進み豊かになると投資需要は低迷せざるを得ない。投資需要の不足は構造的なものである(根本的な打開策は投資ブームをもたらすようなイノベーションの実現。公共投資をするなり金利を低位に維持するなりして技術革新が実現するのをひたすら待つしかない)。現在の日本においてゼロ金利にもかかわらず一向に景気が回復しないのも投資需要が構造的に不足してるからなんでしょうかね? 日本が豊かすぎるのが原因なんでしょうか? イノベーションの実現を期待するしかないんでしょうか? 日銀さん、どう思います?

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出口の抜け方

7月12、13日に開催された金融政策決定会合での決定は、前回と同様当座預金残高目標を30~35兆円に維持するとともに、俗に言う「なお書き修正」として、金融機関の「資金需要が極めて弱いと判断される場合には」残高目標の下限割れも容認する姿勢を引き継いだ形となっている。果たして下限割れ容認は量的緩和政策解除への地ならしを意味するのだろうか。量的緩和の出口は間近なのか。「出口政策」について冷静に、現実的なものとして考えるべき時のようである(総裁定例記者会見において記者の「金融経済月報の中で「供給オペに対する札割れが続く」という表現があるが、札割れが頻発すると量的緩和政策の目標を維持できないはずである。今回このように表現された理由について、何がしかの下ごしらえの意味があるのか。総裁の言葉で言えば「積み残しがある」かのようなイメージを受けるが如何か。」との質問に「私どもとしては、5月20日の金融政策決定会合で「なお書き」を修正して、流動性需要が著しく減退しているような場合に一時的な目標値の下限割れがあるということを決定したわけである。現にその方針のもとに金融調節を行ってきているわけであるから、その後の市場状況を述べる場合に、札割れ現象にまったく触れないでいくことはあまり正直ではないだろうと思う。記者の皆様や私どものように札割れ現象という言葉を既に何回も耳にしている人達と違って、金融経済月報は一般の方々にも読んで頂くわけであるので、札割れという現象が一度も表現されたことがないというのは、むしろおかしいということである。それ以上の深読みは明らかに深読みであり、それ以上の意味は一切ない。」と答えており、この総裁の言葉をそのまま信じれば「出口」はまだまだ先のようではあるが・・・)。

量的緩和政策の解除条件として日銀は3つの条件を挙げている

  1. 直近公表の消費者物価指数の前年比上昇率が、単月でゼロ%以上となるだけでなく、基調的な動きとしてゼロ%以上であると判断できること

  2. 消費者物価指数の前年比上昇率が、先行き再びマイナスとなると見込まれないこと(政策委員の多くが消費者物価指数の前年比上昇率がゼロ%を超える見通しを有していること)

  3. 量的緩和政策を継続することが適当であると判断されるような経済・物価情勢が見受けられないこと

この3条件が満たされた場合、量的緩和政策は出口を迎えることになる。量的緩和という異常事態から金利(コールレート)を操作目標とする正常な、また伝統的な金融調節へ。終着点ははっきりしている。しかしながら、その道程ははっきりしない。当座預金残高目標を徐々に減額していくのか、それとも一気にゼロ金利解除に踏み込むのか。果たしてどれだけのスピードで出口を駆け抜けていくのだろうか。

安達誠司著『デフレは終わるのか』を参照して量的緩和解除の具体的プロセスを考えてみよう。安達氏は植田和男・日銀審議委員(当時)の2004年5月26日の日経CNBCの番組上での発言から出口政策のプロセスを3段階にまとめている(p77)。

  1. 量的緩和の解除

  2. 量的緩和と通常の金利政策との過渡期の政策運営

  3. 平時の金融政策運営

2の過渡期においてゼロ金利を維持するか(量的緩和→ゼロ金利→通常の金利政策)、それともゼロ金利を解除してコールレートの変動(上昇)を認めるか(量的緩和→通常の金利政策)。前者はスロースピードの出口政策であり、後者はハイスピードの出口政策といえよう。間にゼロ金利を挟むということは、当座預金残高を徐々に減額していくことを意味しており(所要準備を上回る超過準備を容認)、一気に通常の金利政策に回帰することは超過準備を一挙に放出する(当座預金残高を所要準備の水準まで圧縮する)ことを意味している(積み進捗率の調整によりコールレートを操作するためには支払準備は所要準備の近辺にある必要がある。大幅な超過準備が存在する状況ではコールレートは低位で安定したままのはずである)。ハイスピードの出口政策を実施するためには、日銀は大規模の売りオペにうってでるか準備預金率を大幅に引き上げなければならない(超過準備は30兆円近くに上る)。安達氏は実行可能性の観点からハイスピードの出口政策に対し否定的な結論を下している(「金利政策への回帰」を出口と位置付けるならば、金利政策への回帰のための必要条件である「余剰準備の解消」が大きなネックとなるため、実現は実質的にはほぼ不可能であると結論付けられる。」(p103))。

そもそも現在は「出口政策」に乗り出すべき時なのだろうか。安達氏は、テイラー・ルールやマッカラム・ルールによる現状の金融政策の評価、1936~37年にアメリカで実施された「出口政策」の歴史を踏まえて次のように述べる(アメリカの前例から4つの教訓を引き出しています)。

当時のアメリカにおける一連の政策パッケージは、2003年5月以降の大規模な円売りドル買い介入とそれに付随した量的緩和の拡大というわが国のデフレ圧力解消局面に酷似していると考えられる。このことはリフレ派が想定しなかった「レジーム転換なしのリフレ政策」でもいったんは、デフレ圧力の解消が可能であることを示唆している。だが、「レジーム転換なしのリフレ政策」はどうしても「早すぎる出口政策発動」の誘惑を断ち切ることが困難なようである。この点については、現在の日本も同様のケースである可能性が高く、「早すぎる出口政策」が今後のリスクとなる可能性は棄て切れない。(p92)

デフレを解消することへの明確なコミットメントが無い状況(経済主体のデフレ期待転換への働きかけが無い状況)で自然治癒を果たした1937年のアメリカ経済は「出口政策」に乗り出して失敗を犯した。私が言えることは、出口の先に広がる景色ばかりに気をとられて道中石に躓かないよう注意してください、ということだけである。

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非効率なナッシュ均衡に陥った日本経済

藪下史郎著『非対称情報の経済学』(光文社新書、2002年)を再読。

情報の非対称性が引き起こす問題―逆選択やモラハザード―について、著者が大学院生時代に師事したスティグリッツの経歴を交えつつ、実にわかりやすく丁寧な説明がなされている。新味が無いといえばそういえなくもないけれども(経済学になじみの薄い一般ビジネスマンや大学一年生を対象とした「通勤電車の中でも手軽に読める」入門書、と位置付けてるんだから仕方ないか)興味深い指摘も散見される。一つだけ引用。

アダム・スミス以来経済学では、経済発展のためには分業が重要な役割を果たしているということを指摘してきた。・・・交換経済のためには分業が行われ、各人が専門分野に特化することによって、生産性を高めた・・・しかし特化は、自分の専門分野だけの生産に従事することであるため、その分野についてはより詳しく知ることができるが、それ以外の分野については情報を得る機会が少なくなる。多くの人々は、専門または自らが生産過程に従事している分野についは多くの情報を持つが、それ以外の分野については情報を持たなくなる。すなわち、経済発展に伴って必然的に非対称情報が生まれるのである。(p82)

最終章の7章では低迷する日本のマクロ経済の問題が取り上げられている。本書の中で私が最も関心を引かれた個所である。「規制緩和や構造改革などは長期的に経済効率を高める上で必要不可欠であったとしても、失業率のような短期的問題の解決には有効でな(い)」、「貨幣金融部門から実物経済への影響だけでなく、実物部門での企業経営が悪化することが、銀行に不良債権を生み出し金融システムを不安定化するという、逆方向への関連が重要であることが分かる」、「不安定な金融システムと実物部門でのデフレや失業問題は、総需要不足だけでなく、さまざまな市場機能の不完全性が複雑に絡み合って生じているため、・・・単に財政政策か金融政策か、またマクロ政策かミクロ政策か、という二者択一的な問題ではなく、それらを総合的かつ有機的に用いる必要がある」。

「総合的かつ有機的」な政策対応が求められているにもかかわらず、民間部門と政策当局を含む日本経済全体は非効率的なナッシュ均衡状態にあるという。財務省は累積する赤字に、日銀は将来のインフレに、それぞれ懸念を抱き単独での景気刺激策に乗り出すことに躊躇する。自己資本の減少を防ごうとする結果、銀行は不況下での不良債権処理には乗り気でない(新たな不良債権を生むだけ)。不確実な将来に備え、企業部門は積極的な投資を控え、家計部門は消費よりも貯蓄を優先する。他の経済主体の行動を所与とする限り、危険回避的な行動をとり続けることが各人にとっては最適な反応となる。結果として経済全体としては非効率な状態はいつまでも続き、不況から抜け出す兆しはなかなか見えてこない。

「日本経済が陥っている非効率なナッシュ均衡的現状から脱却し、素早い景気回復を実現するためには、積極的かつ総合的経済政策を迅速に実行する力強い政治力が不可欠である」(p233)んだけども、莫大な政治的エネルギーは郵政民営化に注がれ続けているわけで・・・。

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2006年4月21日 (金)

自然失業率の成長循環仮説

アカロフ・中谷巌命題(=長期的にも(あるレンジの範囲内であれば)インフレと失業率のトレードオフ(=右下がりのフィリップスカーブ)が存在する)について田中先生より頂戴しました貴重なコメントを改めてエントリーさせていただきます(二度目になりますか)。以下田中先生コメント(に少しばかり編集を加えたもの)。

アカロフ・中谷巌命題をかりにフォーマルなモデルにするにはどうすればいいかちょっとあくまでもネタ的に考えてみたんだけど、彼らの発想を自然失業率の「成長循環」と考えるのはどうかな、と思ってるのよ。特に中谷巌モデルのミクロ的基礎づけとして考えていくといいわけで、彼の『マクロ経済学入門』の当該箇所(経済セミナーの方は未見)の自然失業率が金融政策に影響されますよ、という図表をみると自然失業率事態が一種の循環図みたいに描かれている。ネタとして追求していくので、例えばこの図はすぐにピピピとヒックシアン的に『景気循環論』の図に近いものを感じるし、よりストレートには捕食者・被捕食者(労働者と資本家)の成長循環論を描いたグッドウィンのモデルの循環図を想起させない? グッドウィンの成長循環モデルの基本構造を理解して、アカロフ・中谷巌命題をそこにリロードしていくという方向で考えてみると面白いかも。自然失業率の成長循環仮説というのはどうかな。ヨーロッパのいくつかの国に適合するし(ブランシャールの最近のヨーロッパの雇用問題論文参照http://www.arts.cornell.edu/econ/seminars/blanchard.pap.pdf 簡略版;http://econ-www.mit.edu/faculty/download_pdf.php?id=932)。

グッドウィンの成長循環モデルは

A Growth Cycle, 1967, in Feinstein, editor, Socialism, Capitalism and Economic Growth

翻訳があったはず(これ(『非線形経済動学』)だと思われます。未確認ですけど(編集者))。簡単な解説は下。

http://cepa.newschool.edu/~het/essays/multacc/goodw2.htm                       

*直接関係ないかどうか全然考えてないけれども成長循環的モデルとしては清滝・ムーアモデルなんかも同じ構造。『現代の経済理論』を参照。

ここらへんまでは真の師匠のところでアイディアだけは用意してたけど先にいかなかったなあ。見込みある方向かどうかわからないけれどもネタなんで暴走。笑

捕食者・被捕食者モデルの原型はLotka-Volterra モデルだからこれの数学的な構造を理解するには、僕は『力学系入門』を使いました。もちろんこれにアカロフ・中谷巌命題をリロードしようなんて発想は当時はなかったわけで。公平賃金仮説というか高田保馬の勢力理論の基礎をどうするかの延長で考えていただけでして。

あとそんなにいい本じゃないけどチープなりに初期のこの手の景気循環論のサーベイとしては、マリーノーの『ケインズ以後の景気循環論』がいいっす。

なんとかミクロ的基礎がある自然失業率の成長循環仮説をモデル化できないかなあ。いま書き下ろし(しかも一ヶ月で書く!)を抱えているのであまり余裕がないのでよろすく!

最後の一文が一体何を意味しているのかは皆目見当がつきませんけれども(笑 ・・・・、田中先生誠にありがとうございましたm()m。

新しく「アカロフ・中谷命題」なるカテゴリー(「自然失業率の成長循環仮説」や「アカロフ・中谷・グッドウィン・ヒックス命題」としたいところですが長すぎますので)を設けましたけれども、あくまでもネタ(笑)なんで今後進展があるかもしれないし、これが最後のエントリーになるかもしれません。ひとまずマリーノー本(手配済み)読んでグッドウィンの成長循環モデルの枠組みでも概観しとこうかと(グッドウィン本ももちろん読みますが)。浅田統一郎先生の本も読んで勉強しようかな。あくまでネタですからね、ネタ・・・。

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公平賃金仮説をたずねて ~その2~

George A. Akerlof, William T. Dickens, and George L. Perry、“Low Inflation or No Inflation: Should the Federal Reserve Pursue Complete Price Stability?”(August 1996;The Brookings Institutions HPより)。公平賃金仮説かつアカロフ・中谷巌命題(田中先生命名)巡りの一環として読んでみました。

自然失業率はユニークなものでもコンスタントなものでもなく、インフレ率に依存して複数の自然失業率が存在するかもしれない。自然失業率はrealな条件ばかりではなく、nominalな条件(インフレ率)にも影響を受けるかもしれない(ちょっと違った観点から同様の点を論じたものとして以下も参照のこと。 “Near Rational Wage and Price Setting and the Long Run Phillips”。全文は確かアカロフのHPで読めたはず。あった。“Near-Rational Wage and Price Setting and the Optimal Rates of Inflation and Unemployment(pdf)”。公平賃金仮説文献目録に掲げてるじゃないの。本当に忘れっぽいの~)。デフレ、そしてゼロインフレ(ないしはあまりにも低いインフレ率)は名目賃金の下方硬直性が足かせとなることによって失業率の高止まり(自然失業率の上昇)を結果することになるであろう。“物価安定”を追求するうえでは、ゼロインフレではなく(もちろんデフレであろうはずもなく)緩やかな(ゼロ%よりも高い)インフレ率を目標とすべきである。

The reason that zero inflation creates such large costs to the economy is that firms are reluctant to cut wages. In both good times and bad, some firms and industries do better than others. Wages need to adjust to accommodate these differences in economic fortunes. In times of moderate inflation and productivity growth, relative wages can easily adjust. The unlucky firms can raise the wages they pay by less than the average, while the lucky firms can give above-average increases. However, if productivity growth is low (as it has been since the early 1970s in the United States) and there is no inflation, firms that need to cut their relative wages can do so only by cutting the money wages of their employees.

相対的な(他企業と比較しての)実質賃金の調整を行ううえでゼロインフレは大きな困難を伴う。名目賃金が下方硬直的であるために実質賃金を引き下げようがないからである。インフレ率がプラスの範囲で推移していれば、名目賃金を据え置くことで(また物価上昇率以下に名目賃金の上昇率を抑えることによっても)実質賃金の引き下げを実現できる。この時名目賃金の下方硬直性は問題にならない。しかしながら、ゼロインフレ下において実質賃金を引き下げるためには名目賃金を引き下げざるを得ない。が、名目賃金を引き下げることは叶わぬ相談である。ゼロインフレは名目賃金の下方硬直性とぶつかることで実質賃金の高止まりを放置し(デフレ下では名目賃金の据え置きは実質賃金を上昇させ続けることになる)、その結果として雇用の抑制そして失業率の高止まり(自然失業率の上昇)を導く格好となってしまう。

ところで何故名目賃金は下方硬直的なのか?

Employers almost never cut their employees' wages because they fear that doing so would cause serious morale and staff retention problems. Studies of popular sentiment suggest why. Most people consider it unfair for a firm to cut wages, except in extreme circumstances. On the other hand, most do not consider it unfair if a firm fails to raise wages in the face of high inflation.

名目賃金のカットは従業員によって不公平(unfair)だとみなされ、その結果serious morale and staff retention problemsを引き起こすために、雇用者は例外的な状況を除いては名目賃金を引き下げようとはしない。ただし、すべての賃金引き下げが不公平だとみなされるわけではない。名目賃金上昇率がインフレ率以下であるために実質賃金が下落したとしても、(不公平感からくる)従業員のモラルの低下や離職行動を惹起するわけではないのである(←名目賃金をカットしないでもいいから)。公平観念(fair)は名目賃金を下方硬直的にするけれども、実質賃金までをも下方硬直的にするわけではない。ゼロインフレ(+デフレ)の問題は名目賃金・実質賃金を双方ともに下方硬直的にすることにある。

Zero inflation is far from costless, even in the long run. The fortunes of firms continually change, and inflation greases the economy's wheels by allowing these firms to slowly escape from paying real wages that are too high without actually cutting the wages they pay. This adjustment mechanism allows the economy to avoid a large employment cost. At very low rates of inflation and productivity growth, such adjustments are short circuited, and employment suffers.

インフレーションは名目賃金のカットなしに(そして従業員の公平感を損なうことなしに)実質賃金の引き下げを可能とする条件を整え、高過ぎる実質賃金支払いに頭を悩ます企業に実質賃金調整の余地を与える。低すぎるインフレ率は実質賃金引下げの手段を剥奪し、賃金調整機能を麻痺させることで失業率を高める結果となる。ゼロインフレを目標とするディスインフレ政策はその過程で一時的に失業率を高めるにとどまらず、長期的にも(ゼロインフレを維持することは)失業率を高止まりさせる(自然失業率を高める)ことになるわけである。

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慣習の力

間宮陽介著『モラル・サイエンスとしての経済学』より、公平賃金仮説に関連する箇所を少しばかり引用。

少なくとも短期的に見た場合、現実の貨幣価格を安定化させるのは習慣(habit)の力をおいてほかはない、と彼(=H・タウンシェンド)はいう。・・・「正常性」あるいは「適宜性」という慣習的な観念が貨幣賃金水準や貨幣債務の契約価格水準に関して広くいきわたっており、このような観念が価格の変動幅をある枠の中に抑える傾向を生み出す。・・・(貨幣賃金の引き上げ、引き下げに抵抗があるのは)雇用主と被用者の双方に根強くいきわたっている現実の慣習に基づいているのである。貨幣賃金の急激な変化は好ましからざることだと考えられており、それが慣習的な基準からあまりにもかけはなれたものになれば、それは雇用主と被用者のいずれの側からみても何らかの意味で“不公平”なのである。(p81)

公正観念や慣習などの社会的要因が賃金や価格に硬直化の傾向を与えるのである。・・・貨幣の価値を安定化させる契機・・・となるのが公正観念や慣習といった要因であり、これらは貨幣賃金や貨幣価格に反映され、そのことを通じて貨幣は自己の価値を安定に保つ。(p101)

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インフレによる損失

現実には個々の貨幣賃金の下落をもたらすことなしに、たとえば(効率性の観点から望ましいと思われる)相対賃金の変化を容易にするという点で、低率のインフレーションは、少なくとも時には実際に長所をもつことさえも認めうる。しかし、この長所自身も、それが長所であるのは、貨幣価値に対するある種の信頼に依存している。重要なのは低いインフレ率であるということである。インフレーションが目立つ程度になってくると、ここですでに説明したような効果によって長所は圧倒されるに違いない。(『経済学の思考法』(第Ⅳ章 予想されたインフレーション)、p151)

穏やかなインフレ率=相対賃金の調整を容易にするという議論はアカロフ命題<パート1>と軌を一にするものである。穏やかなインフレ率は効率性の観点から見て望ましい。しかしながら、インフレ率(予想されたもの/予想されざるものにかかわらず)が高率になるにつれ、経済的な損失が徐々に顕著なものとなってくる。高率のインフレーション(特にハイパーインフレーションの場合)により、「貨幣は価値の貯蓄手段としての機能を失い、資源をやむを得ずより不便な形で保有することによって、他の方法で「便宜と安全」への必要性を充たさざるをえなくなる」。価値貯蔵手段として新たな資源を探索することは、非生産的な活動に時間を浪費することを意味し、その結果として経済の効率性を低めざるをえないであろう。また、頻繁に価格を改定せざるをえない高率のインフレーションのもとでは、価格が充たすべき二つの基準―経済効率と公正さの基準―のうち後者の基準を満足することが困難であるために「平静さを害する損失」を招くことになる。すなわち、

不完全な市場では、価格は「契約される」・・・。もし慣例が大いに利用しうるのであれば、すなわち、以前受け入れられたことは再び受け入れられるという仮定で出発しうるならば、(それが公正であるがゆえに)関係する当事者にとって満足しうるように価格を決めるのが、はるかに容易である。・・・持続的なインフレーションの下で行わなければならないように価格を新しくつけかえ、絶えず新しくつけかえ続けることは、損失、直接的な経済的損失と(きわめてしばしば)平静さを害する損失とをまねく。(同上、p150~151)

価格が公正である(と認識される)ためには、その価格が慣習的是認を受けている必要がある。しかし、高率のインフレーションの下では価格が頻繁に変更されるために慣習的是認を獲得するだけの十分な時間的余裕が存在しない。高率のインフレーション下では公正な価格体系を確立することは困難な作業であり、公正な価格体系の確立に失敗することは労働者のモラル低下等による経済効率の低下につながる可能性が大きい(これこれも参照のこと)。

インフレ率が高率になることによって生じる経済的損失としてはもう一点考え得る。

「特定の時点において」、企業活動のバランス・シートを吟味するならば、資産のなかに利子を生まない貨幣のみならず、利子が支払われないような債務〔証書〕が存在していることに気がつく。・・・継続的な顧客が負う債務は、それだけ切り離してみられない。それは、顧客と売り手にとって好都合なやり方で維持するのが両者にとって利益が生ずる継続的な関係の一部である。・・・(すでにみたように安定的なインフレーションにおいて生ずるに違いない)高い名目利子率の下では、無利子の債務に含まれる利子の損失を大きくする。そうでなければ債務者にかける必要のなかった圧力をかけ、債務を早く返済させるよう労を惜しまないことが引き合うようになる。このような圧力をかけることは、労働時間で測りうる実質的な損失である。

・・・もしインフレーションが非常に穏やかな率以上ではあるが一定に保たれるとするならば、金融引締めに似たことが例外的ではなく絶えず生じていることを示しているように思われる。(同上、p152~153)

インフレ率が穏やかな範囲にあるときには相対賃金の調整が容易になることから経済効率が高まることになる。しかしながら、インフレ率が上昇するにつれて経済的な損失が頭をもたげだし、経済効率にネガティブな影響を及ぼすようになる。経済効率と(自然)失業率の間に1対1のパラレルな関係(経済効率の悪化=(自然)失業率の上昇)を想定しうるかどうかには慎重であらねばならないが、ヒックスのこの議論は後方屈折型の長期フィリップス・カーブの存在を指摘するアカロフ・中谷命題と補完的なものとして捉え得るのではないだろうか。

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公平賃金仮説をたずねて(補足)

ちょっとばかり余計な補足をば。

(相対)賃金体系が公平であると感じられるためには慣習的な是認を得ている必要がある、とのことですが、これは長期間にわたる物価安定が実現されている(ないしは安定したマクロ経済環境が維持される)状況において公平な賃金体系の確立が可能になる、と言い換えてもよいかと思われます。好況と不況の振幅が大きい不安定な景気変動は循環過敏的(cycle-sensitive)な業種の賃金変動を大きくすることにより、公平であるとみなされていた(相対)賃金体系を覆してしまう危険性を有します。ブームが長引けば、循環過敏的な産業で始まった賃金上昇は(高賃金を求めて非拡張的産業から拡張する産業へと)労働移動を惹起することによって(労働不足に直面するために)非拡張産業にまで波及し、非拡張的産業(特に賃金の上昇が波及していない部門の)の労働者たちは「自分たちは取り残されている」と感じるために賃金引き上げを要求するようになります。上昇してゆく賃金に自分たちの賃金を「追いつかせようとする」圧力は、「よき労資関係」を維持しようと心がける雇用者に賃上げを容認させ、結果として労働不足に加えて不公平のために賃金が上昇してゆく状況が一般的なものとなります。一度公平な賃金体系が覆されてしまうと労働が不足していようがいまいが、不公平感を和らげようとする社会的圧力(「すべてひとが、なにやかやと比較して、自分は取り残されていると感じる」)によって賃金は上昇してしまうのです(ヒックスは1960年代後半~70年代前半当時のスタグフレーション(正確にはスタグフレーションという言葉が生まれる直前の時期)を念頭において議論を展開している。詳しいことは別の機会に言及するかもしれないが、「賃金プッシュ」がインフレを生んだ、という単純な関係を想定しているわけではない。以前取り上げたDeLongの議論と非常に似通った問題意識を有しており、過度の景気刺激策(←ケインズ理論の影響によって政策の優先性の順序が(価格・賃金の安定性から雇用の維持へと)変わってしまったためである)こそが元凶であると考えている)。

公正な賃金体系にも問題は存在します。確立された公平賃金体系は賃金の粘着性を生むからです。雇用者は労働力が不足したからといって賃金を引き上げるようなことはしません。安易に賃金を引き上げてしまえば、長い時間を経て確立された賃金格差を覆してしまうからです(確立されたものが一度破壊されれば、上述したように公平を求める社会的圧力を生み出すことになってしまいます)。また、失業が存在していても雇用者は賃金を引き下げようとはしません。「賃金を切り下げれば、雇用者は引き続き雇用している人びとと疎遠になってしまうから」です。

賃金の「粘着性」は「貨幣錯覚」と関係する問題ではない。それは連続性と関わる問題なのである。もちろんそれは、労働組合の標準賃金(standard rates)によって強化されるだろう。しかし、たとえ労働組合の圧力がなくとも、同一方向への傾向が存在するはずである。(『ケインズ経済学の危機』、p92)

(個別企業の観点からばかりではなく社会全体(他企業・他産業との賃金格差を維持しようとするわけであるから)を見渡した上での)現存の労資関係を円滑にせんとする努力は失業者に対する逆風となります。賃金が粘着的になる(この場合は下方硬直的になる)ことによって(雇用者は「引き続き雇用している人びと」に配慮して賃下げに躊躇するからです)、失業者がヨリ低い賃金で働く意思を有していても職を獲得できるわけでは必ずしもないからです。労資間で共有される公平(fair)の感情は失業者の犠牲の上に成り立っている、とも言いうるわけです。

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公平賃金仮説をたずねて

大部分の労働市場、そしてすべてのかなり重要な労働市場は、規則的である(=長期的、継続的な関係の上に成立している、という意味;引用者注)。さて、規則的雇用においては、単に効率という点からいっても、雇用者と被雇用者との双方が、両者の関係になにがしかの持続性を期待しうることが必要である。・・・雇用関係が満足のいくものでないかぎり、ないし少なくともそこにある程度の満足がないかぎり、そのような信頼関係は存在しえないであろう。したがって、効率のためには、賃金契約がどちらの側からも、だが特に労働者によって、公平(fair)だと感じられることが必要なのである。

公平とはいったい何なのであろうか。・・・必要なことは、第三者、ないし裁定者が一般的諸原則を適用して、公平な賃金を規定するということではない。必要なことは、労働者自身が自分は公平に遇されていると感じていることである。・・・Aは、(自分よりも価値があると自分が思わない)Bが自分よりもより高い賃金を得るのは不公平だ、と言う。しかし、より高い賃金を得ているBもまた、Aの賃金が自分の賃金よりも速く上がれば、それは不公平だと考えるかもしれない。Cは、もし彼の雇用者が大きな利益をあげたのに自分の賃金を上げてくれなければ、それは不公平だと感じる。しかし、もしCの雇用者がCの賃金を上げれば、(自分たちの雇用者がそのような大きな利益をあげてはいない)他の人びとは、それを不公平と考えるであろう。もし物価が上昇しているのに賃金がそれと同一比率で上昇しなければ、それは不公平だと感じられる。しかし、賃金が物価より速く上昇しても、一、二年前と同一の速さで上昇しなければ、これまた不公平と感じられる。・・・提起される公平性に対する諸要求のすべてを満足させるような賃金体系などというものは、まったく達成不可能なのである。いったん疑問がもたれだせば、いかなる賃金体系といえども、公平だなどということには決してならないであろう。・・・過去においてわれわれが、現にそうだったように、ともかくもなんとかやってきたのは、どのようにしてなのであろうか。それは、ただ単に賃金体系というものがこれまであまり疑問視されてこなかったからである。・・・そのような情況が起こるためには、賃金体系が十分に確立されており、その結果それが慣習的是認を得ていることが必要である。そうすれば、それは、期待されているようなものになる。そして(明らかに低水準の公平性ではあるけれども)期待されているようなものは、公平なのである。(『ケインズ経済学の危機』、p89~91)

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公平賃金仮説文献目録 ~その2~

公平賃金仮説というか、アカロフ・中谷命題というか、(ある正のインフレ率の範囲内において)負の勾配をもつ長期フィリップスカーブについてというか、・・・とにかくウェブ上で読める(先の3つの議論に関係する)論文を集めてみました(もちろん全部読ん・・・ではおりませぬ。気長にいこうかと)。全部pdf版です。前半(Holden除く)中盤は実証(各国における長期フィリップスカーブのリサーチ)に、後半は理論に重きを置いた論文となっております。アカロフからはじめてトービンで終わらせてみました。見落としている論文もあるかと思います。情報は随時募集しておりますm()m。

George A. Akerlof, William T. Dickens and George L. Perry(2001),“Options for Stabilization Policy: A New Analysis of Choices Confronting the Fed

Pierre Fortin, George A. Akerlof, William T. Dickens and George L. Perry(2002),“Inflation and Unemployment in the U.S. and Canada: A Common Framework

Steinar Holden(2002),“Downward nominal wage rigidity - contracts or fairness considerations

Steinar Holden(2002),“The costs of price stability - downward nominal wage rigidity in Europe

Steinar Holden(2004),Wage formation under low inflation

Steinar Holden and John C. Driscoll(2002),“Coordination, Fair Treatment and Inflation Persistence

Steinar Holden and John C. Driscoll(2003),“Fairness and Inflation Persistence

Steinar Holden and Tore Ellingsen(2002),“Indebtedness and Unemployment: A Durable Relationship

Steinar Holden and Fredrik Wulfsberg(2005),“Downward nominal wage rigidity in the OECD

Stephen Nickell and Glenda Quintini(2001),“Nominal Wage Rigidity and the Rate of Inflation

Francesco Devicienti(2003),“Downward Nominal Wage Rigidity in Italy: Evidence and Consequences

Ernst Fehr and Lorenz Goette(2003),“Robustness and Real Consequences of Nominal Wage Rigidity

Jonas Agell and Per Lundborg(1999),“Survey evidence on wage rigidity and unemployment: Sweden in the 1990s

Per Lundborg and Hans Sacklen(2001),“Is There a Long Run Unemployment-Inflation Trade-off in Sweden?

Christoph Knoppik and Thomas Beissinger(2001),“How Rigid are Nominal Wages? Evidence and Implications for Germany

Christoph Knoppik and Thomas Beissinger(2005),“Downward Nominal Wage Rigidity in Europe: An Analysis of European Micro Data from the ECHP 1994-2001

Charles Wyplosz(2001),“Do We Know How Low Should Inflation Be?

Günter Coenen(2003),“Downward nominal wage rigidity and the long-run Phillips curve - simultation-based evidence for the euro area

Marika Karanassou, Hector Sala and Dennis J. Snower(2003),“The European Phillips Curve: Does the NAIRU Exist?

Seamus Hogan(1997),“What Does Downward Nominal-Wage Rigidity Imply for Monetary Policy?

Allan Crawford and Seamus Hogan(1999),“Downward wage rigidity

Jean Farès and Thomas Lemieux(2001),“Downward Nominal-Wage Rigidity: A Critical Assessment and Some New Evidence for Canada

Jacqueline Dwyer and Kenneth Leong(2000),“Nominal Wge Rigitity in Australia

黒田祥子/山本勲(2003),“名目賃金の下方硬直性が失業率に与える影響― マクロ・モデルのシミュレーションによる検証 ―(英訳版;The Impact of Downward Nominal Wage Rigidity on the Unemployment Rate: Quantitative Evidence from Japan

Allan Crawford and Alan Harrison(1997),“Testing for Downward Rigidity in Nominal Wage Rates

Marika Karanassou, Hector Sala, and Dennis J. Snower(2003),“A Reappraisal of the Inflation-Unemployment Tradeoff

Kenneth J. McLaughlin(2000),“Asymmetric Wage Changes and Downward Nominal Wage Rigidity

Michael B. Devereux and James Yetman(2001),“Menu Costs and the Long-Run Output-Inflation Trade-off

Wai-Yip Alex Ho and James Yetman(2005),“The Long-Run Output-Inflation Trade-off in the Presence of Menu Costs

Thomas I. Palley(2003),“The Backward-Bending Phillips Curve and the Minimum Unemployment Rate of Inflation: Wage Adjustment with Opportunistic Firms

Peter Howitt(2002),“Looking Inside the Labor Market: A Review Article

The Swedish Labour Market,“Causes of Rigidity in Nominal Wages

James Tobin(1972),“Inflation and Unemployment”(American Economic Review, 62)

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公平賃金仮説文献目録

田中秀臣(1998)「高田保馬とJ. M. ケインズ」(上武大学商学部紀要9巻2号)

田中秀臣(1998)「高田保馬の勢力経済学論争」(同10巻1号)

根岸隆(1994),“Bohm-Bawerk and Shibata on Power or Market”, Discussion Paper Series(青山学院大学国際政治経済学会発行)

根岸隆(1998),“General equilibrium theory and beyond: Yasuma Takata and Kei Shibata” (杉原四郎・田中敏弘編,Economic Thought and Modernization in Japan (Edward Elgar Publishing)に所収(chapter6)/Discussion Paper Series(青山学院大学国際政治経済学会;1996年10月)にも同名の論文所収)

根岸隆(2001),“Shibata on Power or Market: A Supplementary Note”, 青山国際政経論集第53号, pp.211-218

林敏彦著(1989)『需要と供給の世界』(改訂版), 日本評論社

ヒックス著/内田忠寿訳(1965)『賃金の理論』(新版), 東洋経済新報社

ヒックス著/早坂忠訳(1977)『ケインズ経済学の危機』, ダイヤモンド社

ヒックス著/貝塚啓明訳(1985)『経済学の思考法』, 岩波書店

ヒックス著/花輪俊哉・小川英治訳(1993)『貨幣と市場経済』, 東洋経済新報社

George Akerlof & Janet Yellen(1990), “The Fair Wage-Effort Hypothesis and Unemployment”,The Quarterly Journal of Economics, MIT Press, vol. 105(2), pages 255-83

George Akerlof & Janet Yellen(2000),“Near Rational Wage and Price Setting and the Optimal Rates of Inflation and Unemployment(pdf)”, Brookings Papers on Economic Activity, 1

Robert Solow(1990),The Labor Market As a Social Institution, Blackwell Publishers

Frank Hahn and Robert Solow (1997),A Critical Essay on Modern Macroeconomic Theory(Reprint版), MIT Press

Jorgen Weibull(1987),“Persistent Unemployment as Subgame Perfect Equilibrium”, Seminar Paper No.381 of the Institute for International Economic Studies, Stockholm, May

Avner Shaked and John Sutton(1984),“Involuntary Unemployment as a Perfect Equilibrium in a Bargaining Model”, Econometrica(K. Binmore and P. Dasgupta(1987), The Economics of Bargaining所収, Blackwell Publishers)

T.J.Palley(1995),“Labor Market,Unemployment,and Minimum Wage:A New View”, Eastern Economic Journal 21(Thomas Palleyのblog;http://www.thomaspalley.com/

Serge Kolm(1990),“Employment and Fiscal Policies with the realistic view of the social role of wage”(Paul Champsaur編 (1991),Essays in Honor of Edmond Malinvaud;Macroeconomics(vol.2)所収, MIT Press, pp.226-286

Truman F. Bewley(1997),“Why Not Cut Pay? ”, COWLES FOUNDATION DISCUSSION PAPER NO. 1167

Truman F. Bewley(1999),“Work Motivation(pdf)”, Presented at “Labor Markets and Macroeconomics: Microeconomic Perspectives”, a conference held at the Federal Reserve Bank of St. Louis, October 22–23, 1998

Truman F. Bewley(2002),“Fairness, Reciprocity, and Wage Regidity”, COWLES FOUNDATION DISCUSSION PAPER NO. 1383                                 

(Bewleyの上掲3論文はCowles FoundationのHPより(http://cowles.econ.yale.edu/P/au/d_b.htm#Bewley,%20Truman%20F.)。フランク・ナイトについての論文もあり)

Truman F. Bewley(1999),Why Wages Don't Fall During a Recession, Harvard University Press

Jean-Pierre Danthine and André Kurmann(2004),“Fair Wages in a New Keynesian Model of the Business Cycle(pdf)”, Review of Economic Dynamics, vol. 7, pp.107-14

Presented by 韓流好きなリフレ派先生

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2006年4月20日 (木)

クルーグマンの『一般理論』論<吉報>

山形浩生氏(“先生”と呼びたいところだけども)がクルーグマンによる『一般理論』のイントロダクションを全訳してくださいました。関連エントリーに注釈つける(エッセンスの4番目に。ケインズは生粋の金融政策無効論者ではなかったということ(をクルーグマンが認識していたこと))予定でしたが、その必要もなくなりました。どうもありがとうございましたm()m。

YAMAGATA Hiroo Official Japanese Page;        ジョン・メイナード・ケインズ『雇用、利子、お金の一般理論』解説http://cruel.org/krugman/generaltheoryintro.html

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クルーグマンの『一般理論』論(補足)

クルーグマンの『一般理論』イントロ<完全版>を読んで興味を引かれた箇所があったので引用しておきます(クルーグマンがイントロダクション書いてるケインズ『一般理論』の新版はどうやらこちらみたいです。今年の11月発売予定か。かなり先だな~)。

So the crucial innovation in The General Theory isn’t, as a modern macroeconomist tends to think, the idea that nominal wages are sticky. It’s the demolition of Say’s Law and the classical theory of the interest rate in Book IV, “The inducement to invest.”

ケインズ『一般理論』が革命的であったのは、価格(特に名目賃金)の硬直性に基づいて議論を展開したためではなくて、セイ法則ならびに利子率決定に関する資金貸付説を否認したためである。ケインズの標的は、伸縮的な価格調整を基礎に据えた市場経済モデルとしての“古典派”経済学ではなく、物々交換経済のモデル(古典派の二分法、セイ法則、貨幣ヴェール説に基づいたモデル)としての“古典派”経済学であった、ということでしょうかね。

But the classical model wasn’t the only thing Keynes had to escape from. He also had to break free of the business cycle theory of the day.

物々交換経済モデルとしての古典派だけでなく、当時主流であった景気循環論(←好況と不況が何故交互に繰り返されるのか/好況の後に不況が待ち構えているのは何故か(行き過ぎた景気拡張がその後の不況の原因である(不況は経済が正常な姿に戻るために必要な調整過程である)、という議論が強い影響力を有していた)、ということに焦点を合わせ、何故大量の失業が生じるのか/いかにして不況から脱することができるのか、という点についてはそれほど多くの議論が費やされることはなかった。 Like most macroeconomic theorists before Keynes, Haberler believed that the crucial thing was to explain the economy’s dynamics, to explain why booms are followed by busts, rather than to explain how mass unemployment is possible in the first place.)もまたケインズがその知的影響から抜け出さねばならぬ対象(対峙すべき敵)であった。ところが、ケインズは古典派の場合とは対照的に(古典派に対しては積極的な攻撃を加えたにもかかわらず)、景気循環理論の議論には一定の距離を置いて接することになる(無視した、といっても過言ではない)。何故ケインズは当時盛んに論じられていた景気循環論に対して冷淡な態度を示したのか?

Keynes saw it as his job to explain why the economy sometimes operates far below full employment. That is, The General Theory for the most part offers a static model, not a dynamic model – a picture of an economy stuck in depression, not a story about how it got there. So Keynes actually chose to answer a more limited question than most people writing about business cycles at the time.

・・・And Keynes’s limitation of the question was powerfully liberating. Rather than getting bogged down in an attempt to explain the dynamics of the business cycle – a subject that remains contentious to this day – Keynes focused on a question that could be answered. And that was also the question that most needed an answer: given that overall demand is depressed – never mind why - how can we create more employment?

経済の動態的な性格をヨリ深く理解し、現実の経済の働きに関する知識を蓄積する上で、何故景気循環が生じるのか、その理由を突き詰めることの重要性は論じるまでもないことである。しかしながら、経済が(総需要の不足から)深刻な不況に見舞われ、多くの人々が職がなくて困っている状況においては、景気循環が生じる理由(確かにそれ自体として追求すべきであるが)を問うことはひとまず棚上げにして、どうすれば失業を減少させることが可能になるか、経済を不況から救い出すためにはどのような対処をとるべきか、といった現実的な問題関心を念頭におきつつ研究活動に専心すべきである。ケインズが『一般理論』で描写している経済の様相が静態的なものに見えるのは、(景気循環が生じる理由に満足な解答を寄せることと比較すれば)解決することがヨリ容易に見える問題、(1930年代当時の)現実の社会が解決を待ち望んでいた問題―不況、失業―に焦点を定めていたためである。『一般理論』は経済学に知的な革命を起こすことだけを目的とした純粋にアカデミックな業績にとどまるものではなく、それと同程度に現実社会への強い問題意識から生まれた産物でもあるわけである。

ケインズが『一般理論』の中で当時の景気循環論を明示的に取り扱わなかったことは気付かぬうちに思わぬ副産物を生み出してもいた。

A side benefit of this simplification was that it freed Keynes and the rest of us from the seductive but surely false notion of the business cycle as morality play, of an economic slump as a necessary purgative after the excesses of a boom. By analyzing how the economy stays depressed, rather than trying to explain how it became depressed in the first place, Keynes helped bury the notion that there’s something redemptive about economic suffering.

(当時強い影響力を持った景気循環論の一つから導かれる)行き過ぎた景気拡張がその後の不況の原因となるという議論は、不況は欠くべからざる、また避けることのできない調整過程であるとの見解を生み、やがては景気循環を道徳劇に読み替える清算主義的な観念の基礎を与えることにつながる(→国民の不況に対する寛容な態度の一因となる可能性も)。ケインズが「どのようにして不況が到来したのか」というかたちではなくして、「何故不況が持続するのか」というかたちで疑問を提出し、そのことに分析を集中したことは当時の景気循環論に付随する上記の厄介な議論からの影響を遮断することを可能にしたのである(クルーグマンはかつて“厄介な議論”をHangover Theoryと命名してハイエク、ロビンズ流の景気循環論を批判したことがある。清算主義的な見解が1930年代の大不況の深化を手助けしたことも論じられている。ということは、ケインズの影響(ケインズの無視が有した影響)は限定的だったということか、あるいは清算主義の生命力が強靭である証左であるのか)。

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クルーグマンの『一般理論』論

Brad DeLong's Semi-Daily Journal
Krugman's Intro to Keynes's General Theory 
http://delong.typepad.com/sdj/2006/03/krugmans_intro_.html

クルーグマンが考えるケインズ『一般理論』のエッセンス。

1.Economies can and often do suffer from an overall lack of demand, which leads to involuntary unemployment(総需要(有効需要)の不足によって、経済は非自発的失業を伴う不況=塗炭の苦しみ、に投げ込まれてしまう)

2.The economy’s automatic tendency to correct shortfalls in demand, if it exists at all, operates slowly and painfully(市場経済システムには総需要の不足を自動的に解消する能力(機能)が備わっていると仮定したとして、おそらくその調整過程は緩慢なものであり、多くの痛みを伴うものとなるであろう)

3.Government policies to increase demand, by contrast, can reduce unemployment quickly(総需要の増加を目的とする政府の(財政・金融)政策は(市場の自律的な調整機能に委ねることと比較して)非自発的失業者の救済をヨリ速やか・確実に実現し得る)

4.Sometimes increasing the money supply won’t be enough to persuade the private sector to spend more, and government spending must step into the breach(金融緩和政策は時に総需要不足を解消する(=民間部門にヨリ多く支出させる)ための手段としては十分ではなく、不況の難局を乗り切り、不況の危機から脱する手段としては政府支出(=財政政策)を利用すべきだ)

3番目の議論はケインズの楽観を(現下の景気停滞、そして繰り返される景気循環が招く経済の不安定性を解決するためには、経済システムを根本的に(資本主義(あるいは市場経済)から社会主義(あるいは計画経済)へと)変革するようなラディカルな手法に打って出る必要はなく、もっと手軽で技術的な対処法(=政府による総需要管理政策)で十分である;大量失業の現実を前にして、当時知識人層(あるいは分別ある人々)の間では資本主義経済システムへの失望の念(裏面での生産手段の国有化への期待)が強まっていた A reasonable man might well have concluded that capitalism had failed, and that only... the nationalization of the means of production - could restore economic sanity)、そして4番目の議論はケインズの悲観(金融政策が無効である理由=民間実物投資が利子率に対して非弾力的=有望な(収益性のある)投資プロジェクトが欠如している(あるいは今後ますます有望なプロジェクト機会が失われていく)ため=長期停滞論と呼ばれるもの(=ハンセン流のセキュラー・スタグネーション説。似たような議論としてこちらなどを参照していただければ))を反映していると見なすことができるでしょうか(クルーグマンは2つの理由(資本蓄積が進展する結果としての(一方的な)収穫逓減を否定、プラスの期待インフレ率の存在)を挙げて4番目の議論に否定的な意見を述べている=つまりは金融政策は景気安定化政策として有効であるとの考え;ケインズが収益逓減を当然視していたかどうかは疑問。『一般理論』で収穫逓減を前提しているのはカーンの進言によるもので、ケインズ自身の念頭には収穫不変の前提があった・・・んじゃなかったかしら?)。

クルーグマンの『一般理論』解説のヨリ詳しい内容に関しましてはbewaadさんの流暢な邦訳をご覧下さいませ(いや~、助かりますm()m )。上掲の訳はいい加減(=意訳・・・でもないか)ですんで。

Tyler Cowenによる注釈(不況対策としての財政出動は『一般理論』が出版された1936年以前にヴァイナー等によって積極的に提唱されていたetc)もどうぞ。

Marginal Revolutionhttp://www.marginalrevolution.com/marginalrevolution/2006/03/krugmans_introd.html

(追記)Economist's View;                 Paul Krugman's Introduction to Keynes' General Theory

クルーグマンの『一般理論』解説<完全版>が紹介されております(The Unofficial Paul Krugman Web Pageにもアップされてますが、文字化けしてる・・・)。これ、『一般理論』新版の正真正銘のイントロだったんですね。

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最後のIS-LM論

IS-LM分析の生みの親として名高い(悪名高い?)ヒックス。彼がIS-LMを主題として論じたのは生涯で4回(私が知っている範囲内では)と意外と少ない。“Mr. Keynes and the Classics”/“The Classics again”(この二つの論文はともに『貨幣理論』(Critical Essays in Monetary Theory)に所収)、『景気循環論』第11・12章、そして“IS-LM -an Explanation(Journal of Post Keynesian Economics (Winter 1980-1))”。今回取り上げるのはヒックスによる最後のIS-LM論、“IS-LM -an Explanation”です。

The IS-LM diagram, which is widely, though not universally, accepted as a convenient synopsis of Keynesian theory, is a thing for which I cannot deny that I have some responsibility.・・・I have, however, not concealed that, as time has gone on, I have myself become dissatisfied with it.‘That diagram’, I said in 1975, ‘is now much less popular with me than I think it still is with many other people’.・・・But I have not explained the reasons for this change of opinion, of or attitude. Here I shall try to do so.(p318;論文集でのページ表記)         

IS-LMはケインズ『一般理論』の本質を簡潔に要約したものとして広く受け入れられた(or現在でも受け入れられている)けれども、時が経つにつれますます私(Hicks)はIS-LMに不満足な感情を抱くようになってきた。他の人間にとっちゃ今でもIS-LMは(マクロ)経済問題を語る際には欠かせない貴重な道具立ての一つなんだろうけど・・・。これまでも機会を見つけてはあれこれIS-LMに対して文句をつけてきたけれども、今日はなぜ私がIS-LMに愛想を尽かすに至ったのかその理由を詳らかにしたいとこう考えるわけです。前置きはこれくらいにして早速始めましょうか。

『価値と資本』とケインズ『一般理論』(とそれを解釈したIS-LM)の違いはどこにあるか。IS-LM批判という文脈からは一見無関係に思われるこの問題設定のもとでヒックスはIS-LMの再解釈(再構築)(IS-LMとワルラスモデルの違いを乗り越えようとする試み、とした方が適用か)に乗り出す。二者の経済モデルの間には二つの明らかな違いが存在する。まず一つ目は、前者は価格が伸縮的(flexprice model)であり(『価値と資本』は完全競争の仮定を採用しており、そのため完全雇用が実現される)、後者は価格が固定的(fixprice model)である(名目賃金が外生的に決定されており、非自発的失業が存在する)という点である(ヒックスにとっては昔(1936年当時)も今もこの違いはそれほど重大なものではないとのこと。“I may as well note・・・that I do not think it matters much. I did not think, even in 1936, that it mattered much.”)。二つ目の違い(fundamental difference)は、前者が超短期(ultara-short-period;「週」)のモデルであり、後者が短期(short-period)のモデルであるという点、つまりはモデルが扱う時間の長さ(length of the period)の相違に求めることができる(こちらの違いについてはまた別の機会に論じます)。

二者のモデルの違いをヨリ具体的に考察するために、A、B、C、X(ニュメレール)の4つの財が存在する経済を考えることにしよう(『価値と資本』第4・5章のモデル-交換経済の一般均衡モデル-の論理に則って考える)。

価格p(A)、p(B)、p(C)はニュメレールp(X)=1として評価づけられたものであり、財ABCの需要供給関数はこの3つの価格の関数である(例えばS(A)=S(p(A)、p(B)、p(C));予算制約下における効用最大化が背後に存在)。価格は3財の市場が均衡する水準(S(A)=D(A)、S(B)=D(B)、S(C)=D(C))に決定される(p(A)はS(A)=D(A)となる水準に調整される。以下同じ)。非ニュメレール財(ABC)の売りまたは買いはニュメレール財(X)の買いまたは売りを伴うので、

Xの需要-Xの供給=他の諸財の販売からの収入-他の諸財の購入への支出=〔p(A)S(A)+p(B)S(B)+p(C)S(C)〕-〔p(A)D(A)+p(B)D(B)+p(C)D(C)〕

となる(詳しくは『価値と資本Ⅰ』p83~86(私の手元にあるのは岩波現代叢書のバージョンです)を参照)。価格調整の結果として非ニュメレール財市場は需給が均衡しているのでXの超過需要は常にゼロとなる。よって、独立な方程式(非ニュメレール財の需給均等式)と未知数(非ニュメレール財の価格)の数は一致(3つ)しており解は確定する。

ここまでの説明は価格が伸縮的であるワルラス的な経済世界(flexprice model)を前提したものである。価格が固定的であると仮定した時、一体ワルラスモデルはどのような変化を被ることになるだろうか。

p(A)が固定的である時(p(A)=p*(A))、もはやD(A)=S(A)が満たされる必然性はない。A財の価格がp*(A)で固定されている時、D(A)>S(A)あるいはD(A)<S(A)となり実際に取引される量はヨリ小さい数量である。p*(A)水準でD’(A)<S(A)となる、つまりは超過供給が存在する時には実際の取引量は需要量D’(A)となる。Xの超過需要方程式においてS(A)、D(A)に実際に取引された量D’(A)を代入すると(S(A)=D(A)=D’(A))、p*(A){S(A)-D(A)}=0となる。よって、この経済体系において伸縮的な価格p(B)、p(C)は以下の3つの方程式の解として求めることができる。

S(B)=D(B)

S(C)=D(C)

p(B){S(B)-D(B)}+p(C){S(C)-D(C)}=0

独立な方程式は二つ、未知数も二つ(p(B)、p(C)はそれぞれの財市場の需給を均衡させるように調節される)。よって解の存在が保証される。めでたしめでたし。・・・とするにはまだ不十分である。未知数がもう一つ存在するからである。未知数=D’(A)である。

We have so far been making demands and supplies depend only on prices,・・・But as soon as a fixprice market is introduced, it ceases to be acceptable. It must be supposed that the demands and supplies for B and C will be affected by what happens in the market for A.That can no longer be represented by the price, so it must be represented by the quantity sold.・・・So demands and supplies for B and C will be function of p(B), p(C) and D’(A).(p322)

各財市場の需給状況は他市場の変数の変化から影響を受ける。p(B)の価格上昇はB財市場だけでなくA財市場にもC財市場にも影響を及ぼす。それゆえ、伸縮価格経済であるワルラスモデルにおいてS(A)=S(p(A)、p(B)、p(C))となるのである。ワルラスが経済学史上にその名を残すことになったのは、経済が全体として相互依存の関係にあることを発見し、それを定式化した功績からであることは改めていうまでもないだろう。価格が固定的な財が考慮に入れられるや変数はp(B)、p(C)、D’(A)となり、各財の需給関数は例えばS(B or C)=S(p(B)、p(C)、D’(A))というように、価格のみならず数量の関数ともなる(D’(A)はp(B)、p(C)の関数)。
本経済体系は、

D’(A)=D(p(B)、p(C))

S(B)=D(B)

S(C)=D(C)

p(B){S(B)-D(B)}+p(C){S(C)-D(C)}=0

の4つの方程式(独立な方程式は3つ)によって定式化されることになる。未知数はp(B)、p(C)、D’(A)の3つなので解は確定する。

欲張ってもう一つ固定価格の財を導入すると(p(B)=p*(B))、未知数はD’(A)、D’(B)、p(C)の3つとなる(p(C)はC財市場の需給を均衡させる水準に決定される;AB両財市場で超過供給が存在する時)。任意のp(C)水準において(擬制的に固定させると)、D’(A)はD’(B)の、D’(B)はD’(A)の関数となり、縦軸にD’(A)を、横軸にD’(B)をとった二次元の図上に傾きの異なる右上がりの二つの曲線D’(A)=D’(D’(B))とD’(B)=D’(D’(A))が描かれることになる(『価値と資本』p97やp101の図の縦軸と横軸の表記をともに価格から数量に変える)。二曲線の接するところで経済は全体として均衡に至る。

二つの固定価格市場と一つの伸縮価格市場(ニュメレール財としてもう一つ)。このモデルは実はケインズのモデル(IS-LM+労働市場)を定式化したものと読み替えることが可能である。IS-LMは最終財市場、債券市場、貨幣市場の3つの財市場から構成されており、これに労働市場を加えると全部で財市場は4つになる。最終財をA財市場、労働市場をB財市場、債券市場をC財市場、貨幣市場をX財市場と考えれば、・・・面白い展開である。最終財需要(有効需要)は労働需要量に依存し、労働需要量は最終財需要に依存することになる・・・。

さて。問題はなぜ最終財(A財)の価格と名目賃金(B財の価格)が固定的となるか、である。一応ヒックスはその答えを持っている(最終財価格が固定的になる理由についてはこちらに簡単な説明が。また、伸縮的過ぎる賃金変化は社会の公正観念に合致しないため容認されない(『ケインズ経済学の危機』第3章などを参照))。固定価格市場と伸縮価格市場(債券市場はヒックスの言葉では「組織化された伸縮価格市場」である)をともに含みこんだこの再定式化されたIS-LM(+労働市場)は、単にIS-LMをワルラスの一般均衡モデルによって基礎付けたというにとどまらず、ヒックスの市場構造認識(固定価格/伸縮価格)を十全に汲み取ったモデルであるとも言いうるわけである。

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IS-LMの使用法

前回続き。IS-LMへの批判について。

根井雅弘著『「ケインズ革命」の群像』ではIS-LMに対する2つの批判(IS-LMがケインズの重要な側面を捨象している点を問題視するもの)が取り上げられている。第一はパシネッティによるもので、IS-LMでは変数間の関係が相互依存的なものとして捉えられており、変数間の因果関係の吟味といった(ケインズが本来有していたはずの)視角が忘却されてしまっているという批判である。IS-LMでは所得(Y)と利子率(i)がIS曲線とLM曲線が接する点で同時決定される。変数間の依存関係は視野に入っているけれども因果関係ははっきりしない。本来ケインズは流動性選好が原因となって所得や雇用量が規定されるという明確な因果の連鎖(「原因から結果へと因果順序がはっきりしている型」としてのケインズ体系)を想定していたはずである。つまりは、流動性選好によって利子率が決定される→資本の限界効率と利子率比較により設備投資量が決定される→総需要量/雇用量の決定、というように。

「ケインズは、限界主義的経済理論家に広くみられる、『すべてのものは他のすべてのものに依存している』とする姿勢に反対し、どの変数同士が、連立方程式体系で表わすのが最も適切であると判断されるほど互いに十分緊密に相互依存しているか、そして、互いに相互依存関係にある二つの変数の間でも、どちらの方向の因果関係が圧倒的に強いか(そしてどちらの方向の因果関係がずっと弱いか)ということの識別に基づいて、どの一方方向の因果関係だけを定式化することが最も適切であるかということを確定することが、経済理論家としての自分の任務である、と考えるのである」(パシネッティ『経済成長と所得分配』、p50)(根井、p140からの孫引き)

第二の批判はシャックルによるものである。「失業の理論は、現実の人間の状況につきまとう不確実な期待や冒険的な意思決定(シャックルは、これを‘enterprise’と呼ぶ)を取り扱わなければならないという意味で、必然的に無秩序の理論となる」のであり、「『一般理論』の核心は、それが「無秩序の経済学」(Economics of Disorder)を理論化したもの」であるはずにもかかわらず、IS-LMでは「‘enterprise’が占めるべき正当な場所が全くない」(根井、p136)。「‘enterprise’とはリスクであり、リスクとは無知なのに対して、均衡とは無知の事実上の追放」を意味するわけで、均衡という枠組みに基礎付けられたIS-LMは「無知の事実上の追放」の上に成り立っていることになる。簡単に言えば将来の不確実性(とそれ故の期待の不確定性)を無視したIS-LMの罪を咎めているわけです。

第二の批判に関して(シャックルに直接返答するというかたちをとっているわけではないが)ヒックスは面白いことを語っている。

The relation which is expressed in the IS curve is a flow relation, which・・・must refer to a period, such as the year・・・. But the relation expressed in the LM curve is, or should be, a stock relation, a balance-sheet relation. It must therefore refer to a point of time, not to a period. How are the two to be fitted together? (“IS-LM-an Explanation”、p328)   

IS関係は貯蓄-投資の均等化というフロー均衡(関係)を記述しており、LM関係は貨幣(債券)需給の均等化というストック均衡(関係)を記述している。フロー(期間)とストック(時点)という異なる時間の次元に属しているものを同時に取り扱うためにはどうしたらよいだろうか? 一つの解決策はLM関係をIS関係に適合させる、つまりは期間にわたる(あるいは期間を通じた)ストック均衡(ある一時点においてストック均衡が実現されているというにとどまらずフロー均衡(I=S)が実現されている期間の間においても同時にストック均衡が実現されている(ストック均衡が維持されている maintenance of stock equilibrium))という概念を持ち込むことである。

わたくしは前に、時間をつうじての均衡はストック均衡の持続を必要とすると述べた。これはたんに期首と期末においてストック均衡があるばかりでなく、またその期の進行中も引きつづきストック均衡があるという意味に解釈してよいであろう。たとえばわれわれが「長」期を「短」期の系列と考えるとき、この「長」期は、それに含まれるそれぞれの「短」期が時間をつうじての均衡にある場合のみ、同時に時間をつうじての均衡にあるのである。予想は相互に抵触しないものと考えられているから、ある「短」期とつぎのそれとのつなぎ目で予想の改訂が行われることはない。体系はこれらのつなぎ目のどれにおいてもストック均衡にあり、またこれらの相抵触しない予想に関してもストック均衡にある。これは予想―その「長」期のなかで生じてくる需要に関する―が正しい場合のみ可能である。時間をつうじての均衡は、このようにその期間内の予想の、現実との一致を必要条件としており、任意であってよいのは一そう遠い将来に関する予想だけである。(『資本と成長Ⅰ』、p166~167)

時間(期間)を通じてのストック均衡が維持されるのは予想(期待)と現実の食い違い(期待の錯誤)がない場合のみである。同じ時間軸上でISとLMがそれぞれ均衡にあると想定するためには、期待が確実に実現するという非現実的な仮定を必要とする。そもそもLiquidity(流動性;LMの“L”)の存在理由は将来の不確実性にあるのではないか。将来に関する期待が不確実であり物事が期待通りにすすまない(期待が現実に裏切られる)からこそ流動性が保有されるのではなかったか。IS-LMを厳密な形で定式化する(時間の次元を揃える)こと(時間を通じてのストック均衡の維持を想定すること)は将来の不確実性を無視することと同値なのである。

ヒックスのこの議論はシャックルの批判に対する完全な敗北を認めることになるのだろうか。将来の不確実性を取り扱えない(取り扱おうとしない)IS-LMには何らの価値も存在しないということになるのだろうか。答えは使用法に依存してYesともNoともなりうる。将来を予測するためではなく過去を説明するためであればIS-LMは依然として有用である。使い方さえ間違えなければ(将来予測のために利用するという欲さえ持たなければ)、IS-LMは今後も十分価値あるモデルとして生き続けていくことができる。

When one turns to questions of policy, looking towards the future instead of the past, the use of equilibrium methods is still more suspect. For one cannot prescribe policy without considering at least the possibility that policy may be changed. There can be no change of policy if everything is to go on as expected-if the economy is to remain in what (however approximately) may be regarded as its existing equilibrium. It may be hoped that, after the change in policy, the economy will somehow, at some time in the future, settle into what may be regarded, in the same sense, as a new equilibrium; but there must necessarily be a stage before that equilibrium is reached.(“IS-LM~”、p331)

政策変更がどういった影響を及ぼすのかということを考察することは将来の経済状況を予測することである。政策の変更は将来の経済環境に対する経済主体の認識を変化させ、期待の有り様を変容させる(結果として政策実施前後で行動も変化する)。新たな期待形成の元で新しい均衡がやがては実現するけれども、政策変更前の古い均衡からその新しい均衡に到達するまでには調整過程を要する。ある長さを持った期間(period)において均衡が実現されると考えるIS-LMではその調整過程を説明できない。時間を通じたストック均衡(LM均衡)が維持されるためにはある期間(period)において期待の改訂が行われないと想定する必要があり、IS-LMを用いて政策変更の将来効果を説明することは政策変更が経済主体の期待形成に何らの影響を及ぼさないと見なすことを意味することになる。モデル形成(現実の抽象化)の過程で現実のある側面を捨象することは致し方ない面があるけれども、政策変更による期待の変容あるいは将来の不確実性に基づく期待形成の改訂の可能性を無視することが妥当な抽象化といえるかどうか。将来の不確実性(政策変更も含めて)に直面している現実経済において各経済主体は将来に対する期待を形成し、それに基づいて意思決定を行っているわけであり、現実経済の今後の展開を予測する上で期待に基づく意思決定(加えて期待形成の変更の可能性)を無視すること(未知の将来をモデル内に組み込まないこと)は致命的な欠陥と言えるのではないだろうか。

期待の改訂が行われるのは将来が未知であり、(事前に)何が起こるか完全には予測できないからである。これから起こることを予測するためには将来環境(に関する認識)の変化による期待の改訂の可能性を無視することはできないないが、すでに起こってしまったことを説明するためには期待改訂の可能性を考慮する必要はない。予測すべき将来が過去のものとなっておりすでに意思決定は済んでいるからである。既に起こってしまったことに関して期待の改訂が行われるはずはない。

We have, then, facts before us; we know or can find out what・・・did actually happen in some past year. In order to explain what happened, we must confront these facts with what we think would have happened if something (some alleged cause) had been different. About that, since it did not happen, we can have no factual information; we can only deduce it with the aid of a thory, or model. And since the theory is to tell us what would have happened, the variables in the model must be determined. And that would seem to mean that the model, in some sense, must be in equilibrium.(同上、p327)

IS-LMの交点(均衡所得/利子率)は過去(のある年)に実際に起こったことを示している。IS曲線の中でLM曲線と交差する点のみが実際に起こったことであり、LM曲線との交点以外のIS曲線上の点は利子率が現実とは違う水準にあったならばどうなっていただろうかということを理論的に推測したものである。現実には起こっていないのであるから、均衡利子率水準以外のIS曲線上の点が(それぞれの利子率水準における)フロー均衡を正確に描写しているかどうかは知り得ないけれども、あたかも均衡にあったかのように取り扱うとしても過去を説明するという目的からすれば許される単純化であろう(It is sufficient to treat the economy, as it actually was in the year question, as if it were in equilibrium.・・・it is permissible to regard the departures from equilibrium, which we admit to have existed, as being random.)。

過去を説明するため、過去において実際とは違う状況であったらどうなっていただろうかという思考実験のため、にその使用を限定するならばIS-LMもまだまだ捨てたものではないということです。将来の不確実性を取り扱っていないという批判はIS-LMに対する過剰な期待の裏返しともいえるもので、IS-LMは過去(加えて可能性としての過去)を描写するものと禁欲的に考えればよいのではないでしょうか。

We are to confine attention to the problem of explaining the past, a less exacting application than prediction of what will happen or prescription of what should happen, but surely one that comes first. If we are unable to explain the past, what right have to attempt to predict the future? I find that concentration on explanation of the past is quite illuminating.(同上、p327)

過去を説明することしかできないからといって落胆する必要はない。過去を説明することができずにどうして将来を予測することなどできようものか(将来を予測しようなどと大それたことを言えるものか)。経済のメカニズムについての知識を蓄積し、もって将来予測の手助けとするためにも過去を説明する手段(モデル)の存在は大変貴重なものなのである。

『資本と成長』のリンク先を探してたら見つけた(『資本と成長』はAmazonでもbk1でも紀伊國屋でも「現在取り扱いしておりません」だと)。相変わらず勉強になるな~。 http://www.ichigobbs.net/cgi/15bbs/economy/0040/1-70

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諸々の「ケインズ革命」

根井雅弘著『「ケインズ革命」の群像』を読む。

1936年以前に経済学者として生をうけていたことは幸いであった―然り。しかもあまりにも以前に生まれていなかったことが!

暁に生きてあるは幸いなり

されどその身若くありしは至福なるべし

『一般理論』は、南海島民の孤立した種族を最初に襲ってこれをほとんど全滅させた疫病のごとき思いがけない猛威をもって、年齢35歳以下のたいていの経済学者をとらえた。50歳以上の経済学者は、結局、その病気にまったく免疫であった。時がたつにつれ、その中間にある経済学者の大部分も、しばしばそうとは知らずして、あるいはそうとは認めようとはせずに、その熱に感染しはじめた。(p12)

サミュエルソンがケインズ『一般理論』に接した若かりし日の衝撃を熱っぽく語った有名な言葉(とある評論家氏によれば、時代が停止したような紋切り型の表現であり、あまりに陳腐な修辞であるそうだ(「南海島民の~経済学者をとらえた」の件を指して)。宇沢弘文教授の言葉と勘違いなさっているようで、いらぬ批判をうけた宇沢教授はこの怒りの矛先を一体どこに向けたらよいのでしょうか。宇沢『経済学の考え方』と同時に取り上げられている間宮陽介『ケインズとハイエク』は「新書にしては一見とっつきが悪いが、文章の密度にムラがなく、著者の意気込みも十分に読み取れる」(p85)と好評価。宇沢本は間宮本と対照的とのこと)。

「正統派(古典派)経済学」への徹底的・根源的な批判を意図したケインズ『一般理論』は若き経済学徒から(サミュエルソンに限らず)熱狂的な支持をもって迎えられた。大恐慌という現実の苦境を目の前にして何らの解決策を提示しえない正統派に対する鬱憤を募らせていた経済学者の卵たちにとって、不況の発生メカニズムの説明とそれへの処方箋を用意しているかに見えたケインズ『一般理論』は一つの福音のように感じられたからである。

十人十色と言いますが(10人の経済学者が一堂に会して経済問題について議論すると11個の処方箋が提示されるようですので十人十一色がヨリ正確でしょうか。経済学にまつわる迷言についてはhttp://www.econ.kobe-u.ac.jp/~koba/econ/ejoke.htmも参照のこと)、ケインズ解釈も人によりけり多種多様です。時代や場所が異なれば一層そうなります。各国ないしは各地域におけるケインズ解釈の具体的な有り様(加えて簡潔に定式化(体系化)されたケインズ像への反発やケインズその人に対する反論も含む)を辿っていく。これが本書の主旨となります。主な舞台はアメリカ(ハーバード)とイギリス(LSE(ロンドン)、ケンブリッジ)。

サミュエルソンが乗数分析(貯蓄・投資による所得決定理論)や新古典派総合をケインズの真髄として強調すれば、J.ロビンソンが雇用の質を(「経済学の第二の危機」)、ガルブレイスが需要の質(「依存効果」、「社会的バランス」の欠如等)を問題にする(スウィージーとシュンペーターもでてきます。「理論と実践は区別すべきとの信念を持つ」シュンペーターと「時論を書き続けることによって理論を研磨した(理論と実践が手を携えている)」ケインズとの相容れない性格(体質)等)(アメリカ)。徹底した新古典派経済学の教育を受けたカルドアのケインズ派への転向(分配の限界生産力説からケインズ乗数理論を基礎とする分配理論へ)があれば(ロビンズの後年における自己批判も)、ハイエクは集計量で経済分析を行う道を切り開いたケインズを批判する(LSE)。ケインズとピグーの対立(公共投資の割り当てに関する考えの相違・不確実性の見方の違い等)、『貨幣論』を執筆するにあたって大きな影響を受けたロバートソンからの離別(利子論を巡る対立(貸付資金説(フロー)VS流動性選好説(ストック)))、そしてヒックスによるIS-LM図とパシネッティ・シャックルによる批判(ヒックスはLSEに含めるべきか)・・・(ケンブリッジ)。『一般理論』の同時発見者としてのカレツキー(ヒックスの伸縮価格/固定価格市場という市場類型認識はカレツキーの「需要によって決定される価格」/「費用によって決定される価格」の区別に触発されたものとのこと)、ケインズの弟子としてのJ.ロビンソン・カーン・ハロッドについても触れられております。

興味深い記述を一つ二つ引用。

新古典派総合は、完全雇用の達成を目標としただけではない。それは、さらに、完全雇用を達成した後でも、緩和的金融政策によって投資を拡大するとともに、緊縮的財政政策によってインフレーションを抑制しながら経済成長率を高めていくことをねらっていた。・・・(以下はサミュエルソンの言葉;引用者)「新古典派総合の結果の一つは、現代社会は、拡張的貨幣政策をとりながら、他方ではディマンド・プル・インフレーションをさまたげるために十分厳格な財政政策を採用することによって、資本の深化を導きだし、これにより完全雇用点における成長率を高めうるという楽観的な見解である。要するに、これらの施策を結合させれば、完全雇用所得のなかの消費部分を引き下げながら、しかも完全雇用自体をおびやかさないことも可能であろう」(p28)

・・・留意しなければならないのは、ケインズによる客観的経済法則の発見という場合、それが経済全体のスケールで集計された経済数量・・・の間の因果関係の発見だということである。・・・ミクロの経済主体の行動が多様であるとしても、そうした個々の経済主体の行動の合成量は単一の客観的な数量である。それは個々の経済主体の意思の産物であるが、そうした個々の意思から独立した数量である。ケインズの発見した客観的経済法則とは、こうした集計量の間の法則なのである。(p80)

ヒックスIS-LMに対するシャックルの批判(不確実性の無視)について(そしてこの批判を念頭においての「IS-LMは過去の説明のためにのみ限定して使うべきだ」というヒックス発言)は後ほど書く予定。

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既得観念としてのIS-LM

引き続きLaidlerの論文より。

Many economists and some philosophers of science share what could legitimately be called Panglossian view of the losses that accompany the move towards more formal models.Kitcher(1993), for example, has argued, in the context of natural science, that although science may drop ideas that cannot be expressed with the required degree of rigor, if the problems are important, scientists will eventually return to them. When they do so, the problems will be analyzed in greater depth than would previously have been possible, and the result is progress.

This view of progress is similar to the one articulated by Krugman(1995) in the context of theories of location and economic development. He argues that economists ignored theories of location other than that of Thünen, because they all relied on forms of increasing returns that they were not able to model formally. Krugman also suggests that they turned their back on the‘high’development theories developed by Rosenstein-Rodan, Hirschman,et al during the 1950s for very similar reasons. In both cases economists chose to confine their work to what could be modeled formally, even though this meant ignoring what were believed to be important aspects of reality, but once they found the techniques that enabled them to deal with increasing returns, some of the insights that they had set aside in order to indulge in formal modeling were regained.

モデル化の過程において現実のある側面が捨象されてしまう(現実が理論に沿うように切り取られてしまう)のは仕方がない面もある。現時点において数学的な取り扱いが困難な事象を前にしてモデル化の試みを放棄することは知的敗北を意味するだけであり、現実世界の単純化が今できる最善の努力を傾注した結果である限りにおいてそのことを批判される筋合いは一切ない。しかしながら、モデルを組み立てる仮定において無視した事実が存在するということ、それゆえ現在手持ちのモデルは現実世界を描写する上であくまで暫定的なもの、不完全なものに過ぎないということを常に留意しておく必要がある。今日捨象せざるを得なかった事象が後年の科学(知識)の発達の結果としてやがては取り扱い可能なものとなる(あるいはヨリ洗練された形で取り扱い可能となる)可能性もなくはなく、捨象した現実(あるいは過去の先達の言説の中に現在のモデルには取り込まれていない重要な視点が存在するということ)に立ち戻りそのことを深く記憶の中に留めておくことは、将来におけるヨリ現実的なモデル構築の糧となり得るからである。経済学説史・経済思想史の役割は、過去の経済学者の研究の成果をあますところなく記憶し相続することで、未来の経済学者が現実社会のヨリ深い理解に到達する(モデルビルドの)手助けをするところにあるといえるのかもしれない。

IS-LMはケインズによる歪んだ“古典派”解釈(「古典派」としての“古典派”)の影響により、“古典派”の動態的な側面(「時間」にまつわる思索)を見逃してしまった。静態的・均衡論的なIS-LMの世界観にそぐわない“古典派”経済学者の成果は後年の経済学者達から無視されてしまった。“古典派”経済学者の「古典派」以外の側面が想起(再発見)されるまでには、モデルビルドの技術が充分に発達するまでの非常に長い時間(1970年代頃から活発に)を要する必要があった(IS‐LMモデルが現実の貴重な側面を捨象していることに気付かなかった罰である)。

dominance of IS-LM led to the temporary loss of what had once been commonplace insights about the monetary nature of inflation and about the intrinsically dynamic nature of inflation that stems from the role that expectations play in determining its course.

we have seen that, as modeling strategies developed and the range of techniques available to economists increased, dynamic problems were rediscovered and in due course understood better than would ever have been possible using the methods available to economists such as Hawtrey, Myrdal, Robertson,etc.・・・When at last the importance of time was rediscovered in the 1970s・・・

“古典派”による現実経済の“時間”を巡る考察の成果を無視することによって経済学の発展を遅らせたこと(質問の問い方、議論の仕方に影響を及ぼすことによって“古典派”解釈に偏ったバイアスをかけてしまったことも問題点として挙げられている)がIS‐LMの責任を問われるべき点である。ならまだ罪は軽い。IS‐LMで考えることが当然のことになった結果として(IS-LMが一種の既得観念となった結果として)現実世界に及ばした影響-特に政策立案者への影響-に比べれば。

Because policy problems require attention as and when they arise, it is not always possible to wait for theory to be fully developed before applying it,・・・Even though macroeconomics had largely regained its understanding of money and inflation by the mid-1970s, so that these were not permanent losses of scientific knowledge, that still leaves two decades during which policy-makers used the‘naïve’IS-LM model to guide them, possibly into making some of the mistakes that created the inflation of the 1970s and 1980s.・・・it is arguable that policy makers with intuitions informed by some serious study of Fisher and Hawtrey(or even Ricardo and Thornton), in addition to IS-LM, would have had a better chance of avoiding at least its worst aspects.

FisherやHawtrey、Ricardo、Thorntonの業績を知悉しておれば、1970~80年代のインフレーションは避けることできた。政策立案者の目がIS-LMによって曇らされていたがために・・・。

現在の日本経済もIS-LMが既得観念として健在である結果として大きな犠牲を蒙っているという。

Consider, for example the monetary problems faced by the Japanese economy in the last decade. it is taken for granted by many commentators that Japan has encountered a “liquidity trap”. This is hardly surprising, because within IS-LM, the interest rate is the only channel through which monetary policy can work, and the liquidity trap・・・is the only financial market factor that can block this channel.・・・The fact・・・that monetary policy was declared impotent there the moment short interest rates began to meet their zero lower bound, suggest that we might here have another example of serious policy consequences flowing from the loss of an idea that didn’t fit into IS-LM

「失われた10年」と形容される日本経済の長きに渡る停滞状況を指して、日本経済は“流動性の罠”に陥っているのだと指摘する向きがある。政策当局は、流動性の罠に陥っている以上(短期金利も限りなくゼロに近い状況にあるし)金融政策としては最早打つ手は存在しないとのたまっている。「流動性の罠」という発想、金融政策の波及メカニズムを金利変動だけにしか見出さない態度。IS-LMという既得観念の虜になっている何よりの証拠である、とLaidlerは指摘する。Hawtreyが何を語っていたかを思い出せば解決策はすぐに見つかる。

students of Hawtrey would know that a “credit deadlock”-a situation in which money creation is inhibited by the unwillingness of pessimistic firms to borrow from the banks at any interest rate-can also render monetary policy ineffective. They would also know, however,that sufficiently aggressive open market operations or money financed budget deficits could be used to break such a deadlock, and that if,as Hawtrey believed(and as Nelson reminds us monetarists still believe)money creation can have effects through a much wider range of channels than market interest rates, this might be enough to revive a depressed economy.

現在の日本経済は、悲観的な期待を抱く企業がどんなに低い貸出金利を提示されても銀行から借り入れをしようとしないために信用創造が低迷する(ホートリーが言うところの)「信用梗塞(credit deadlock)」の状況に陥っている。この状況下においては、金融政策の効果が弱まることは確かである。しかしながら、アグレッシブな公開市場操作に乗り出すことによって梗塞状況から脱することは可能であって、金融政策は市場金利以外のチャネルを通じて景気刺激効果を発することができる。万策尽きたと言っていられるのはIS-LMという非現実的な世界にしがみついている場合だけである(ホートリーについては田中先生のブログにおけるFellow Travelerさんのコメントも参照のこと)。

IS-LMを相対化する勇気を持て、ということですね。

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罪深きIS-LM

David Laidler(with Roger E. Backhouse)、“What was lost with IS-LM?(pdf)”(Laidlerホームページより)。

IS-LMモデルは現実経済の重要な側面-経済活動は時間を通じて行われる営為であるということ-を捨象してしまったがために、経済学の更なる発展への大きな障害となった。IS-LMによってマクロ経済学の教育を受けた戦後の経済学者は、IS-LMモデルで現実世界を眺めることに慣れきってしまい(静態的なIS-LMのモデル世界と現実世界との区別がつかなくなって)、自分たちが現実の経済世界の実相を見逃していることになかなか気付くことができなかったのである。

the IS-LM model was a comparative-static device, and this meant that a wide range of issues, related to the fact that economic activity happens in time, simply could not find a place within it. Only ideas that seemed relevant to the equilibrium features of the economic system and its comparative-static properties received careful attention from those who used IS-LM, but that was the vast majority of economists working on macroeconomic issues between the 1940s and the 1970s.

責めを負うべきはIS-LMの開発者だけなのか? ケインズの重層的で深遠な思索が縷述された『一般理論』をあまりにも平板なかたちに解釈したヒックスが悪いのか? いや、そうではない。ケインズ自身にも重大な過失が存在した。

In The General Theory・・・He also re-wrote the macroeconomics that had come before, and labelled the result “classical economics”. In the process he presented a theoretical critique of propositions that were entirely static and temporal. In the absence of this distortion of what macroeconomics was like before the General Theory, Keynes’own contribution would have been perceived very differently, and it would have been much more difficult for such early exponents of IS-LM as Harrod (1937) and Hicks (1937) to present this model as capable of capturing the fundamental issues at stake between Keynes and his predecessors.

『一般理論』はケインズの独創的な発想のみによって成り立っているわけではない。20世紀前半期(あるいは戦間期)における経済学者連の研究成果の影響が濃厚に見てとれるのである。消費性向にはWarming、資本の限界効率にはIrving Fisher、流動性選好にはLavington、有効需要にはHawtrey・・・というように、ケインズ独自の概念と考えられているものに対してその先駆者(“古典派”の経済学者)を発見することは容易である。

ケインズは「古典派」に対して徹底的な批判を加えるために『一般理論』を執筆し、まったく新しい経済学の体系(「古典派」をその特殊事例として包含する「一般」理論)を形作ろうと試みたのであり、「古典派」とケインズの間には大きな断絶-「ケインズ革命」という名のパラダイムシフト-が存在する。ということを否定したいわけではない。“古典派”からの強い影響を受けていることは先に見たように確かであるが、“古典派”から受け継がなかった伝統も存在する。ケインズが『一般理論』の中で規定した「古典派」は本来の“古典派”ではなく、一面的な“古典派”(「古典派」)に過ぎなかった。“古典派”を「古典派」と見間違えたこと。ケインズが責を負うべき過ちはここにある。

後世から忘れ去られ、無視されることになった“古典派”のもう1つの側面とは何か。“economic activity happens in time”,“consumption and investment decisions had something to do with the allocation of resources over time”,“economic changes take time to happen”,“expectations are always relevant when maximizing behaviour is analysed”,“economic policy too involves forward-looking decisions”,“attention to important coordination problems, having to do with the allocation of resources over time, that are invisible in a static world”・・・といった点への着目、つまりは現実の経済世界は時間の流れの中において進行するのであり、IS-LMが描く静態的な世界像とは正反対の、常に変化に晒された動態的な世界である、ということへの気付きである。

Some examples will help to make clear just how many ideas were thus rendered inaccessible to a younger generation of economists. Hawtrey・・・had argued that the monetary transmission mechanism over the course of the cycle involved the continual creation and destruction of credit. For him, and for Irving Fisher too,・・・the interest rate set by the banking system was therefore considered to be a critical variable for swings in the price level, and in output too for Hawtrey・・・.Others, notably the Austrian and Swedish followers of Wicksell, but also Dennis Robertson, carried this line of analysis further, and stressed the capacity of interest rate swings to generate variations in output which often involved “forced saving”. The Austrians in particular had argued that, in a world experiencing change, the market mechanisms that existed in a monetary economy were likely to fail in fully coordinating the choices of individual agents, notably with regard to the allocation of resources over time;this because the banking system's activities would interfere with the interest rate's capacity to induce a time-structure of production that was compatible with households’plans for future consumption. Those Swedish economists known as the“Stockholm School” focussed on the processes whereby "ex ante" disequilibria were turned into "ex post" equilibria. They therefore paid careful attention to the importance for macroeconomic behaviour of expectations and their evolution over time.

“古典派”を「古典派」と単純化したケインズも責任の一端は担っている。しかしながら、ケインズが不確実性や期待の役割に言及してるにも関わらず、IS-LMの中にその点を取り込まなかったヒックスの責任はさらに重大である。ヒックスも後々反省しておりますことですし、共同責任は無責任とも言いますし(無責任の意味が違うか;責任が無いじゃなくて責任を取ろうとしない)、どうか許してやってくださいね。

it is argued here that the loss of ideas from the broader inter-war literature on monetary economics and the business cycle, which began with the General Theory itself, and was accentuated by the development of IS-LM, was more important for the subsequent development of macroeconomics than the mislaying of some insights from that book during the transformation of “Keynesian economics” into IS-LM . When all is said and done, IS-LM did sum up a critical and central subset of the ideas expounded in the General Theory. This is why it is legitimate to refer to a Keynesian rather than a Hicksian revolution.

経済学の発展という観点からすると、ケインズが“古典派”を「古典派」と解釈したこと(このことこそが発展のヨリ大きな阻害要因となった)に比較してIS-LMがケインズ『一般理論』からmislayした(取りこぼした)ことの過失は些細なことである(IS-LMはケインズの歪んだ「古典派」解釈を解釈したものであり、先行する解釈が間違っている以上後続の解釈が誤っていたとしてもその責任は先行する解釈にある)。だからこそ、“古典派”と『一般理論』以降の経済学を分かつことになったパラダイムシフトを「Hicksian revolution」と呼ぶべきではなく「Keynesian revolution」と名付けるべきなのである(“古典派”とそれ以降の経済学の違いの差を生んだのはケインズによる「古典派」解釈にあるため)。レイドラー先生もこうおっしゃっていることですし(レイドラーも冗談がきついな)、ヒックスの罪は是非とも軽くしていただきたいものです。

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流動性のワナ

貨幣需要の投機的動機=貨幣と「債券」(コンソル債)間の資産選択の問題、について(堀内昭義著『金融論』、p140~144参照)。コンソル債(確定利付き債)の流通価格;P=cF/i (F:額面価格、c:クーポン率、i:利子率(最終利回り))

コンソル債を1年間保有することによる収益率(1年後に市場で売却);P(0)=cF/(1+α)+P(1)/(1+α)→α=[cF+(P(1)-P(0))]/P(0)%20(P(0)・P(1);現在・1年後の債券の流通価格、α;収益率=利息とキャピタルゲインを現在の市場価格で割った値)

(a)i(0)=C/P(0) (C=cF)

(b)α=[C+(P(1)-P(0))]/P(0)=i(0)-(i(1)-i(0))/i(1)

(b)の導出過程;α=C/P(0)+P(1)/P(0)-1=i(0)+[C/i(1)]/[C/i(0)]-1=i(0)+i(0)/i(1)-1=i(0)+[i(0)-i(1)]*1/i(1)=i(0)-(i(1)-i(0))/i(1)

(b)に示されているように収益率αと最終利回りiは一致するとは限らない。来期の利子率が今期よりも高まると予想される時(i(1)>i(0))、収益率αは最終利回りi(0)を下回る。来期に利子率が高まると予想することは債券価格が下落すると予想していることと同値であり、最終利回りが正であってもキャピタルロスを嫌気して貨幣が保有される場合が存在する(i(1)>i(0)と予想し、また利子率の期待上昇幅がかなり大である時に、収益率αがマイナスになる場合がある)。i(1)がある一定値に止まり続ける場合、今期の利子率i(0)が下落すればするほど将来の債券価格の下落が期待され貨幣に対する需要が高まることになる。このようにして投機的動機に基づく貨幣需要は利子率の減少関数として規定される。

利子率の減少関数である流動性選好関数(貨幣需要関数)を導くに際して、i(1)に関する「非弾力的な期待」という仮定(人々は利子率に関してある正常な水準が存在すると想定しており、正常利子率に関する期待は今期の利子率変動の影響をそれほど受けない)が背後に存在する。

今期の利子率i(0)の変化が来期の利子率i(1)にどれだけの変化をもたらすかを表現する指標として期待の弾力性βを定義。β=[di(1)/i(1)]/[di(0)/i(0)]である(今期の利子率が1%上昇した時、来期の利子率が何%上昇するかを測定)。

(c)(=(b)を全微分);dα/di(0)=1+(1/i(1))(1-β)

(c)((b)=i(0)+i(0)/i(1)-1)の導出過程;dα=[∂α/∂i(0)]*di(0)+[∂α/∂i(1)]*di(1)=[1+1/i(1)]*di(0)+[-i(0)/i(1)*i(1)]*di(1)→(両辺をdi(0)で割る)dα/di(0)=[1+1/i(1)]-{i(0)/[i(1)*i(1)]}*[di(1)/di(0)]=1+(1/i(1)){1-[i(0)/i(1)]*[di(1)/di(0)]}=1+(1/i(1))(1-β)

期待の弾力性が小さい時(1よりも小の時)、今期の利子率i(0)の上昇は債券の期待収益率αを上昇させることになる。今期の利子率が正常水準を上回ったとしても、人々は利子率は正常値に回帰(下落)してくるだろうと判断する(今期の利子率上昇を観察してもそれに併せて将来の利子率期待(正常利子率)を上方修正しない)。つまりは債券価格が上昇することを期待(キャピタルゲインの獲得を期待)して債券への需要が増加、貨幣需要は減少するわけである。利子率上昇が貨幣需要を減少させる。流動性選好関数の出来上がりである。

長い長い前置きはこれにて終了。この記事を書いた理由は別のところにある(昨日の記事で非弾力的期待に触れたのでそれについても書こうとは考えたけれども)。同書のp145~146における流動性の罠に関する記述が実に興味深く、そのことを論じたかったわけである。その部分を引用。

(流動性のワナが生じる)第二の可能性は、今期の貨幣供給の増加が、将来の金融引締めの期待を生み出し、人々の利子率の期待値i(1)が上昇してしまう場合である。この場合には、貨幣供給曲線MMの右方向へのシフトに対応して、需要曲線LLが同じく右方向へシフトする。その結果、資産市場の均衡は、以前とほぼ同じ利子率水準の下で成立するのである。(p145)

縦軸が利子率を、横軸が貨幣需要・供給量を表す二次元の図上において、右下がりの貨幣需要曲線(LL、利子率が低下すると貨幣需要が増加)と縦軸に平行な貨幣供給曲線(MM)が交差する点において貨幣市場は均衡する。利子率の期待値i(1)が上昇した時、(b)より債券の期待収益率は低下するので債券需要は減少する。この時、同じ利子率i(0)の水準における貨幣需要は増加するので、需要曲線LLは右方へシフトするのである。「今期の貨幣供給の増加が、将来の金融引締めの期待を生み出」すと(c)においてβが負の値をとることになり、債券価格の急激な下落が期待されて(1/i(1)の下落幅との兼ね合いによるが)、そうでない場合と比較すると貨幣需要がヨリ強まることになる。貨幣供給曲線の右方シフトは貨幣需要曲線の右方シフトによって相殺され、利子率の水準は緩和以前とそれほど変らぬ状態で推移するため、金融緩和による景気刺激効果が発揮されることはない。

今期の金融緩和措置が将来においても維持される(将来も金融緩和は続く)と期待されるとどうなるだろうか。利子率の期待値i(1)が下落すると貨幣需要曲線は左方にシフトする。貨幣供給曲線の右方シフトと合わせて考えると、(流動性のワナから脱して)利子率i(0)の下落を生んで景気に対してポジティブな影響を及ぼすことになろう。(c)のβは正の値を取り、以前と比べその値が上昇するならば(1-β)が下落するので(1/i(1)は上昇するため、二つの兼ね合いにもよるが)債券への需要が増加、貨幣需要は減少して貨幣需要曲線は左方にシフトすることになる(βが1よりも大きい値を取る時、急激な貨幣需要の減少を生むだろう。非弾力的な期待を仮定しなければ、このケースの流動性のワナから脱することはより簡単なことなる(あるいは、民間経済主体の期待に働きかける政策を視野に入れることが可能になるわけで政策手段の数が増えると言ってもよい))。民間経済主体に将来も金融が緩和され続けることを期待させて(将来の金融緩和をコミットすることで?)流動性の罠から脱出する。なんだかクルーグマンの主張(流動性の罠の定義は違うが)を髣髴とさせる話ですね(流動性のワナの第一のケース、すなわち貨幣需要曲線がある利子率水準で水平になる場合においては対策は困難である。ただし、利子率期待の非弾力性を仮定する限りにおいてだが)。

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IS-LM再論

IS-LMモデルは物価一定の短期の仮定の下で、財市場と貨幣市場の均衡分析をおこなうものである。IS関係は投資=貯蓄という財市場のフロー均衡の状態を記述する。利子率の減少関数である投資と所得の増加関数である貯蓄は、財市場における所得の変動によって均等化される。任意の均衡状態において、企業の将来見通しの改善等により投資需要が増加すると、投資‐貯蓄のギャップ(I>S)が縮まるように所得が増加する(投資需要の増加が乗数倍の所得増加を引き起こす。貯蓄が投資に均衡するような水準まで所得は増加する)。反対に投資が減少すると(I<S)、貯蓄が投資需要の水準に等しくなるよう所得が減少する(このことは有効需要の原理の採用を意味する。つまり、所得ないしGDPの大きさは供給側の条件によって規定されるという古典派のセイ法則が否定され、一国のGDPの大きさは有効需要の大きさによって規定される。経済主体による財の“買行為”と“売行為”という2つのフロー行為の間に貨幣保有というストック行為が介在することによってセイの法則が否定されるという議論もある)。

LM関係は貨幣需要=貨幣供給という貨幣市場(IS-LMモデルでは、資産として貨幣と債券(長期債券)の二種類しか考慮されていないので、貨幣市場の均衡はストック市場のワルラス法則により同時に債券市場の均衡も意味することから、資産市場全体の均衡を意味することになる)のストック均衡の状態を記述する。貨幣市場においては、貨幣供給量(マネーサプライ)と貨幣需要が均等化するように利子率が調整される。任意の均衡状態において、所得増などの原因により貨幣需要(貨幣需要は所得の増加関数)が増加すると、(マネーサプライが不変であれば)過大な貨幣需要が貨幣供給量と等しくなるように利子率が上昇する(貨幣需要は利子率の減少関数である。背後では債券市場での超過供給が生じており、結果として(債券の売り圧力が強まるため)債券価格の下落、つまりは利子率が上昇することになる)。逆に貨幣需要が減少した場合には、過少な貨幣需要が貨幣供給量に等しくなるように利子率が下落して貨幣の需給がバランスされる(古典派においては、利子率は投資(資金需要)と貯蓄(資金供給)という二つのフローを均衡させるように決定されると考えられる(貸付資金説)が、ケインズの流動性選好説の立場にたつIS-LMモデルにおいては、利子率はストックの貨幣市場の需給を均衡させるように決定される)。

縦軸に利子率を、横軸に所得をとった二次元の図上において、IS曲線は右下がりの曲線(利子率が下落し投資が増加すると投資-貯蓄ギャップを埋めるように所得が増加する)となり、LM曲線は右上がりの曲線(所得が増加し貨幣需要が増加すると貨幣の需給をバランスさせるよう利子率が上昇して貨幣需要を抑制させる)となる。二つの曲線の交点において、フローの財市場とストックの貨幣市場が同時に均衡する利子率と所得の水準が決まる。教科書でみるお馴染みの図である。

IS-LMモデルの下では古典派の二分法は否定されることになる。古典派の二分法(セイの法則と貨幣数量説)の世界では、実物市場の実体的な変数(雇用量、生産量、実質利子率など)は、生産技術の条件や消費者の選好といった実体的な諸条件に制約付けられ、相対価格の調整によって各市場の需給を均衡させるような水準に決定される。「供給はそれ自らの需要を生み出し」、価格の自動調整機能が阻害されない限り、非自発的失業は起こりえない。また、貨幣供給量の変化は、物価、貨幣賃金、名目利子率等名目変数の水準決定には大きな影響力を振るうが、実体的変数には何らの影響も与えることはできない(貨幣の中立性)。名目(絶対)価格は貨幣供給の数量によってメカニカルに決定されることになる。しかしながら、IS-LMモデルでは利子率を媒介として実物市場と貨幣市場が結び付けられているため、貨幣供給量の変化は実物市場にも影響を与えることになる。貨幣供給量が増加すると貨幣市場での需給調整の結果として利子率が下落し、利子率の下落は利子率の減少関数である投資を刺激することになる。LM曲線の右方シフトの結果として、投資需要の増加、そして所得・雇用の増加が引き起こされる。貨幣供給量の変動が所得(雇用量)という実体変数の変動を引き起こすわけである

IS-LMモデルにおいて古典派の二分法は否定される。しかしながら、IS-LMモデルはもうひとつの二分法に陥っている。ストックとフローの二分法である。

IS-LMモデルにおいて、IS関係は投資や消費・貯蓄といったフローの選択を、LM関係は貨幣・債券間の選択といったストック(資産)の選択を記述していることは前述した通りである。問題は投資・貯蓄といったフロー面での決定と貨幣や債券間の資産選択といったストック面の決定(バランスシ-トの構成)とが、まったく切り離されて考えられていることである。IS曲線の形状に対しストック変数はなんらの影響も与えず、LM曲線にはフローの財市場からの影響が見られない。フローの選択はフロー市場で、ストックの選択はストック市場で、それぞれ自己完結的に行為決定がなされる。ストックの決定ないしはバランスシート調整とフロー面の経済的な選択のあいだのつながりが捉えられていないわけである。それゆえIS-LMモデルにおいてはバランスシートの状態(ストックの選択の結果)が、各経済主体の投資や貯蓄の決定(フローの選択)を左右し得るということを想定していないことになる。

LM関係はストックの資産市場の状態を記述しているわけだから、LM関係は経済主体の(ストック市場で取引されている資産が吸収される)バランスシートの構成決定の問題(単純に資産選択問題と言ってもよい)を取り扱うものでもある。そこにおいて考慮に入れられている資産(金融資産)は、貨幣と債券(長期債券)の二種類であることから、バランスシート上には貨幣と債券の二種類の金融資産が保有されることになる。貨幣と債券の二つの資産の違いは、利子の有無に求められる。つまり貨幣には利子がつかず、債券には利子がつく。それゆえ、貨幣・債券のどちらを保有するか(バランスシ-トの構成の決定)は、貨幣保有の機会費用である利子率(厳密には長期利子率の水準)を見極めて決定されることになる(貨幣需要が利子率の減少関数であることをケインズの投機的動機から説明する際には、利子率期待の非弾力性が前提されている。また、投機的動機に基づいて貨幣・債券間の資産選択を説明しようとすると同一経済主体のバランスシート上に貨幣と債券が共存することを説明し得ないという問題が生じる。貨幣需要が利子率の減少関数であることを取引動機から説明できることを示したものとしてTobin/Baumolによる在庫投資理論を援用したモデルがある)。利子率が高くなるにつれて債券の保有が選好され、逆に利子率が低くなると貨幣保有が選好される。このことは先述した貨幣需要関数が表現していることである。

しかしながら、経済主体のバランスシート上の資産構成の決定が利子率(収益率)のみに依存すると考えてよいのであろうか。また、資産を利子の有無だけによって区別しつくすことはできるのだろうか。利子(収益)を生む「債券」の中に含まれる諸資産間の選択はどのような点を考慮して決定されるのだろうか。これらの疑問に答えようとするならば、資産の他の属性―安全性や流動性―に対しても目を向ける必要がある。そして、経済主体が収益だけでなく安全性、流動性といった諸特徴も考慮したうえでバランスシートの構成を決定していることが認められるならば、バランスシートの状態とフローの選択が切り離しえないものであることが理解されるようになる。つまり、ストックとフローの二分法が否定される。

IS-LMモデルでは、「人々の消費・貯蓄の決定と、長年の貯蓄を蓄積した結果である資産の中身、すなわち貨幣か収益資産かの決定とが、まったく無関係なものとして切り離されてしまっているのである。・・・ストックの決定とフローの決定は相互に関連しながら同時に行われているわけで、これらを切り離して考えるわけにはいかないのである」(小野善康著『金融』、p19)。IS-LMモデルが取りこぼした問題―ストック(バランスシ-ト上の資産構成)とフローの不可分性―を明示的に考慮することは、経済モデルを研磨し現実経済の働きに対する理解を深めるうえで避けては通れない道である。

↑大学時代のゼミのレポートかなんかだったかな~。若いね~。

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2006年4月19日 (水)

長期金利と金融政策

バーナンキFRB議長新スピーチの概要。

Reflections on the Yield Curve and Monetary Policy(Before the Economic Club of New York,March 20, 2006 )http://www.federalreserve.gov/BoardDocs/speeches/2006/20060320/default.htm

FRBによる今般の(2004年6月末から始まる)金融引き締め局面においては4つの特徴的な動き(現象)が観察される。

1.市場が予想しているよりも金融引き締め(FFターゲットレートの引き上げ)が開始されるタイミングが遅かった(FFターゲットレートが据え置かれる期間が予想以上に長かった);アメリカ経済がデフレに陥る危険を予防するための措置として理解できる(2003年中に経験したディスインフレが行き過ぎる(=デフレに転化する)ことを懸念)→高すぎるインフレと同様に低すぎるインフレを避けることに全力を尽くすのがFRBの使命である

2.FRBの将来の政策スタンスを(FOMC後の声明を通じて)前もって明らかにすることにより市場の動揺や過剰反応を防ぐことに成功した;市場との透明性あるコミュニケーションが金融資産の価格(=株価、為替、長期金利etc)変動を最小化することを通じて金融政策の有効性を高めることにつながった

3.漸進主義(gradualism)的な金融引締め(http://www.federalreserve.gov/FOMC/fundsrate.htmhttp://research.stlouisfed.org/publications/mt/page9.pdf(pdf)を参照);FFターゲットレートを漸進的に、ゆっくりとしたペースで徐々に引き上げることにより、将来の金融政策の予測可能性が増した(→結果として資産価格の変動の平準化につながった)。また、FRBは経済の状況を見極める時間的余裕を得ることができ、状況に応じた政策調整を行うことが可能となった←インフレ期待が低位安定していたからこそ(FRBによるlow and stable inflationへのコミットが信認を得ていたからこそ)可能となった手法ではある

4.金融引締め局面において長期金利がそれほどの上昇を見せなかった(=イールドカーブのフラット化;http://www.newyorkfed.org/research/directors_charts/i-page19.pdf(pdf)などを参照);10年物の長期国債金利はFFターゲット金利とほとんど変わらない水準にある

<長期金利は何故それほど上昇しなかったのか?>        長期利子率が将来の予想短期(=1年満期)利子率の加重平均とタームプレミアムの合計として求められる(=利子率の期間構造に関する期待仮説にリスクプレミアム(ないし流動性プレミアム)の存在を考慮に入れたもの)と考えるならば、FFレートや2、3年先の(満期一年物の)フォワードレートが上昇する一方で長期金利(10年物国債金利)がほとんど変動していない(=decline in far-forward rates)ということは、

(a)将来的に短期利子率が低下すると予想されている;dependent on the economic outlook

(b)タームプレミアムが低下している;independent of the economic outlook

のどちらか、または双方の要因が働いていることになる。

(b)を支持する見解としては、

①1980年代の中頃以降、マクロ経済の変動(実質GDP成長率やインフレ率の動き)が安定化した(緩慢なものとなった)ため(マクロ経済の安定化には低インフレ(ならびにインフレ期待の安定化)を実現した金融政策も一役買っているかもしれない);the fall in macroeconomic volatility, if investors have come to expect this past performance to continue, they might believe that less compensation for risk--and thus a lower term premium--is required to justify holding longer-term bonds

②各国政府(特にアジア)が積極的に外為市場に介入したため(バーナンキとしては、短期的な効果はともかく長期利子率を長期的にも低下させた要因として考えうるかどうか疑問である(+長期国債と民間発行の(満期を同じくする)債券間の利回りのスプレッドが拡大していないこと、アメリカだけではなく他国の長期利子率も低下傾向を示していること、からしても疑問である)との立場);foreign official institutions, primarily central banks, have invested the bulk of their greatly expanded dollar holdings in U.S. Treasuries and closely substitutable securities, and these demands by the official sector have put downward pressure on yields.

③年金基金の会計基準や運営方針の変化(年金債務と資産のデュレーションをマッチングさせようとする動き)の結果として長期債への需要が高まったため(ニッセイ基礎研究所;「年金ストラテジー」(http://www.nli-research.co.jp/doc/str0602c.pdf(pdf)やhttp://www.nli-research.co.jp/doc/str0509b.pdf(pdf)等々)などを参照のこと。この話題を包括的に扱ったペーパーや本などご存知ありませんでしょうか?);Changes in the management of and accounting for pension funds are a third possible source of a declining term premium. Reforms proposed in the United States, Europe, and elsewhere are widely expected to encourage pension funds to be more fully funded and to take steps to better match the duration of their assets and liabilities. Together with the increased need of aging populations in the industrial countries to prepare for retirement, these changes may have increased the demand for longer-maturity securities.

④長期債への需要増加のペースに比べて長期債が発行されるペースが鈍かったため;as investors' demands for long-duration securities may have increased over the past few years, the supply of such securities seems not to have kept pace.

近時の長期金利の動きを説明する主要因が(a)であるのか(b)であるのかは、今後の金融政策の方向性に対するインプリケーションの違いを生む。(a)=投資家の将来の景気動向に対する弱気な態度の反映(investor expectations of future economic weakness)の結果だとすると(←将来的に景気が後退し、それに対して金融緩和政策がとられる(=FFレートが引き下げられる)と予想されるため)、長期金利が歴史的に見て低い水準で安定している理由が(a)の反映であるならば金融は現状よりも緩和すべきであることになるし(if spending depends on long-term interest rates, special factors that lower the spread between short-term and long-term rates will stimulate aggregate demand. Thus, when the term premium declines, a higher short-term rate is required to obtain the long-term rate and the overall mix of financial conditions consistent with maximum sustainable employment and stable prices)、(b)の反映であるならば金融は現状よりも引締め気味に運営されるべきとなる(バーナンキは長期金利の動きを説明する代替的な議論として自然利子率の低下を主張する見解やグローバル貯蓄過剰論(http://www.federalreserve.gov/boarddocs/speeches/2005/20050414/default.htm)も挙げている)。長期金利の推移に関する解釈の違いは時に正反対の政策対応を要請することになるのである(ちなみにバーナンキ自身は(b)が説明要因としてもっともらしいのではないかとの認識。ただし、長期金利は政策判断を行ううえであくまでも一つの指標にしか過ぎず、長期金利の動きのみから即座に金融政策へのインプリケーションを引き出すことは拙速にすぎるとの考え)。

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ケチャップ皇帝の初仕事

2月15日の水曜日、ケチャップ皇帝ことベン・バーナンキさん(52歳)が米下院金融サービス委員会において証言を行い、FRB議長としての初仕事を難なくやり遂げたとのことです。

Testimony of Chairman Ben S. Bernanke(Semiannual Monetary Policy Report to the Congress Before the Committee on Financial Services, U.S. House of Representatives) http://www.federalreserve.gov/boarddocs/hh/2006/february/testimony.htm

Inflation prospects are important, not just because price stability is in itself desirable and part of the Federal Reserve's mandate from the Congress, but also because price stability is essential for strong and stable growth of output and employment. Stable prices promote long-term economic growth by allowing households and firms to make economic decisions and undertake productive activities with fewer concerns about large or unanticipated changes in the price level and their attendant financial consequences. Experience shows that low and stable inflation and inflation expectations are also associated with greater short-term stability in output and employment, perhaps in part because they give the central bank greater latitude to counter transitory disturbances to the economy.

今回のテスティモニーで一番興味を惹かれた箇所(2005年度のアメリカ経済の回顧や今後の展望やらについてのバーナンキ証言は・・・きっとどなたか(私なんかよりもずっと適任でらっしゃる方)がまとめてくださることでしょう)。物価の安定(インフレ率の低位安定)を追求すべきである理由は、それが長期的な経済成長にとって好ましい要素である(→物価が安定することで、経済的な意思決定に際して将来物価の予測や物価変動による予想せざる富の移転等に関して頭を悩ます(余計な労力を費やす)必要がなくなる)からというだけではない。物価の安定(とその結果としての穏やかなインフレ期待)は、中央銀行がcounter-cyclicalな金融政策を発動する余地を確保することによってヨリ確実な(短期的な)景気安定化のための環境を用意することになる(Econbrowserでのハミルトンの説明がこの発言の意味を理解するのに参考になるであろう。“one of the reasons we want to keep inflation low is to preserve the flexibility to counter an output slowdown with a monetary expansion if needed”。景気後退局面において(それ以前の政策運営の結果として)インフレ期待が低位で安定していれば、金融緩和によってインフレ率上昇という代価をそれほど払うことなしに景気回復を実現できる(インフレ率が低けれ低いほど(0%以下(CPIの上方バイアスを無視した場合))、それだけ発動しうる金融緩和の規模に余裕がある、ってことかも)。・・・この解釈で間違いないですよね?)。

バーナンキがFRB理事時代に行ったスピーチ“A Perspective on Inflation Targeting”(『リフレと金融政策』所収)も参照のこと(追記;The Benefits of Price Stabilityも参照すべし)。

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世界経済の新皇帝

一つの時代=「the Greenspan era」(A.Blinder, R.Reis、“Understanding Greenspan Standard(pdf)”)が終焉しようとしている。1987年以来約18年間の長きにわたり(この間米国大統領の座はパパブッシュ→クリントン→子ブッシュ、の3人が務めあげている)、FRB議長としてアメリカ経済の「繁栄の90年代」(ないしは「素晴らしい10年」 “Fabulous Decade”;A.ブラインダー/J.イェレン著『良い政策 悪い政策-1990年代アメリカの教訓』)を演出したグリーンスパンが明日2月1日をもって議長職を辞するのである。「マエストロ(名指揮者)」グリーンスパンの後を継ぎ、FRB議長として、また「世界経済の新皇帝」として新たな時代の幕を開くその男の名はベン・バーナンキ Ben Bernanke。マサチューセッツ工科大学で経済学博士号を取得後、スタンフォード大学、プリンストン大学等で教鞭をとり、2002年にFRB理事、そして2005年には大統領経済諮問委員会(CEA)委員長に就任。アカデミックな世界だけでなく政策の現場でも精力的な活躍を続ける世界を代表する経済学者である。

406213260501 バーナンキとは一体何者なのか? 彼は何を考え、我々をどこへ連れて行こうとしているのか? 果たして彼に「世界経済の新皇帝」としての任が務まるのであろうか? これらの疑問に答えるべく、「バーナンキ経済学」の真髄を解き明かすために緊急出版(1カ月半(!!)という短時日で脱稿)されたのが田中秀臣著『ベン・バーナンキ 世界経済の新皇帝』である。

バーナンキといえば「日銀はケチャップでも買え!」、「日銀幹部は一人を除いてジャンクだ!」という刺激的(挑発的?)な発言でよく知られているが、本書では経済学の初歩的な議論からはじめて「バーナンキ経済学」の二本柱「大恐慌研究」/「インフレターゲット研究」の内容を懇切丁寧に解説することで、これらの発言の背後にあるバーナンキの思考枠組みを明快に浮かび上がらせていく。何故デフレが生じるのか? 中央銀行がインフレターゲットを設定することで期待される効果は何なのか? 日本経済がデフレ不況に陥ったのはどういった理由からであり、またこの停滞状況から脱するためにはいかなる政策を処方すべきであるのか? バーナンキの足取りを辿りながら、著者はこれらの問いに次々と説得的な回答を寄せていく。バーナンキを語り、理解することは、経済学を、そして現実の経済問題を語り、理解することでもあるのだ、ということを読後しみじみと感じ入った次第である。

バーナンキの研究活動―特に大恐慌研究・インフレターゲット研究―において一貫していることは、同じ過ちを繰り返さないためにも歴史から真摯に学びとる態度の重要性への認識である。大恐慌研究を通じてデフレの弊害・稚拙な金融政策の有害性を学んだ結果が日本銀行の政策運営に対する(過去の教訓を生かしていないものへの)激烈な批判へとつながっているわけであり、またインフレターゲットを設定することの必要性を認識するにいたったのも1970年代のGreat Inflationの経験からの一つの帰結である(「バーナンキは、この70年代のインフレ予想形成の失敗がいかに社会的コスト(失業)を生み出したかを説明し、今後このような失敗をしないためにも、経済主体の予想形成が金融政策の欠かせない要素になる―と力説している」(p182))。 バーナンキはその学究生活を通じて以下のグリーンスパンの言葉を長年にわたり実践してきたわけであり、前任者からFRB議長という(名目的な)ポストばかりではなく、その精神(スピリット)をもしっかと引き継いでいるわけである。

History teaches us that no matter how well intentioned economic policies and decisions may be, policymakers never can possess enough knowledge of the complexities of the economy nor sufficiently foresee changes in the economic environment to avoid error. But history can and does provide examples that can help guide policymakers away from repeating the worst mistakes of the past. Indeed, only through an understanding of historical precedents can we continue to improve our policies.(At a book reception for the publication of volume I of Allan Meltzer's History of the Federal Reserve

歴史をひもとけばわかるように、いかに政策や決定が善意に基づいていたとしても、政策担当者たちが経済の複雑さについて十分な知識を保有することはないし、経済の変化について十分に予見して誤りを避けることができるというわけでもない。けれども政策担当者たちは、歴史を学ぶことで、「過去の最悪の過ちを繰り返す」愚行を避ける手がかりを得ることができる。実際、歴史的先例に学んでこそはじめて、わたしたちは自分たちの政策を改善し続けることができるのだ(若田部昌澄著『経済学者たちの闘い』、p286より)

「おわりに」において著者は次のように語っている。

私のデフレ研究は、バーナンキの論文を最初に読んだ15年前に始まり、そしていま、本書を書き終えることで一山越えたように思える。15年にわたってバーナンキ経済学への関心を維持してきたわけだが、その理由の一つは、不幸なことだが日本がその間ずっと(そしていまもなお)大停滞を継続してきたからにほかならない。その意味で、これからも日本経済はまだまだ彼から豊かなアドバイスを汲み取ることができるだろう。(p213)

「失われた15年」なしには本書と出会う機会はもしかしたらなかったのかもしれない。その意味では「失われた15年」にも効用が存在したといえるのかもしれない。「失われた15年」が与えてくれたプレゼント。拍手をもって迎えてよいものか、まったくもって複雑な心境ではある。

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4つの失策

Ben S. Bernanke,“Money, Gold, and the Great Depression”の要点メモ。

To support their view that monetary forces caused the Great Depression, Friedman and Schwartz revisited the historical record and identified a series of errors--errors of both commission and omission--made by the Federal Reserve in the late 1920s and early 1930s. According to Friedman and Schwartz, each of these policy mistakes led to an undesirable tightening of monetary policy, as reflected in sharp declines in the money supply.・・・Friedman and Schwartz emphasized at least four major errors by U.S. monetary policymakers.

Great Depressionの原因ないしは促進要因となったFRBによる4つの失策(=過度の金融引締め)をフリードマン=シュワルツ(1963)に依拠しつつ概観。

政策の失敗<その1>;1928年の春頃から1929年の10月(暗黒の木曜日)まで続いた株投機抑制を目的とした(インフレの兆候が一切見られない状況での)金融引締め

The Fed's first grave mistake, in their view, was the tightening of monetary policy that began in the spring of 1928 and continued until the stock market crash of October 1929. ・・・Why then did the Federal Reserve raise interest rates in 1928? The principal reason was the Fed's ongoing concern about speculation on Wall Street. Fed policymakers drew a sharp distinction between "productive" (that is, good) and "speculative" (bad) uses of credit, and they were concerned that bank lending to brokers and investors was fueling a speculative wave in the stock market.

銀行貸付はリアル・ビルズ(=商工業者がビジネス(実業)のために振り出す商業手形)の割引の形で実行されるべきであり、連銀貸出は株式投資などの投機目的の資金需要に向けられるべきではない(=リアル・ビルズ・ドクトリン)。にもかかわらず、貸付資金の利用目的を精査することなしに貸出を行ったがために株式投機による資産バブルを招いてしまった。「株式投機というアメリカ的な勤勉の道徳とは最も離れた、罪深い行い・・・の贖罪のためには、金利を引き上げて罪深い行いの者たちを滅ぼさなければならない。その過程で、たとえ善良な農民や商工業者が傷ついても、それは正義の戦いのための犠牲なのだから仕方がない」(竹森俊平“世界デフレは三度来たる”、『月刊現代』2004年9月号、p311;竹森先生はバブル潰しを目的とした連銀によるこの金利引き上げの判断を「清算主義というポピュリズム」、「「因果応報」の観念にとりつかれた一種の宗教思想」と断じておられます)。株価バブルを抑えるために(=バブル潰しを目的に)FRBは売りオペと金利(公定歩合)引き上げによる引締め政策に乗り出すことになる(一般的には1929年10月24日のウォールストリートの株価暴落が大恐慌の原因とみなされているが、この株価暴落自体が1928年に始まるFRBによる金融引締めの結果であり、Great Depressionの種は“暗黒の木曜日”以前に既にまかれていたことになる。 The slowdown in economic activity, together with high interest rates, was in all likelihood the most important source of the stock market crash that followed in October.  In other words, the market crash, rather than being the cause of the Depression, as popular legend has it, was in fact largely the result of an economic slowdown and the inappropriate monetary policies that preceded it)。(連銀の政策委員すべてがこの処置に同意していたわけではない点は注記しておこう。引締め政策に明確な反対の意を示した委員が存在した(「株式市場活動を制限する目的で割引率を引き上げることは、連邦準備局の権限内の他の施策がその目的を達成するのに失敗したときにのみ行われるべきである。銀行信用がブローカーズ・ローンへの投資に間接的に用いられるからといって、農業やビジネスを罰することには賛成できない」「商業やビジネスをたすけるために割引率を固定することは、株式取引所の売買以外のすべての種類のビジネスに適用される。しかも、連邦準備当局に入ってくるビジネス・レポートは株式取引所をのぞいては、すべてのビジネスは抑制ではなく刺激を必要としていることを正しく示唆している」(秋元英一『世界大恐慌』p53~54より引用))。

政策の失敗<その2>;1931年9、10月における投機アタックに際しての(金流出の予防あるいは平価の維持を目的とした)金利引き上げ

The second monetary policy action identified by Friedman and Schwartz occurred in September and October of 1931. ・・・As with any system of fixed exchange rates, the gold standard was subject to speculative attack if investors doubted the ability of a country to maintain the value of its currency at the legally specified parity.・・・With the collapse of the pound, speculators turned their attention to the U.S. dollar, which (given the economic difficulties the United States was experiencing in the fall of 1931) looked to many to be the next currency in line for devaluation. ・・・To stabilize the dollar, the Fed once again raised interest rates sharply, on the view that currency speculators would be less willing to liquidate dollar assets if they could earn a higher rate of return on them.

1931年9月21日にイギリスが金本位制から離脱すると、次はアメリカの番である(=平価切下げないしは通貨フロート制へ移行するだろう)との見方が強まり、アメリカの通貨当局は市場からの容赦ないドル売り圧力(金との兌換要求)に晒されることになった。多額の金準備の流出に見舞われた連銀は金本位制の維持を最優先して(金流出を食いとどめるために)金利引き上げに乗り出す。金本位制にとどまらんとする連銀の強い意思は平価維持のコミットメントへの信頼を勝ちとり、投機アタックの苦難からアメリカ経済を救い出すことに成功した。その代価として国内経済はより一層不況色を強めていくことになる(こちらのエントリーとも関連するが、平価維持へのコミットメントの信頼が存在してはじめて金本位制は円滑に機能しうる。不運なことに(?)、第一次世界大戦前とは異なり、戦間期にはコミットメントへの信頼が―労働者の立場を代弁する政党が台頭してきたことで、失業率の上昇を許してまで金本位制に固執する利点があるのかという疑問あるいは金本位制への懐疑・反発が無視できないものとなることによって―損なわれていた(After the war, in contrast, both economic views and the political balance of power had shifted in ways that reduced the influence of the gold standard ideology. For example, new labor-dominated political parties were skeptical about the utility of maintaining the gold standard if doing so increased unemployment. Ironically, reduced political and ideological support for the gold standard made it more difficult for central banks to maintain the gold values of their currencies, as speculators understood that the underlying commitment to adhere to the gold standard at all costs had been weakened significantly.)。コミットメントへの信頼なきところに金本位制を採用することの弊害ということになりますかね、この事例は)。

政策の失敗<その3>;1932年7月における(議会の圧力よって採用した買いオペによる金融緩和から)引締め政策への反転

The third policy action highlighted by Friedman and Schwartz occurred in 1932. By the spring of that year, the Depression was well advanced, and Congress began to place considerable pressure on the Federal Reserve to ease monetary policy. The Board was quite reluctant to comply, but in response to the ongoing pressure the Board conducted open-market operations between April and June of 1932 designed to increase the national money supply and thus ease policy. ・・・However, Fed officials remained ambivalent about their policy of monetary expansion. Some viewed the Depression as the necessary purging of financial excesses built up during the 1920s; in this view, slowing the economic collapse by easing monetary policy only delayed the inevitable adjustment. Other officials, noting among other indicators the very low level of nominal interest rates, concluded that monetary policy was in fact already quite easy and that no more should be done.

議会からの金融緩和圧力に抗しきれず、連銀当局は1932年4月から6月にかけて買いオペレーションを実施する。しかしながら、7月に入るや(金融緩和の効果が表れる前に)連銀は再び引締め政策に転換することになる。清算主義的な観念(現在の不況は1920年代の行き過ぎた景気拡張による資源の誤配分が調整される必要不可欠な過程(=非効率的な部門に滞留する資源がヨリ効率的な部門へと移動する過程)であって、安易な金融緩和は(いつかは経験せねばならない)痛みを伴う調整を遅らせるだけに過ぎない)や名目金利と実質金利の混同じゃなくて両者を区別できない初歩的な誤りですかね(金利はこれ以上ないほど低い水準で推移しており(金融は今でも緩和しすぎているほどだ)、金融政策にできることはもはやない;実際にはデフレの進行により(事後的な)実質金利は高止まりしていた)による金融緩和への拒否感情が連銀内部を支配していたためである。

政策の失敗<その4>;1930年代にアメリカ各地で頻発した銀行破産の放置あるいは“最後の貸し手”としての機能(役割)の放棄

The fourth and final policy mistake emphasized by Friedman and Schwartz was the Fed's ongoing neglect of problems in the U.S. banking sector. ・・・The Fed's failure to fulfill its mission was, again, largely the result of the economic theories held by the Federal Reserve leadership. Many Fed officials appeared to subscribe to the infamous "liquidationist" thesis of Treasury Secretary Andrew Mellon, who argued that weeding out "weak" banks was a harsh but necessary prerequisite to the recovery of the banking system. Moreover, most of the failing banks were relatively small and not members of the Federal Reserve System, making their fate of less interest to the policymakers. In the end, Fed officials decided not to intervene in the banking crisis, contributing once again to the precipitous fall in the money supply.

1930年代のアメリカの金融システムは頻発する銀行破産によって大きなショックに見舞われ続けた(上掲の秋元『世界大恐慌』ではElmus Wicker(1996)に依拠して大恐慌期の銀行破産が4つの時期に分けられている。第3期(1931年9~10月)の銀行破産の波は、バーナンキも述べているように(The speculative attack on the dollar also helped to create a panic in the U.S. banking system. Fearing imminent devaluation of the dollar, many foreign and domestic depositors withdrew their funds from U.S. banks in order to convert them into gold or other assets. )上述(政策の失敗<その3>)の投機アタックによって増幅された可能性がある。金本位制の弊害がここにも)。銀行破産による銀行制度への信認の毀損は、預金者による預金引き出し(あるいは現金退蔵)行動を惹起し、マネーサプライ・銀行貸出の低迷の一要因となった。連銀は“最後の貸し手”として行動すべきところにもかかわらず、「貧弱な銀行を破産するに任せることは、痛みを伴うけれども足腰の強い銀行制度を確立するためには避けては通れない道である(非効率的な部門を清算することによって効率的な制度を作り上げる)」との清算主義的な考えから機動的な流動性供給には終始消極的な態度を示し続ける(ということは銀行パニック要因によるマネーサプライ下落の放置=意図せざる金融引締めを容認する)ことになった。

Some important lessons emerge from the story. One lesson is that ideas are critical. The gold standard orthodoxy, the adherence of some Federal Reserve policymakers to the liquidationist thesis, and the incorrect view that low nominal interest rates necessarily signaled monetary ease, all led policymakers astray, with disastrous consequences. We should not underestimate the need for careful research and analysis in guiding policy.

FRBによる政策の失敗は誤った観念によって導かれた、あるいは正当化された(政策の失敗<その1、3、4>を参照。The gold standard orthodoxy=“After 1918, when the war ended, nations around the world made extensive efforts to reconstitute the gold standard, believing that it would be a key element in the return to normal functioning of the international economic system”。金本位制への復帰が第一次世界大戦前の正常な(順調な)国際金融システムの再現を可能にする。「正常に帰れ」(come back to normalcy;ハーディング米大統領)ってことです。バーナンキは本スピーチの中で金本位制自体(コミットメントへの信頼なき金本位制にとどまらず)がGreat Depressionに対して果たした(アメリカにおけるGreat Contractionを世界規模に波及させた(=世界大恐慌にまで発展させた)役割についても論じております)。Great DepressionはDelusionが招いた結果である、つまりは1920年代後半~30年代はAge of DelusionであったがためにGreat Depressionが引き起こされたのだ、と言い得る所以である。

Randall Parker,“An Overview of the Great Depression”も参照のこと(Randall Parker=『大恐慌を見た経済学者11人はどう生きたか』の著者R.E.パーカー)。

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人災としてのGreat Depression

Study of Great Depression shapes Bernanke's views

田中先生が言及されていたウォールストリートジャーナルの記事(たぶん)。

The Depression, he contends, has taught the importance of avoiding both deflation -- that is, generally falling prices -- and inflation. It has also shown the threat that falling asset prices -- such as, potentially, in housing -- and weakened banks can pose. Most important, it shows the damage the Fed can do when it follows wrong-headed ideas.

Great Depressionは自然現象では決してなく、また1920年代の行き過ぎた景気拡大の不可避的な結果でもなく(For decades, many economists and policy makers thought the Depression was the inevitable consequence of excess investment, flawed corporate governance and speculation in the 1920s, culminating in the 1929 stock-market crash)、FRBによる金融政策の失敗によって生じた人災である。誤った観念に囚われた政策当局による引き締め気味の金融政策運営が招いた人為的な災害である。

バーナンキの未完の書“Age of Delusion: How politicians and central bankers created the Great Depression”はおそらくケインズの有名な言葉―「経済学者や政治学者の思想は、それが正しい場合にも間違っている場合にも、一般に考えられているよりもはるかに強力である。事実、世界を支配するものはそれ以外にはないのである。・・・遅かれ早かれ、良かれ悪しかれ危険なものは、既得権益ではなくて思想なのである」(ケインズ著『雇用・利子および貨幣の一般理論』、p384)―を実証するものとしてGreat Depressionを描く、つまりは当時の政策当局者の間に広まっていた(歪んだ)観念に焦点を当てて大不況を論じることを意図したものなのでしょう。15年も待てないという(お急ぎの)方にはMoney, Gold, and the Great Depressionあたりでの議論がその内容を推測するにあたって参考になるんじゃないでしょうか。

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ベルナンケ→バーナンケ→バーナンキ

色々貼り過ぎてわけがわからなくなったんで、バーナンキ自身について知りたいというお方のための些細な情報提供は別立てで。

ネット上で(日本語で)読めるバーナンキの論文“日本の金融政策に関する考察”(pdf)。

田中秀臣の「ノーガード経済論戦」(「バーナンキFRB議長就任と日本のリフレ」)とsvnseedsさんプレゼンツ便利なおまけも参照のこと(追記;田中秀臣著『ベン・バーナンキ 世界経済の新皇帝』も必見)。

日本語に翻訳されてる本は『マクロ経済学〈1〉入門編―マクロ経済理論』『マクロ経済学〈2〉応用編:マクロ経済政策』。そして最後に『リフレと金融政策』 。(追記;『日本の金融危機』(「第6章 自ら機能麻痺に陥った日本の金融政策」)もありますた)

祭りの後に(少しばかり落ち着いた頃に)ででもご覧になっていただければ。

            ______  わっしょい!
          /,/-_-_-_-_-_\ わっしょい!
     ( ( /,, /  バーナンキ \わっしょい!
       (。'。、。@,。,。,。,。,。,。,。,。,。,。,。@ ) )
       ∩ヽヽ∩ヽXXXXXXXX/ ∩
         i||i ∩ i||i:||::::¥_][_¥::::||.i||i
       †人=†††¶┌┐¶††††
  /■/■ /■\/■\]  /■\■\
 (´∀( ´∀( ´∀( ´∀`).□´∀` )Д´)
 ⊂|_| |つ|祭)~| |祭) ̄||祭) ̄|つ ⊂|_((|祭)
  |__〓」 _|=|_ 〓__ノ 〓二ノ〓二ノ) ( / (L
  し' (_(_ し(_) (_)_)し(_)し(_)し

FRB→Apple100% blog→?(次は何処へ)

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バーナンキ! バーナンキ!

バーナンキのFRB議長指名を記念して関連リンク先をご紹介。

Brad DeLong’s Semi-Daily Journal

Bernanke as Inflation Fighter http://delong.typepad.com/sdj/2005/10/bernanke_as_inf.html バーナンキがインフレ許容的であるというのは全くの誤解である。バーナンキは政権の言いなりであり、財政赤字の拡張を原因とするインフレギャップの拡大を放置するだろうという観測は間違っている。彼はグリーンスパン同様に物価安定を目指して粛々と政策運営に従事するはずである。

The Economist on Ben Bernanke http://delong.typepad.com/sdj/2005/10/economistcom.html バーナンキは金融緩和へと偏しすぎている(erring on the expansionist side of monetary policy)=インフレ許容的である、とのThe Economisit誌のバーナンキ評に反論。The Economisit誌の記者は、バーナンキのスピーチ―FRBはアメリカ経済がデフレに陥る前にデフレを食いとどめる力を有している(デフレは金融緩和によって事前に回避可能である)―の意図を誤解(デフレ回避のための金融緩和以上のことを意味していると理解=足元の経済状況いかんにかかわらず金融政策を緩和ぎみに運営するのではないか)しており、バーナンキはインフレ愛好的であるために(=財政赤字の拡大を許容)ブッシュからの指名を勝ち得たのである、との胡散臭い噂に振り回されているだけである。

The Press's Definitive Word on Ben Bernanke http://delong.typepad.com/sdj/2005/10/the_presss_defi.html Ben BernankeのFRB議長指名はHarriet Miersの連邦最高裁判所判事の候補者指名とは正反対の、驚くべきほどまっとうな選択である。

Marginal Revolution; 

Ben Bernanke http://www.marginalrevolution.com/marginalrevolution/2005/10/ben_bernanke.html 中央銀行総裁が備えるべき資質(経済データやマクロ経済への知識に精通しているか、外国やウォールストリートから信用を勝ち得ているか・・・etc)をバーナンキが有しているかどうかを採点。結果は・・・上々といったところか(今後の仕事ぶりを見てみないことには結論を下せないってところもありますかね)。

Ben Bernanke, economist http://www.marginalrevolution.com/marginalrevolution/2005/10/ben_bernanke_ec.html バーナンキの学者としての業績の簡単な紹介。バーナンキの経済学への貢献として、irreversible investment(不可逆的投資)の理論/金融政策のトランスミッションメカニズムとしてのクレジット・チャネルの重要性を提唱したこと/インフレーション・ターゲティング研究/大恐慌(Great Depression)研究/グローバル貯蓄過剰論(The global savings glut)、の計5つの業績を挙げる。

EconLog;                     

Bernanke's Nomination http://econlog.econlib.org/archives/2005/10/bernankes_nomin.html バーナンキは(リバタリアンにとっても)中央銀行の長としてこれ以上望み得ないほど最高(適任)の人物である。歴史上何度も繰り返されてきた金融政策の失敗(とその結果としての景気の乱高下)を前にして、私(Caplan)は(リバタリアンの立場から)フリーバンキング論を主張してきたけれども、バーナンキはインフレターゲットを設定することによって(政策意図を明確化することで)金融政策の先行きに関する不確実性を可能な限り除去し、その結果としてインフレ率の低位安定を実現させ、もって中央銀行が経済の撹乱要因となることを避けようと努めてきた。多くの点で意見の違いはあろうが、バーナンキを(かつての教師への配慮という理由からではなくして)賞賛するのはそのためである。

Econbrowser;

Ben Bernanke: new Fed chair http://www.econbrowser.com/archives/2005/10/ben_bernanke_ne.html バーナンキが次期FRB議長に選任されたということは大変喜ばしいことだ。バーナンキはFedの政策研究―Fedが大不況(the Great Depression)や戦後の景気循環に及ぼした影響について―を通じてアカデミックの世界に多大なる貢献をしてきた。バーナンキ新体制のFRBに対してもこれまで同様学者しての特権―金融政策を好き勝手に、けちょんけちょんに貶す=批判する―を振り回すことになるだろうけれども、批判をぶつけるに際してバーナンキの業績(=上記のアカデミックな貢献)・人柄に対する敬意は忘れないつもりである。

New Economist;

Ben Bernanke to replace Greenspan as Fed Governor http://neweconomist.blogs.com/new_economist/2005/10/ben_bernanke_to.html ついにホワイトハウスにおいて良識が勝つときがきた。これまでのホワイトハウスの政治的任命職に関する判断には疑問符がつくものばかりであったけれども、今回次期FRB議長としてバーナンキが指名されたのである(注;記事は正式な指名前に書かれたもの。よって、バーナンキ指名の可能性が濃厚になってきた、とするのが正しい)。バーナンキはグリーンスパンの後任候補の最右翼と目されてきており(経済学者としてだけではなく、FRB理事として/CEA委員長として実務の世界でも実績を積み上げてきたことの結果でもある)、グリーンスパンとは違って党派的色合いの薄い(またインフレターゲティングの導入に積極的な)人物である(FRB議長として誰もが納得する指名だろう)。今後の活躍に是非とも期待したいところだ。

Bernanke round-up http://neweconomist.blogs.com/new_economist/2005/10/bernanke_media_.html バーナンキ指名に関する識者・各種メディアの意見を紹介。〔好意的な見解;Ben Bernanke Has a Lot Going for Him to Make It(John M. Berry)〕バーナンキはFRB議長として幾分か有利な(望ましい)立場に置かれている。かつてFRB理事を務めていたことから、(1)FOMCの他のメンバーの考えについてある程度の理解を有していること、(2)FRB議長としてFOMCメンバー間の意見の一致をどのようにして図るか、その(グリーンスパンによる)手際を間近で観察する機会が得られたこと。FOMCメンバーとの間に政策目標に関する意見の一致―インフレをコントロール下に置くこと(low and stable inflationの実現を最優先課題とすること)、また安定した低インフレは雇用の最大化(maximizing sustainable employment)にも貢献すること―が存在すること。アメリカ経済の現状は決して予断を許さない状況ではあるけれども、(就任わずか2ヵ月後に株価大暴落=「ブラックマンデー」に対処せねばならなかった)グリーンスパンに比べればバーナンキにはFRB議長の仕事に慣れるだけの時間的余裕があること、等々。〔否定的な見解;Transparency Wins, Fed Leaks Lose, With Bernanke(Caroline Baum)〕グリーンスパンと比較して、学者としての経験からバーナンキは経済モデルに頼りがちである(モデル思考に親しみやすい)。モデル思考が問題だということの意味は、現実の経済はモデルが予測するようにはいかないということ/モデルから導かれる予測が結果として誤りであったということでは必ずしもない。モデルに過度に依存することが耐久期間を過ぎたモデルにいつまでもしがみついてしまう危険性を孕んでいるがゆえに問題なのである。

Economist's View;

Nomination for Next Fed Chair: Ben Bernanke  http://economistsview.typepad.com/economistsview/2005/10/nomination_for_.html バーナンキとグリーンスパンの違いは何だろうか? バーナンキはグリーンスパンのように政治的な議論には口を突っ込まないだろうし(バーナンキが共和党支持者だということは、多くの仕事をともにした同僚(ガートラー、ブラインダー)でさえも長らくの間全く気付かなかった。バーナンキは党派的な意見を主張するのを避ける傾向がある;中央銀行総裁としては望ましい性質ではある)、グリーンスパンが嫌ったインフレーション・ターゲティングの導入に対して(=政策目標をヨリ明確にするために、また更なる透明性の向上のために)ヨリ積極的であるだろう。

Will the Bernanke Fed Retain Its Inflation Fighting Credentials? http://economistsview.typepad.com/economistsview/2005/10/will_the_bernan.html バーナンキはグリーンスパンほどにはインフレ(あるいはインフレの加速)の阻止にコミットしないのではないかとの疑念に対して、バーナンキ自身のスピーチ“A Perspective on Inflation Targeting”を引用して反論。1970年代のGreat Inflationは突発的な石油価格の高騰によって引き起こされた(不可抗力の)現象ではなく、過度の金融緩和とその結果としてのFedのインフレをコントロールする能力(あるいは意思)への(国民からの)信認の崩壊によって引き起こされた(人為的な)惨事であった。Fedのインフレ・ファイターとしての信認を回復するために(ヴォルカー時代のディスインフレ過程において)アメリカ経済が払わざるを得なかった犠牲も併せて鑑みるに、中央銀行のインフレ阻止へのコミット(とそれを裏付ける行動)の重要性は論じるまでもないだろう。“in conducting stabilization policy, the central bank must also maintain a strong commitment to keeping inflation--and, hence, public expectations of inflation--firmly under control”(景気安定化政策としての金融政策を効果的なものたらしめんとするにあたっては、インフレーションを(そして民間経済主体のインフレ期待を)低位安定させんとする中央銀行の力強いコミットメントが必要不可欠になってくる)。

Bernanke on Interest Rates, Monetary Aggregates, and How Monetary Policy Impacts the Economy http://economistsview.typepad.com/economistsview/2005/10/bernanke_on_int.html

Ben Bernanke: We Cannot Practice Safe Popping http://economistsview.typepad.com/economistsview/2005/10/ben_bernanke_we.html

Should FOMC Meetings be Televised? http://economistsview.typepad.com/economistsview/2005/10/should_fomc_mee.html FOMCでの政策決定過程をヨリ透明化するための手段としてテレビ中継を導入(FOMCでの議論の様子をテレビで放送)すべきかどうかについてバーナンキとウィリアム・プールの所説を紹介。ヨリ多くの情報が提供されることによってその分市場によるFedの政策意図への理解が深まるとは単純にはいえず、逆に余計な情報や誤解を招きかねない(解釈の余地のある)表現が画面を通じて直に伝わることで市場の判断を歪めてしまう恐れなしとはしない(バーナンキ)/テレビ中継によってFOMCのconfidentiality(=秘密性、秘匿性)が損なわれるために、匿名を条件として個別企業から提供される情報がもはや得られなくなってしまい(←その結果として経済予測の精度が損なわれるかもしれない)、また政策委員がテレビ(の奥にいる聴衆)を意識してしまうがために(テレビの存在がなければ心置きなく率直に議論できるはずであった)物議をかもしかねない話題(失業率の上昇を招きかねない政策決定etc)を議論の俎上に乗せることを厭うようになりかねない(プール)、として両者ともにFOMCへのテレビ中継の導入には否定的。ただし、プールはテレビ中継によって提供される情報が(視聴者の誤解や無理解が原因となって)意思決定の撹乱要因となりかねない(=バーナンキの見解)との議論には組しない(テレビを通じてFOMCの様子をチェックするような人間は専門家だけであり、彼らが政策委員の一挙一動に振り回されるようなことはないだろう)。

Will Bernanke Speak Up? http://economistsview.typepad.com/economistsview/2005/10/will_bernanke_s.html FRB議長は国民経済全体の奉仕者であるべきであって、個人的な考えを前面に押し出し、またそれ(=党派的な個人的見解)を具現するためにその職業的立場を利用するべきではない。バーナンキが共和党員であるとか財政赤字削減論者であるとかいった党派的な立ち位置はFRB議長としての彼の活動とは一切関係のないことだ。FRB議長が財政赤字や政府債務の水準に関して発言することが許されるのは、財政の状況がマクロ経済、ひいては金融政策運営に影響を及ぼす可能性があるときに限定されるべきであるし、バーナンキもその点は(彼の過去の発言から判断して)十分にわきまえているだろう。

Greg Mankiw: Questions Bernanke Must Be Asking Himself http://economistsview.typepad.com/economistsview/2005/10/greg_mankiw_que.html マンキューによるバーナンキ宛ての3つの質問―FRB議長としてバーナンキが自問自答すべきとマンキューが考える質問―。①如何にしてインフレーション・ターゲティングの導入に道を開くことができるであろうか(How can I advance inflation targeting? )→グリーンスパンは目標とすべきインフレ率(あるいはそのレンジ)を数字として明確に掲げることには反対の意向を示したけれども(そして実際に特定のインフレ率の達成にコミットすることはなかったけれども)、暗黙ながらも1~2%のインフレ率を目標として政策運営に従事していた節がある。インフレーション・ターゲティングの導入は金融政策運営の変更(ないしレジームの転換)というよりも市場とのコミュニケーション手法の変更(グリーンスパン流の“covert inflation targeting”からexplicit inflation targetingへ/目標とするインフレ率をグリーンスパン一個人の頭の中から万人の眼前に曝け出す)として捉えられるべきであり、実際の政策運営(やFOMCの声明等)を通じて中長期的なインフレ予測(ならびにFOMCメンバーの想定するインフレ率の目標)を市場に伝達することで徐々にインタゲ導入の足場が固められていくことであろう(大々的にインタゲ導入を宣言する必要はないかもしれない)。②FRB議長としてどの範囲の議論にまで口出しすべきであろうか(How broadly should I offer opinions?)→ FRBの政治的な(制度的な)独立性(←議会によって付与されたものであり、また議会によって容易に剥奪されるものである)を危険な目に晒さないためにも、FRB議長としては金融政策や金融システムの動向に関連する議論、経済学者の間に広範なコンセンサスが存在する議論等党派的・感情的な対立を引き起こす蓋然性の少ない議論への参加に限定すべきである。③FRB議長としての私個人に一般の人々からどれだけの注目を集めるべきであろうか(How high a profile should I adopt?)→金融政策はFRB議長一人の個人プレーで決定されるべき性格のものではなくて、FRBという制度(そして背後のいる多くの専門家)によって実施・運営されるのものである(し、そうあるべきだ)。バーナンキはFRB議長として退屈な、何の面白みのない人間を演じ(大衆から注目を集めるような派手な行動は慎むべきである)、大衆の注目を個人(例.グリーンスパン前議長)から制度としてのFRBへ差し向けるよう(決して目立つことなく)励むべきだ。

詳細はGregory Mankiw、“A Letter to Ben Bernanke(pdf)”を参照のこと(体裁は違えど内容はほぼ同じ)。

The Greenspan Succession(by P.Krugman); http://www.pkarchive.org/column/012505.html(いちご経済板にてcloudyさんがご紹介されておられました。今回の議長指名をうけての記事じゃありませんが)

Bernanke and the Bubble(by P.Krugman);http://donkeyodtoo.blogspot.com/2005/10/bernanke-and-bubble-by-paul-krugman.htmlgachapinfanさんによる邦訳と照らし合わせてみるにどうやら原文のようです。なんとなく後ろめたいけれども・・・)

svnseeds’ ghoti!(svnseedsさん。バーナンキがFRB理事時代に行ったスピーチへのリンクをまとめておられます。一番のお奨めです);http://d.hatena.ne.jp/svnseeds/20051025

おまけ(祭りの様子を冷静に分析されている方々):

Baatarismの溜息通信(Baatarismさん);  http://d.hatena.ne.jp/Baatarism/20051025

Apple100% blog(fhvbwxさん。「バーナンキ祭り」の樹形図);http://d.hatena.ne.jp/fhvbwx/20051025/p4

                  バーナンキ!!
     \\  ゑーぢゃなゐか! ! //
 +   + \\ ゑーぢゃなゐか! !/+
                            +
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      ( ´∀`∩(´∀`∩)( ´∀`)
 +  (( (つ   ノ(つ  丿(つ  つ ))  +
       ヽ  ( ノ ( ヽノ  ) ) )
       (_)し' し(_) (_)_)

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2006年4月18日 (火)

Christierninというヒト

Thomas M. Humphrey、“Classical Deflation Theory”(Economic Quarterly, Vol. 90 No. 1, Winter 2004)

Absent in much of the recent worry over falling prices is the recognition that deflation is hardly a new topic or a new event. Classical (circa 1750-1870) monetary theorists, in particular, had much to say about it.

・・・Generally, classicals wrote during or following periods of wartime inflation under inconvertible paper currencies. At such times the government had committed itself to return to gold convertibility at the pre-war parity. Such restoration, of course, meant that the price of gold, goods, and foreign exchange—all of which had risen roughly in the same proportion during the war—had to fall to their pre-inflation levels. Achieving these price falls, however, required contractions of the money stock and so the level of aggregate nominal spending.

・・・The foregoing classical contributions have never been given their due recognition. To the best of this observer’s knowledge, no systematic survey of classical deflation theory exists. Instead, one sees references to the neoclassical
(circa 1870–1936) literature featuring contributions such as Irving Fisher’s debt-deflation theory, his distinction between real and nominal interest rates, Knut Wicksell’s notion of a painless fully-expected deflation, and Willard Thorp’s empirical finding (see Laidler 1999, 187, 217, 223) of a relationship between secular deflation and the frequency, severity, and duration of cyclical depressions.・・・While these and other concepts of the neoclassical literature are well known, the classical literature, by contrast, is largely ignored. This article is an attempt to repair this deficiency.

世界的なインフレ率の低下傾向とデフレ不況にあえぐ日本経済の現実を前にして、デフレに関する歴史的経験やフィッシャーやヴィクセルといった過去の経済学者のデフレ分析に高い注目が集まっている。そんな中見過ごされていることがある。デフレは何も今にはじまった比較的新しい現象ではなく、また18世紀末のヴィクトリア朝デフレや1930年代の世界大恐慌だけがデフレの先例ではない、ということである。17~18世紀にかけて金本位制からの離脱とそれへの復帰に際してインフレとデフレを繰り返した歴史が存在し、また足下で進行するデフレがマクロ経済に対しいかなるインパクトを有するかを同時進行で分析した(またその分析結果からデフレの弊害について警告を発した)経済学者が(フィッシャーやヴィクセルに先立って)存在したのである。Classical Deflation theoryの代表的な論者6人―David Hume, Pehr Niclas Christiernin, Henry Thornton, David Ricardo, Thomas Attwood, Robert Torrens―のデフレ分析を再訪し、Classical Deflation theoristに対して当然向けられるべき注意(そして賞賛の声)を喚起しよう、ってのがHumphrey論文の趣旨。今回はClassical Deflation theoristの中からスウェーデンの経済学者Pehr Niclas Christiernin(1725–1799)のデフレ分析について簡単にまとめておきます。以下過度の金融引締めがデフレを伴う景気停滞を結果するChristierninによる理由付け(p6~p9参照)。

・価格/名目賃金の(短期的な)下方硬直性(“It is easy for prices to adjust upward. . .but to get prices to fall has always been more difficult”)

商品の販売価格や名目賃金は速やかに調整されないために(生産量が販売量を上回る結果在庫が(望ましい水準以上に)積み増される現実を目の前にしてはじめて企業は価格引下げに乗り出す/労働者は従前の賃金水準ではもはや雇用される可能性が小さいことを理解してはじめて賃金引下げを受け入れるようになる)、金融引き締めによって名目総需要が縮小すると生産や雇用の抑制が引き起こされる。また名目賃金の下落は商品価格の低下に遅れをとるため実質賃金が高止まりし、その結果として企業利潤が圧縮されるために操業度が引き下げられることになる(在庫が積みあがる結果としても操業度は引き下げられる)。

・消費と(設備)投資の低迷(“A reduction of bank notes from circulation reduces everyone’s consumption and the output of all sectors [including that of the capital goods sector]. The lack of capital [to equip labor and enhance its productivity] means unemployment and less industriousness among the working class, which results in less output”)

金融引締めは消費需要と設備投資需要の縮小を招く。設備投資需要の低迷は循環的な景気停滞の一要因となるばかりではなく、潜在GDP(ないし生産性)の低下にも寄与するかもしれない。

・名目為替レートの増価=価格の硬直性が前提されているために実質為替レートの増価と同値(“a reduction in the price of foreign exchange . . . would have the worst possible consequence for commerce and industry throughout our nation”)

金融引締めによる所得の低下によって外国通貨を含む貨幣需要が低下するために為替レートが増価。為替レートが増価する結果として外国製品との価格競争力が低下し、輸出の縮小・輸入の増加が引き起こされる。為替レートの増価は輸出企業と輸入競合財を生産する企業の生産縮小・雇用抑制を結果することになる。

・一括固定税負担の増加(nominal lump-sum “taxes . . . levied and paid in money . . . form a heavier burden . . . when . . . prices fall since more labor and goods are required to pay the same tax”)

デフレ下においては名目値で固定されているランプ・サム税の実質的な負担が増加するため、家計や企業活動の重圧となる。

・デフレ期待による貨幣退蔵(“Deflation . . . increase[s] the need for money because of speculation and hoarding. When it was known that bank notes were becoming more and more valuable as a result of reductions in the money supply and that all prices in time would consequently fall, everyone would await that time and in the interim would not purchase more than the bare essentials”)

将来もデフレが続くと期待することにより貨幣の退蔵・消費の抑制が生じる。将来価格が十分低下したときまで消費を延期しようとする誘因が働くためである。

・デット=デフレーション

“When prices fall . . . the debtor must work longer and sell more commodities in order to retire his [fixed nominal] debt”. “[D]ebt . . . become[s] correspondingly more difficult to service and to repay. . . . Bankrupts . . . follow and the failure of one would pull down several more”. A debt-deflation spiral ensues as “all debtors . . . wish to sell all they had in order to pay off their debts before prices fell further”. Sellers hoping to beat the price fall flood the market with goods only to find that consumers “would not buy except at a low price and even if they did buy (and the debts at the bank were repaid) the refunding of the principal to the bank would cause a new reduction in the circulation of money”. The result would be “nothing short of a complete credit breakdown” as “creditors [would] not dare loan their money for fear of debtors’ inability to pay, and borrowers would not negotiate any loans because the fall in prices would [by reducing creditors’ willingness to lend and so raising interest rates] mean they would have to pay more for less”.

もはや説明は要らないような気もしますが。デフレによって(名目値の固定されている)債務の実質的な負担が増加→デフレが今後さらに進行してしまう前に(債務の実質的な負担がこれ以上重くなってしまう前に)債務を返済しようと多くの人々・企業が我先にと資産や商品の投売りに走る→価格の一層の下落→債務の実質的な負担が増加→価格の下落→・・・・。この過程において債務不履行や倒産・破産が生じ、また資金貸借市場の機能麻痺が顕在化することになる(債務不履行を忌避して貸し出しが低迷、またデフレやリスクプレミアムの高まりによる実質資本コストの上昇により借入れ意思も弱化するため)。

Christierninが(上記のデフレ分析を展開した)その著書“Lectures on the High Price of Foreign Exchange in Sweden”(1761)を書くにいたった理由を理解するためには当時のスウェーデンがおかれた状況を知る必要がある。スウェーデンは1745年に兌換通貨の発行を廃止し、管理通貨制度に移行、1755年に始まる七年戦争(1755~1762)の期間に紙幣の過剰発行によって高いインフレ率に悩まされていた。インフレ率を低下させ、現在の高い物価水準を戦前の物価水準まで低下させるためにはデフレも辞すべきではない、との政治的な声が高まっていたちょうどその時、デフレ政策への反対の論陣を張るためにChristierninは上記の書物を著す。物価水準が高いことが問題なのではなく、物価水準が変化すること(インフレ率が上下すること)が問題なのである。現在の(戦前に比べて上昇した)物価水準を一定に保ち、賃金・価格決定(ないしは経済的な意思決定)にとって安定的な環境を維持することこそが重要なのである。物価を下落させて(デフレを発生させて)経済を苦境に貶めることがあってはならない(To do so(=デフレを引き起こすこと) when the “entire priceand wage structure” had become “fully adjusted to the current [depreciated] value” of the currency would be to “destroy our . . . prosperity” and plunge the economy into a slump)。

1768年スウェーデンの政府当局はデフレ政策に乗り出し(約15%の物価下落)、スウェーデン経済は不況の苦しみの中に投げ込まれることになる。経済学の「敗北の歴史」(=経済学者による説得の失敗;若田部昌澄著『経済学者たちの闘い』(エピローグ)参照)は18世紀スウェーデンにも存在していたわけである。

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裁量と規律の間

表題からdiscretion、rule→time inconsistencyと連想した方は早とちり。話は70年前に遡ります。ネタ元は以前紹介した竹森教授の「世界デフレは三度来たる」(講談社BIZより間もなく刊行予定。の二巻組み)。

深井英五。1901年に日銀に入行し、1922年に開かれたワシントン会議・ジェノバ会議に出席した際には日銀理事という肩書きを持っていた。ジェノバ会議で「金本位制へ復帰する」という国際公約をしたことが、後々日本が旧平価での金解禁へと追い込まれていった一つの要因であるといわれるが、このジェノバ会議の最終決議の起草に関してその背後で深井の働きかけがあった。

「審議の対象になったところの新規考案は、趣旨において金本位制の本質を動かすものではないが、言葉の上において、金本位制を大々的に改造し、これによって実行上の困難を除去することができるような印象を与える懸念があった(イギリス政府の要求はケインズの新平価での金本位制復帰という意見に沿うものであった:引用者)。それでは通貨政策上の心構えを妥当な方向に転換させる効果が少ない。また、誤解により安易に金本位制の再建に着手して頓挫する恐れもある。そうであるために、私は決議案全部にわたり出来るだけ言葉の調子を改めることを希望した。・・・審議中の案文には、切り下げ(新平価の採用:引用者)それ自体を良いこととして推奨するようなきらいがあった。その結果、容易に切り下げを行うことを問題としないような風潮が生まれるならば、一旦金本位制を再建しても、これについての信用を確保し難い。」(『月刊現代』2004年8月号、p260、深井『回想70年』からの引用)

平価の切り下げを安易に認めてしまえば「通貨政策上の心構えを妥当な方向に転換させる効果が少ない」。金本位復帰は旧平価で断行されねばならない。ジェノバ会議での国際公約(そしてその後の金解禁)は、外圧の結果というよりはむしろ日本自ら(深井の画策)が蒔いた種だったのである。

深井のこの言葉だけを見れば、一見金本位心性に浸りきった頑固者の発言(ハーディング米大統領の「正常に帰れ」(come back to normalcy)という一語に集約される考えに似てなくもない)のようにも思われる。しかしながら、深井の視線ははるか遠くを見据えてた。再び深井の言葉を引用(あまりにも長々と引用しすぎて申し訳ない気持ちもあるが)。

「金本位制は、通貨の状態を堅実に維持するには適当な制度であったと思われるけれども、通貨発行の条件が窮屈で、融通性が少ない。・・・(金本位制崩壊後:引用者)多数の国において通貨の発行が無軌道に陥り、国内経済の不安定と国際為替の混乱とを招来した。この状態を正常に戻すと同時に、従来の金本位制の窮屈を免れる手段はないだろうかという一般の希望に併行して、通貨理論の研究と新貨幣制度の工夫とが行われたのである。・・・金本位制の束縛がないのに乗じて、目前の便宜のために通貨の発行を放漫にする風潮が生じたのであるが、これを妥当に節約するための新制度も案出されず、単に節制の必要を説いてもその規準を示すのでなければ効果がない。そうかといって、金本位制への復帰はなかなか容易ではない。ただ金本位制を信頼し、その回復を希望する一般の感想はすこぶる濃厚に存在していたから、金本位制への復帰を通貨整理の目標として掲げて、これに向って準備を進めることにするならば、それが一つの規準となって、自然に通貨の発行に制限が加えられるだろう。放漫な通貨の発行を要望するものに対しては、それが金本位制回復の準備と相容れないものだという理由によって了解を求めることもできるだろう。しかしながら本当にやむをえない場合には、その方針から外れることができる融通性も残っているから、実情に応じて妥当な通貨政策の実験をなし得るだろう。このような目的をもって金本位制への復帰を標榜するには、目前の便宜のためにその緩和改造を工夫するよりも、一応厳格な金本位制を目標としたほうがよろしかろう。」(同上、p255~256)

竹森教授はこの一連の深井の発言を以下のように解釈する。金に束縛されない現状の放漫な通貨発行を抑制するために「金本位制への復帰」という規準を立てておく(更なる通貨発行を要求する者に対して「金本位制回復の準備と相容れないものだ」として拒否するための道具立てとして利用)。しかしながら金本位制は「通貨発行の条件が窮屈で、融通性が少ない」。完全な裁量でもなく完全な規律でもない、ほどほどの裁量(「本当にやむをえない場合には、その方針から外れることができる融通性も残っているから、実情に応じて妥当な通貨政策の実験をなし得るだろう」)とほどほどの規律を通貨発行(金融政策)に課すためにあえて「金本位制への復帰」というスローガンを利用する。金本位制へ復帰する気持ちなどさらさらないにもかかわらず(ジェノバ会議での深井の画策の意味もこの文脈において新たな観点から理解されるようになる。「「新平価」では、「誤解により安易に金本位制の再建に着手して頓挫する恐れもある」・・・逆に言えば、めったなことでは「金本位制」を本気で採用しようなどと思わないように、「金本位制」を採用するためのハードルをうんと高くするのである。なぜ、「金本位制」を採用してはいけないのか。それは、深井が「通貨発行の条件が窮屈で、融通性が少ない」と、金本位制についてネガティブな評価をしているためかもしれない。」(同上、p261))

実に狡猾で、政治的な駆け引きに長けた人間である。世間一般の「金本位心性」をうまく利用して「金本位制への復帰」という政治課題への賛同を集めておきながら、自分自身の手により金融政策の手を縛りすぎてしまう「金本位制」への復帰の道を閉ざしておく(実際には金の縛りを求めて日本はデフレへの道を突き進んでいくことになるが)。インフレーション・ターゲティングの意図を先取りするものといえば言い過ぎになるが、政策の裁量と規律の間のバランスに配慮する気配りの先見性についていくら強調してもしすぎることはなかろう(竹森教授の解釈が卓越したものであるのかもしれないが)。

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歴史の教訓

東西冷戦の終結に伴い、東側諸国が次々と世界経済へと参入した結果として(あるいは技術革新の著しい進展によってというパターンもあり)世界的な過剰供給状態に陥った。安価な労働力を背景とした中国による輸出攻勢を主力として割高な日本の物価が国際経済の標準的物価体系へと収斂してきている。アメリカというお手本を模倣していればよかったキャッチアップ段階においてはその優位性を発揮した日本型と形容される諸経済制度も、自分自身の力で次代の経済像を創造していかねばならぬ今後においてはそのままでは通用しない。

「デフレ」は経済環境の「構造的な変化」の結果として不可避的な現象なのであり、この「デフレ」経済に適応するためには日本経済のあり方を根本から変えなければならない。日本経済の「構造」を改め、世界経済の「構造的な変化」に対応した姿に変わらなければならない。財政・金融政策のような「小手先の」総需要喚起策は、一時的な気休めにしか過ぎないのであって、底流で進行する「構造的な変化」の圧力を押し止めることはできない。日本経済の「構造改革」はいつの日か必ず実施せねばならないことであり、その過程で生じる「痛み」を恐れていつまでも逃げ続けているわけにはいかないのだ。

現在の日本が経験しているデフレは実に70年振りの出来事である。70年前といえば2世代以上前の時代である(1世代が正確に何年にあたるかはわからないが)。当時の記憶が薄れ風化していくには十分な時間が経過している。我々が現在体験している出来事は未曾有の事態であり、これまでのやり方では通用しない(あるいはデフレを想定していないこれまでの経済学は何の役にも立たない)とつい感じてしまうのも仕方がないのかもしれない。いや、70年振りであること自体が非常事態であることの証左と考えてしまうことにつながるのだろう。デフレは必然的な現象であり抗うことはできないのだ、とデフレを絶対視してしまう気持ちもわからないではない。しかしながら、「歴史の教訓」は「小手先の」総需要喚起策によってデフレから脱出することはできるし、「痛み」に耐えなくともデフレを回避することが可能であることを示している。「歴史の教訓」を無視して無用の「痛み」に苦しまないために、薄れた記憶を掘り起こしデフレという経験を相対化する必要がある。

第4回読売・吉野作造賞を受賞した『経済論戦は蘇る』の著者である竹森俊平教授が総合雑誌『月刊 現代』において「世界デフレは三度来る」という連載をしておられた。19世紀後半の「ヴィクトリア朝デフレ」(「金・銀問題調査委員会」におけるマーシャルの貨幣制度改革案(イギリス)、「1873年の犯罪」「金の十字架演説」(アメリカ)、「松方デフレ」(日本)等のトピックを扱い、英米日のデフレ体験を取り上げる)と1930年代の世界恐慌(井上準之助とストロング・ノーマン・ラモントら国際的な銀行家との触れ合いを軸に議論を展開)という歴史上の世界的なデフレ体験を、「その時代を生きた人間の姿」を前面に押し出すことで、実に活き活きと、臨場感溢れる描写により再現している。中央銀行の行動ルールとしての「マーシャル・ルール」(公開市場操作による物価安定を提案)、シュンペーターによる「金本位心性」についての記述の紹介(田中先生のブログコメント欄参照)、「オズの魔法使い」に秘められた意図、高橋是清と清朝の貨幣改革に尽力した張之洞との対話、福沢VS松方etc興味の尽きない話題が満載であり、歴史を学ぶことの楽しみをしみじみと実感させられる。

その中でも特に「貨幣制度調査会」(「松方デフレ」期の日本)での経済学的な認識に基づいた議論のレベルの高さには仰天した。竹森教授によって「構造デフレ」論への「過去からの反駁」として引用されている貨幣制度調査会報告書を孫引きしておこう。

あるいは金貨国における物価の下落を解釈するに他の一説をもってするものがある。いわく、学理の応用、機械の発明、交通の発達等は、大いに生産費用を削減し、生産を増加したことは間違いないから、最近物価の下落したのも主にこれが原因ではないかと。・・・(学理の応用etcは)とくに最近二十余年間に限られるものではなくて、その以前からも生産は、どんどんと増加していたことは疑いがない。いわんや、物価がいちじるしく下落したのは、最近3年間のことであり、この3年間に学理の応用、機械の発明等がいちじるしく進歩した事実がないことも論を待たない。(『月刊現代』2003年10月号、p216)

そして、(金本位国での)デフレは普仏戦争での賠償金を元手としたプロシアの金本位制への移行を契機とするScramble for Goldの結果としての金への相対的な需要増加/金生産に比しての銀生産の相対的な供給増、によって発生した「金高・銀安」の傾向が原因であるとの結論に至り(デフレは金融的な現象であるとの認識)、「金高・銀安」が生むインフレ・デフレがマクロ経済へいかなる経済効果を及ばすかについても仔細に検討している。

「ケインズとほぼ同じことを言っている者」として紹介されている貨幣制度調査会のメンバー・益田孝の言葉も引用。

世界の貨幣制度が金銀の両金属を使用している間は、どの国も貨幣価格の変動とそれから生じる経済困難を免れることは決してできない。時には金の産出が大きく増加することがあり、また時には銀の産出が増加することがある。それだけではなく、ある国が事情によって金貨本位制度を採用し、そのために一時的に金の需要が増加することもある。そうかと思えば、銀の生産がどんどん増えて、そのために本位通貨を変更しようとすることもある。このような事情が重なれば、金銀価格に変動が生じてくることは、これまでの歴史データからして明らかなことであって、今後も二つの金属が貨幣であるかぎり、いつまでたっても、その価格変動を防ぐことができないことは、はっきりしている。・・・世の論者がいろいろと議論して、一つの金属を本位通貨にしろと提案をする場合にも、結局はその時の状況によってその結果が良く出るかどうかが決まるのであって、決して普遍的に最善な通貨制度というものがあるわけではない。(同上、p225)

「歴史の教訓」としては....

1.デフレは貨幣的現象である(あった)

2.「構造的な変化」を経ずともデフレから脱却可能(だった)・・・南アフリカでの金鉱発見と青酸カリを使った抽出法の適用による金生産の増加→(金本位国における)金融緩和と同値

3.金・銀の価格変動という偶然的な要因に左右されるような貨幣制度は避けるべき

(4.政府の調査会の場において経済学的な認識に基づいて議論が展開されていたこと(教訓というか驚きないし羨望))  

70年前どころか一世紀以上前の「歴史の教訓」について長々と書いてしまった。昭和恐慌については機会があれば、というよりも『昭和恐慌の研究』を参照。お金をもらってるわけではありませんので 笑。

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2006年4月17日 (月)

Foolproof Way

Lars E.O. Svensson,“Monetary Policy and Japan’s Liquidity Trap”(September 2005;スヴェンソンHPより。全文(pdf)ダウンロードできます)。

日銀によるゼロ金利政策/量的緩和政策は将来の短期金利の低下予想ないしは長期金利の低下には寄与しているかもしれないが、将来の期待物価水準を十分に高めることには失敗している(=量的緩和政策が長期間にわたって持続する(permanentである)と捉えられていない;将来の期待物価水準が上昇しているならばそれと同程度の(現時点での)円安(減価)が起こるはずなのにその兆候が見られない)。金融政策が名目金利の非負制約に直面している状況(=実質ゼロのオーバーナイト金利)では、既に低い水準にある将来の名目金利予想をさらに低下させるよりも将来の期待物価水準を高めることのほうが実質金利の低下、ひいてはデフレギャップの縮小に大きなインパクトを持つ。日本経済が流動性の罠から脱するためには、日銀と財務省が協調し(将来の期待物価水準を高めることに資する)Foolproof Way―物価水準ターゲティング(スヴェンソンによれば、95年以降(実際のデフレではなくて)CPI(生鮮食品を除く)が1~2%のインフレ率で上昇していたならば到達しているだろう物価水準経路を目標に現実の物価水準経路とのギャップを埋めてゆく。この想定のもとでは2000年時点での両者のギャップは3~8%になっている。2005年現在では11~23%。一年ですべて埋める必要はないけど)を設定し、その目標とする物価水準と整合的なレベルに(減価させたうえで)為替レートを一時的にペッグする。現実の物価が目標とする物価水準のパスに到達した後は為替レートペッグを放棄し、(景気過熱リスクやインフレ率の乱高下を回避するために)物価水準ターゲティングないしはインタゲに移行する(=(本来の?)出口戦略)。為替レートペッグの放棄前後では目標とするインフレ率は違ってきますね―を採用すべきである。

詳しい内容は後ほど追記するかもしれないけれども、同教授の開放経済下における名目金利の非負制約:流動性の罠を脱出する確実な方法(pdf)(IMES Discussion Paper J-Series,2001-J-6;『ポスト・バブルの金融政策』にも所収)と内容的にはそれほど変わらないので(簡略版といったところか)、そちらをお読みください。ってとっくの昔に読んでますかそうですか。ポール・クルーグマン著/山形浩生訳『クルーグマン教授の<ニッポン>経済入門』にも(一部)訳出されて・・・って知ってますかそうですか。

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オールド・ケインジアンの言い分

James Tobin, “Keynesian Models of Recession and Depression(pdf)”(コウルズ財団HPより。Tobinの他の論文も多数存在、CassやKoopmansのラムゼイモデルに関する論文や岩井先生の論文(不均衡動学やら)なんかも読めたりする)。

The real issue is not the existence of a long-run static equilibrium with unemployment, but the possibility of protracted unemployment which the natural adjustment of a market economy remedy very slowly if at all.(p195~196)

Even with stable monetary and fiscal policy, combined with price and wage flexibility, the adjustment mechanisms of the economy may be too week to eliminate persistent unemployment.(p201~202)

「長期には、われわれは皆死んでしまっている(In the long run, we are all dead)」。“the private market can and will, without aid from goverment policy, steer itself  to full employment equilibrium.”(p196)というような発言(ほっときゃ(市場の調整機能に委ねておけば)そのうち失業問題(不況)も解決されるよ)に対しケインジアンが反論を試みる際に度々持ち出されるケインズの言葉である。

長期的な完全雇用均衡(失業率が自然失業率(NAIRUでもいいが)の水準にある状態)の存在は否定しないけれども、また物価や名目賃金が伸縮的であることも認めるけれども、市場に任せておいただけではその完全雇用均衡にはなかなか到達し得ない(均衡への収束過程が緩慢であり非常に長い時間を要する)かもしれない。最悪の場合、経済は自力で完全雇用均衡に再び戻ることはできないかもしれない。「長期には、われわれは皆死んでしまっている」かもしれないということを説明しようと試みたのがトービンの本論文である。

詳しい議論は直接論文をご覧いただきたいが、ポイントは体系(WKPモデル)が安定条件を満たさない場合(大雑把に言えば、期待インフレ率が(実質)有効需要に及ぼす影響(the price change effect)が物価水準がそれに及ぼす影響(price level effect)を凌駕する場合;局所的には安定であるが大局的には(均衡からの乖離が大きくなるほど)不安定になる)、一度完全雇用均衡から乖離してしまうやいなや経済内部において自動的に均衡へと回帰する力は働かず、当該経済は先の見えない深刻な不況の泥沼に陥ってしまうことになる。政府による景気刺激策だけがわれわれを不況の苦しみから(死なせることなく!!)救うことができる(in the absense of countercyclical policy, the economy could slip into a deep depression(p201))。

price level effectはケインズ効果・ピグー効果・フィッシャーの負債デフレ効果等物価水準の高低が有効需要に及ぼす影響のことであり、the price change effectは期待インフレ率の変化が有効需要水準に及ぼす影響(フィッシャー効果(期待インフレ率の低下が実質利子率を高める等)、フローピグー効果)のことである(詳しくはp197を見てください)。不況が深刻になる(均衡からの乖離幅が大きい)ほど、例えばデフレを伴う不況の場合においてthe price change effectが安定条件を満たさなくなるほど大きくなる(あるいはprice level effectが弱まる)という。確かに物価の下落はケインズ効果・ピグー効果を通じて有効需要を喚起し不況を緩和するかもしれない。しかし、経済が流動性の罠に陥っていればケインズ効果は限定され、負債デフレ効果によってピグー効果も減殺される。結果として∂E/∂p(price level effect)のマイナス幅は小さくなる。一方、デフレ下において期待インフレ率がマイナスになる、つまりデフレ期待が抱かれるようになると実質利子率が高まることになる。流動性の罠に陥っていれば名目金利がこれ以上低下する余地がなくなり、実質金利は高止まりし続けることになる。高水準の実質金利が放置し続けられることで(トービンのQが低下することを通じて)設備投資や消費の低迷が長引くことになる。∂E/∂x(the price change effect)のプラス幅が高まり(∂E/∂p(price level effect)の影響が弱まることと相俟って)安定条件が満たされない可能性が高まる。

The relevant question is whether deflation will by itself lift the economy from the floor. Will deflation so augment private wealth that consumption rises above its floor level? Clearly this will not happen unless condition (3.4)(安定条件;引用者) is met at the depression income level.(p201)

デフレ下においてあるいはデフレ期待の存在により実質利子率が高止まりしている状態において、安定条件が満たされなくなる可能性が高い。ということは、デフレを伴う不況から脱して力強い景気の回復を現実のものとするためには自然治癒に委ねるよりも何らかの政策的措置を取る必要があるということか。

オールド・ケインジアンであるトービン教授が今からちょうど30年前にお書きになった論文でございます。

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洋の東西を問わず

「清算主義」的な考えというのはある種の普遍性を有しており、洋の東西を問わず人々を魅了するようである。Krugmanが“The Hangover theory”という論考の中で、オーストリア学派の景気循環論の背後に流れる清算主義的な世界観の匂いを嗅ぎ取り、批判を加えている。KrugmanはHangover theoryについて次のようにまとめている。

  • 不況は景気過熱の対価であり(slumps are the price we pay for booms)、不況で苦しむことは、行き過ぎた経済の拡張に対する欠くべからざる「罰」である(suffering the economy experiences during a recession is a necessary punishment for the excesses of the previous expansion)。                                         
  • 経済のチャートの上下を(株価の上げ下げやら、GDP成長率の変動やらを)一種の道徳劇―傲慢な振る舞いとその後の転落(お仕置き)の悲喜劇の話として―に読み替えようとする(It turns the wiggles on our charts into a morality play, a tale of hubris and downfall)。

この清算主義的なHangover theoryは1930年代の大恐慌時代に大きな役割を演じた。

Liquidationist views played an important role in the spread of the Great Depression--with Austrian theorists such as Friedrich von Hayek and Joseph Schumpeter strenuously arguing, in the very depths of that depression, against any attempt to restore "sham" prosperity by expanding credit and the money supply.

銀行信用とマネーサプライを拡張させて不況から脱出しようと試みることは、「見せかけ」の繁栄を取り戻そうとしているに過ぎない・・・・・。この主張の背後には次のような考えが控えている。

貨幣の膨張や向こう見ずな銀行貸付、後先考えない企業家の市場進出により投資ブームが手に負えなくなる時がくる。過剰投資の結果として経済に過剰なキャパが生まれ、全く稼動してない工場やテナントの見つからないオフィスがそこらじゅうにあふれ出す。大規模プロジェクトは完成するまでに時間がかかるから、経済の「不健全性」が露わになるまで多少の間は見かけ上の好景気が続くかもしれない。しかし、やがて投資家は破産し、これまで蓄積されてきた資本ストックは無駄で役立たずになる。これから始まる不況は、それ以前の経済の異常な拡張ぶりに比例して厳しいものとなり、「過剰な」供給能力が廃棄され、価格と賃金が異常な高水準から「正常な」水準へと下落し始めることによって、経済は健全な姿を取り戻すことになるだろう。また、失業は肥大化した投資財部門から消費財部門に向けて労働者が移動する過程で生まれる摩擦的なものに過ぎず(失業の大半は生産構造の調整に適応する過程で生じるものであり)、需要刺激策は生産の落ち込みによって労働者を吐き出すべき部門を延命させることで経済の調整過程を先送りしてしまう。経済の調整過程をスムーズに進めるためには無理矢理に景気を刺激するようなことは控えるべきだ。不況は経済が「正常な」姿に戻るために通らなければならないプロセスなのである。

Krugmanはこの議論の難点をいくつか指摘する。ここでは一点だけ取り上げておこう。

過去の無駄で向こう見ずな投資の責任を、なぜ現在の何の非もない労働者が失業という形で引き受けなければいけないの?(nobody has managed to explain why bad investments in the past require the unemployment of good workers in the present.)                                 

最後に、大恐慌期に景気刺激策を採ることを否定した論者へのホ-トレ-の言葉を。

彼ら(ハイエクたち)は、「ノアの洪水の真っ只中で“火事だ、火事だ”と叫んでいるようなものだ」。

デフレ下のこの日本において、インタゲつきの量的緩和はハイパーインフレを招くことになる、と主張する(心配の素振りを見せる?)人々に是非とも捧げたい言葉である。

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金では買えないもの

The gold standard and the Great DepressionEconbrowser by James D. Hamilton)。

Under a pure gold standard, the government would stand ready to trade dollars for gold at a fixed rate. Under such a monetary rule, it seems the dollar is "as good as gold."・・・Except that it really isn't-- the dollar is only as good as the government's credibility to stick with the standard.

・・・A gold standard only works when everybody believes in the overall fiscal and monetary responsibility of the major world governments and the relative price of gold is fairly stable. And yet a lack of such faith was the precise reason the world returned to gold in the late 1920's and the reason many argue for a return to gold today. Saying you're on a gold standard does not suddenly make you credible. But it does set you up for some ferocious problems if people still doubt whether you've set your house in order.

金本位制が円滑に機能するためには平価(=金と通貨との法定兌換レート)が変更されないあるいは政策当局はどんな事態が生じようとも平価維持に尽力するという評判・信用が確立されていなければならない。平価維持のコミットメントが信用されなければ投機アタックによる通貨危機を招きよせる危険が待ち構えている。(何が何でも平価を死守するという意味で)責任ある/信頼ある政府の存在なくして金本位制は機能し得ない。平価維持のコミットメントは通貨に金の縛りをかけることによって自動的に信用されるわけではなく、実際の政府当局による責任ある(=平価維持のためには犠牲(=国内経済の不安定化)も厭わない)行動によって裏付けられるものである。信頼は金(きん)では買えない、ってことですね。まあ、そこまでこだわる必要もないタイプの責任/信頼ですけども(金本位制あるいは固定相場制に固執する理由はありませんから)。Brad DeLong,“Why not the Gold Standard?”も参照のこと。

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理論に基づく政策提言

Pavanelli論文続き

自らの予測を裏切る形で進行する(“暗黒の木曜日”以降の)株価の下落傾向を前にしてもフィッシャーは依然として(1931年頃まで)楽観的な見解を有していた。

In 1930 and 1931 Fisher remained basically optimistic about the prospects of the American economy and continued to predict the imminent recovery of stock prices. In any case, he affirmed repeatedly, it was not at all inevitable that the crisis in the financial markets would spread to the real economy. The depression, in other words, could be avoided as long as businessmen did not let themselves be dominated by pessimism and did not cut back their production plans.

将来性豊かなアメリカ経済の現状に照らして考えれば早晩株価は元の水準まで回復するだろうし、株価下落が実体経済に波及して不況が到来するなんてことは―企業家たちが株価の下落に過剰反応して悲観的になり、生産(設備投資)計画の縮小・中止に乗り出さない限りは―ありえないことである。

フィッシャーにとって“暗黒の木曜日”が有するインパクトは一時的かつ株式市場にだけ限定されたもののはずであったが、1929年以降株価はなかなか回復傾向を示さずバラ色の未来に彩られているはずのアメリカ経済も時が経つにつれヨリ一層不況の色を濃くしていった。さすがのフィッシャーも現実の(自らの予想を裏切り続ける)展開の前にいつまでも楽観的でいることはできず、この現実を説明し得る全く新しい理論の必要性を感じはじめていた。

1932年、フィッシャーは“Booms and Depressions”という論文を書く(こちらで邦訳されたものが読めます)。眼前に広がる現実(後世において大不況(Great Depressionと呼ばれるようになる現実)を理解するためにフィッシャーなりの理論的な説明―現在ではデットデフレーション理論と呼ばれるもの(の萌芽)―を提示した論文である。以下フィッシャーのデットデフレ理論の簡単な説明。

ここにover-indebtednessの状態に置かれた経済主体が多数存在するとする。そこにバッドニュースが飛び込んできて(株価急落の知らせなど)債権者あるいは債務者(のどちらかあるいはどちらも)が悲観的になり不安感を抱くことによって(債権者は貸付が焦げ付くことを心配して、債務者は負担の軽いうちに債務返済を済ませてしまおうとはやるために)我先にと債務の清算に乗り出したとしよう。すると債務の清算はやがて投売りを引き起こし(購入時の株価以下であっても早めに売却しておいた方がより多くの現金(借金返済の原資)を獲得できる可能性が高いため)、(債権者としての銀行がローンの繰り延べをやめてしまう結果)預金通貨の減少が生じることになる。結果として株価と同時に通貨供給量の低下により物価も下落(自己保有の株式(資産)の売却によっては借金の返済がままならなくなった企業家が倒産を免れるために自分が生産している商品の投売りに乗り出すことよって、といってもよい)していくことになる。株価・物価の下落は負債の実質価値を上昇させて債務者を一層苦しい立場に置き、さらなる投売りそして破産・倒産が続出することになるだろう。また、コスト節約の努力を上回る物価の下落は利潤を圧縮し、over-indebtednessにはない企業にも打撃を与えることになる(破産・倒産件数が増えるにつれて債権者特に銀行は(経営状態に対する(預金者の)不信感からくる取り付けを回避するため)貸付に慎重な態度をとるようになり(貸し渋り)、over-indebtednessにはない企業も事業展開のための資金調達が困難となる可能性もある)。利潤の縮小(倒産も)は生産と雇用を縮小させ、世の中には悲観論や信頼感の喪失(債務者に対する、または銀行に対する不信・いつ解雇されるかわからないという不安・破産や倒産、失業による苦悩など)が蔓延するようになる。こんな時代に頼れるものは貨幣(現金)だけ。流動性選好(=貨幣の退蔵)の結果として貨幣の流通速度は低下し、物価下落はさらにその激しさを増すことになる(倒産や失業(の恐れ)による買い控えの結果ともいえる)。

In essence, the attempt by individuals and banks to reduce their debt touched off a perverse dynamic process that worsened their situation in real terms, dragging them towards financial collapse.

The very effort [...] to pay debt [...] resulted in increasing debts; and the more the
American people tried to get out of debt, the more they really got in, when the debts are measured in real commodities

Every man who hoards does it for his own protection; yet by hoarding he aggravates the very condition that started his fear

the effort by each agent to improve his own position led to a worsening of the overall situation

合成の誤謬の一種ですな~。ミクロ的に見て(個別的な観点からすると)負債の返済のためにできるだけ早いうちに資産の売却に乗り出すこと、あるいは不安を鎮めるために貨幣を退蔵することは(価格の下落を与件とすれば)合理的な反応であるかもしれないが、みんながみんな同じように行動する結果として(物価・資産価格の下落が進行するために)負債の返済は一層難しくなり(負債の実質的な負担が増すため)、不安の源泉たる倒産や失業の恐れから逃れることもかなわないこととなる。はてさてこのミクロとマクロのパラドックスからどうやって抜け出したものか。

フィッシャーによる解決策―デットデフレ理論に基づく処方箋―はというと・・・、そうリフレーション―金融緩和により物価を1929年以前の物価水準まで引き上げる―。デフレによる債務の実質的な負担の増加をリフレによって食いとどめ(あるいは物価上昇により生産者の利潤を確保し生産活動の活発化(→雇用の増加)を促せ)、投売り・倒産・失業(利潤低下による生産の低下も)の悪循環を断ち切ってしまえ、というわけである。

Fisher maintained that one of the causes of the collapse of the economy was the Federal Reserve’s abandonment of the stabilisation policy that had been pursued during the twenties by Benjamin Strong, the powerful governor of the New York Federal Reserve Bank, who died in 1928 (Fisher, 1934a10; see also Steindl, 1995, pp. 103-4 and Cargill, 1992). Once the crisis had started, the right way to get out of it was, in his view, “reflation”, in other words a monetary expansion to bring prices back up to their pre-1929 level. Monetary policy, according to Fisher, was extremely effective, while fiscal policy could at best play an “ancillary” role.

株価暴落直後に積極的な金融緩和に乗り出さなかったFRBの非は理解できる。しかし、実際に物価・資産価格がかなりの程度下落してしまっており、既に悲観主義が世の大勢となってしまっている時に金融緩和によって物価上昇を実現することは可能であろうか(=金融緩和の波及経路についての疑問)。貨幣供給を増やしたところでその貨幣はそのまま退蔵されてしまうだけで(あるいは銀行の預金準備が積み上がるだけで)モノや資産の購入には向かわない、それ故物価や資産価格が上昇することはないのではないか。フィッシャーもその点(人々の貨幣退蔵志向の強さ)については認識していた。

“Hoarding is a slowing of currency turnover of the extremest kind. [...] Housewives and their breadwinners then become distrustful of everything except money. Bills and coins are confided to stockings or mattresses, or are put underground, or (in a larger way) stored in safety deposit vaults. Credit deposits may be hoarded too. In such banks as are considered safe, large credit deposits will be kept, but kept idle” (1932a, p. 35). The following passage is also revealing: “To stop hoarding, to take the idle money out from under the mattress, to quicken the turnover of bank deposits are essential parts of the recovery program. We want to re-employ idle money; it will help toward re-employing idle men and idle machines; it will help reflate the price level...” (1933b, p. 5).

貨幣をidleからactiveにするためにはどうすればよいか。そうだスタンプ(ゲゼル)貨幣(あるいは銀行の準備預金に税金をかける)を導入すればよい。

In the second half of 1932, the bleakest period of the Depression, he became a supporter - as a first concrete measure aimed at counteracting the tendency to hoarding - of a plan for “stamp scrip” or “stamped money”

貨幣が退蔵されるのはその価値が保証されている(一定である)ためである(デフレ下ではその価値は高まる)。貨幣の価値が時間が経つにつれて低下する(あるいは貨幣保有にコストがかかる)のがわかっているならば貨幣を退蔵しようという誘因はもはや働かないだろう。一定期間ごとにお金(スタンプ押しに出かけるわずらわしさ、機会費用も含む)を払ってスタンプを押してもらわなければ通用しない貨幣(=スタンプ貨幣)を導入すれば、眠っている(退蔵されている)貨幣も動き出し(=モノや資産の購入に回る)物価や資産価格も上昇することだろう(フィッシャーとスタンプ貨幣の関わりについてはこちら(西部忠先生による地域通貨論)も参照。Pavanelli論文でも同じことが触れられてますが)。

スタンプ貨幣の発行はルーズベルト大統領によって禁止されました(理由は上記リンク先をご覧ください)。しかしここで注意すべきはスタンプ貨幣の導入なしにアメリカ経済を救うことはできない、とまではフィッシャーは主張してはいないということです。彼が言いたかったことはつまりはこういうことです。

As we have seen, an essential point in Fisher’s plan was that the increase in demand, while necessary, was inevitably only a first step. To get out of the depression, a substantial rise in prices was also necessary. This point was constantly emphasized by Fisher in his writings from these years:

“The government should have borrowed and spent, thus contributing to reflation and to a higher price level. And every climb in the price level would have lowered the real debts, public and private [...] This would have stimulated business” (1932a, p. 105)

or again:

“An increase of prices means, for the producer, an increase of profits or a wiping out of losses. That in turn means an increase of business activity and a decrease in unemployment. This rise of prices tends to save us from the two great evils of Depression -- bankruptcies and unemployment” (1932, p.10)

どんな手段を使ってでもリフレを実現せよ、ということですね。

他にもいくつか面白い論点(「国際学派」の知見の先取り・マネーサプライのコントロール可能性を高めるための預金準備改革(100%準備率)などなど)はありますが切りがありませんのでここらで終了。

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予測と理論の意外なつながり

Giovanni Pavanelli、“The Great Depression in Irving Fisher's Thought”(pdf)。

学界の賢人の中で最も著名で、また同時に最も惜しまれるのは、イェール大学のアーヴィング・フィッシャーであった。前に述べたように彼は当時の最も革新的な経済学者だったが、彼自身が市場に深くかかわり過ぎていた。彼もまた、人々が経験しつつある幸運に最も良く奉仕するものなら何でも信じるという基本的な投機的衝動に負けてしまった。1929年の秋、彼は「株価は永久的に高い高原状態と見てもよさそうな水準に達した」と述べた。この結論は広く報道され、この発言によって彼は永続的な名声を得た。(ガルブレイス『バブルの物語』、p111~112)

アーヴィング・フィッシャーについて語られるときに必ずといってよいほど持ち出されるエピソードは1929年10月29日の“暗黒の木曜日”である。29年当時の株価動向に対する“The refluent wave of trading has left prices of securities, and especially of common stocks, on a shelf where they will remain permanently higher than in past years”、“Stock prices are not too high and Wall Street will not experience anything in the nature of a crash”という楽観的なフィッシャーの見通しは結果的に大ハズレであり、“暗黒の木曜日”を境にフィッシャーは財産ともども(株に資産の大半を投資していた)学者としての社会的な信用を失うこととなる。学問とビジネスは別物である(あるいは一流の経済学者であってもビジネスで成功するとは限らない)ということを知らしめる格好の事例として言及されるのが通例でしょうか。

Giovanni Pavanelliの論文で興味深い点は、この外れた予測とデット・デフレーションの理論のあいだのつながり(接点)を捉えている点である。そもそもフィッシャーが株価水準に対して強気な見方を示したのは、「人々が経験しつつある幸運に最も良く奉仕するものなら何でも信じるという基本的な投機的衝動に負けてしまった」わけでは必ずしもなく、それなりの理論的根拠が存在していた。

Yet Fisher’s forecasts were neither naive nor totally unfounded. In brief, he held that share prices incorporated the present value of expected dividends; more generally,the stock market reflected expectations on companies’ future performance and that of the economy as a whole. In Fisher’s view, immediately after the First World War the industrialised countries, and the United States in particular, had experienced a great expansion in scientific and technological research and its systematic application to manufacturing. American industry had thus greatly increased its productivity and was able to develop and market new consumer goods (the automobile, the radio, the telephone).Furthermore, efficiency gains had been obtained thanks to better use of productive factors and the improved living conditions of the working class. There were,herefore, expectations of considerable increases in production and profits.

株価は(期待)配当流列の割引現在価値であり、将来の高い配当期待は現在の株価を上昇させることになる。第一次世界大戦後の科学技術の発展とその成果のビジネスへの応用が生産性の向上や新市場の開拓(新製品の開発)を推し進めた結果として、今後アメリカ経済(とアメリカ企業)は大きな収益(利潤)を獲得する機会に見舞われることだろう。expectations of considerable increases in production and profitsに基づく株価上昇はファンダメンタルズに基づいた株価上昇なのであり、それ故現在(1929年)の株価水準は正常で健康的なものといえる。

フィッシャーのデットデフレ理論は二つの要因の相互作用に基づいて議論を展開する。

he began to devise a new theory of “great depressions”, based on the interaction of two factors: i) an initial situation of over-indebtedness; ii) a dynamic process of price reduction.

over-indebtedness(過剰な負債を背負うこと)は経済主体の不合理な行動の結果では必ずしもなく、技術進歩や発明によって切り開かれた収益機会を前にした企業家(資金不足主体といってもよい)の合理的な反応の結果である(it could be explained as a rational response to the profit opportunities created by “technological improvements” and “inventions”)。

As noted, in the twenties the American economy was characterised by an investment boom, induced by the spread of technological innovations in manufacturing; this encouraged many firms to borrow heavily in expectations of higher profits. This process had also involved farming, stimulated by the sharply rising demand for food. Finally, the stock market boom had been accompanied and fueled by the growing indebtedness of financial operators. The Wall Street crash was the detonator, triggering the downward spiral predicted by debt deflation theory.

20年代のアメリカでは製造業部門における技術刷新により投資ブームが引き起こされ、高率の将来収益を当てにしてアメリカ企業の多くは多額の借り入れを行った。株式市場のブームを支えた投資家の多くもその資金を借金で賄っており、当時のアメリカ経済はover-indebtednessの性格を濃くしていた。

フィッシャーが29年当時の株価動向に楽観的であった理由は科学技術の発展により多くの将来収益がもたらされるであろうと予想したためであった。当時のアメリカ企業はthe spread of technological innovationsをビジネスに結びつけるために(そして将来のhigher profitsを期待して)積極的に研究開発・設備投資に乗り出し、そのための資金を多額の借り入れによって調達していた。29年当時のアメリカではデットデフレーションの初期条件ともいえるover-indebtednessという状況(要因)が現実のものとなっていたわけである。ここにおいて予測と理論がつながった。外れた予測の根拠となった現状認識(アメリカ経済が直面している高い期待収益(配当)率)は大不況を説明するための理論の前提条件(高い収益期待が大規模な(自己資金では賄いきれないほどの)設備投資を誘引し、各経済主体はover-indebtednessの状態におかれることになる)としてしぶとく生き長らえたわけである。

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我々は皆、ケインジアン=マネタリストである

J. Bradford DeLong、“The Monetarist Counterrevolution: An Attempt to Clarify Some Issues in the History of Economic Thought”。

Much of the history of macroeconomic thought is often taught as the rise and fall of alternative schools. Monetarists tend to write of the rise and fall of Keynesian economics--its rise during the Great Depression, and its fall in the 1970s under the pressure of stagflation and the theoretical critiques of Friedman, Phelps, Lucas, Sargent, and Barro. They tend to see this as the rise "interventionism" and then its decline and replacement by a more hands-off view that holds that monetary policy should be "neutral." Keynesians write of the rise and fall of monetarism--its rise during the monetarist counterrevolution, its fall as the instability of velocity and the money multiplier became clear, and its replacement by the modern "new Keynesian" paradigm.

ケインジアン/マネタリストの別にかかわらず、マクロ経済学の発展史を代替的な学派の栄枯盛衰の歴史として叙述する(=マネタリストであればケインジアンの隆盛と凋落に、ケインジアンであればマネタリストの隆盛と凋落に焦点を当てる)ことが一般的な慣わしとなっている。マネタリストに属する学者であれば、大不況(Great Depression)を契機としてマクロ経済学における支配的な立場を確立したケインジアンが1970年代に現実(=スタグフレーション)と理論の両面からの攻撃に晒され、あえなく没落していった姿を強調し、マクロ経済学の歴史を(ケインジアンの盛衰に歩を合わせるかたちでの)干渉(介入)主義的思考(=政府の市場に対する介入を容認する立場)の高まりと(マネタリスト反革命の結果としての)その衰退(加えてより自由主義的(市場志向的)な政策思考の登場)の歴史として描写する。一方ケインジアンに属する学者ならば、マクロ経済学の歴史をマネタリズムの盛衰の歴史として描写し-マネタリスト反革命の結果として経済学界にとどまらず一般社会においても確固たる地位を築いたかに見えるマネタリズムも貨幣の流通速度と貨幣乗数の不安定性が明らかになることで主流の座から滑り落ちてゆく(=“Political Monetarism”の敗北。こちらも参照していただければ)-、希望溢れる筆致でもってマクロ経済学の将来(=マネタリズムの没落に平行してのニューケインジアンの台頭(=主流派としてのニューケインジアン))を予期することになる。マネタリスト/ケインジアンともに、互いの考えは完全に相容れないものであり、他方の隆盛は一方の没落を結果することを当然のことと考えている。マネタリストとケインジアンが同意することなどあり得ない、というわけである。

ケインジアン(正確にはニューケインジアン)はマネタリストであり、同時にマネタリストはケインジアンである。DeLongはこう主張することで上記のマクロ経済学思想史の見方(=マネタリスト/ケインイジアンの相克の歴史)に異議を唱える。ケインジアンがマネタリストであるとは一体どういう意味か?

DeLongは(種々雑多な考えをその中に含む)ニューケインジアンが最低限共有するであろう5つのポイント(経済分析の態度)をあげる。

①雇用と生産の変動を理解するためには名目(nominal)所得と名目支出に対するショックが実質(real)支出の変化と物価水準の変化の間にどのように分解されるか(その過程)を見定めることが重要な鍵となる

②通常の経済状況では、景気安定化の手段(tool for stabilization)としては財政政策よりも金融政策のほうがヨリ有効である

③景気変動(GDPの変動)は長期的なトレンドを中心にその周りを変動(循環)するものとして(トレンド線に沿った動きとして)捉えることが適当である-潜在GDP水準以下の動きとして見るよりは-

④マクロ安定化政策を分析する態度としては、個々別々の政策対応を要する経済状況に密着してマクロ安定化政策の是々非々を論ずるのではなく、政策ルールが経済に与える影響(=政策ルールの持つ意味の解明)という観点からマクロ政策の是非を論ずることが望ましい

⑤マクロ安定化政策の限界を弁える必要がある(=マクロ政策は万能ではない);財政政策は効果が現れるまでに長い時間を要し、またその政策効果も小さい(=小さい乗数)という点、金融政策は時間的なラグと変数間のラグ(例えばマネーサプライと物価の関係が不安定になったり)の存在によりその政策効果が不確実であるという点に留意すべきである 

この5つのポイントは、実のところフリードマンがその昔主張していた論点と軌を一にしている。

The importance of analyzing policy in an explicit, stochastic context and the limits on stabilization policy that result comes from Friedman (1953a). The importance of thinking not just about what policy would be best in response to this particular shock but what policy rule would be best in general--and would be robust to economists' errors in understanding the structure of the economy and policy makers' errors in implementing policy--comes from Friedman (1960). The proposition that the most policy can aim for is stabilization rather than gap-closing was the principal message of Friedman (1968). We recognize the power of monetary policy as a result of the lines of research that developed from Friedman and Schwartz (1963) and Friedman and Meiselman (1963). And a large chunk of the way that New Keynesians think about aggregate supply saw its development in Friedman’s discussions in Friedman (1970) and Friedman (1971a).

マクロ政策を裁量的な政策手段としての観点からではなくルールとしての観点から捉え直すべきであるという考え、マクロ政策をGDPギャップを埋めるための手段としてではなく景気変動を均す安定化政策としてみなすべきであるという主張。フリードマン=シュワルツによる大恐慌研究により明らかになった金融政策のインパクトの強さ・・・。こうしてフリードマンの過去の議論(の一部)を振り返ってみれば、ニューケインジアンはフリードマンの(そしてClassic Monetarism)の直系の子孫であるといっても過言ではないのではないか。二者間の違いは一体どこにあるというのだろうか。フリードマンの思考を継承し発展させたニューケインジアン(=フリードマンという骨格にニューケインジアンが肉付けをしてゆく)という図式には何の違和感もない。ケインジアンは実は気付かぬところでマネタリストでもあったわけである。

Thus a look back at the intellectual battle lines between "Keynesians" and "monetarists" in the 1960s cannot help but be followed by the recognition that perhaps "new Keynesian" economics is misnamed. We may not all be Keynesians now, but the influence of "monetarism" on how we all think about macroeconomics today has been deep, pervasive, and subtle.

ではマネタリストはケインジアンであるという言辞は何を意味しているのだろうか。

マネタリズムはケインズ経済学への対抗上(ケインズ経済学との違いを際立たせるために)、マクロ経済学におけるレッセフェールの復興という使命・大義を背負って登場した。政府がなすべきことは金融政策を景気に対して“中立的”な状況に保つことだけであり、政府はむやみやたらと市場に口出しすべきではない。自由な市場競争の確保と中立的な金融政策運営の下においてでも(こそ?)マクロ経済の安定は実現可能なのである(ファインチューニング(=裁量的な政策運営)こそが景気変動の振幅を大きくし景気を不安定化させる一因となっているともいえる)。このように主張するマネタリズムと政府の経済介入に積極的な態度を示すケインジアンの間には大きな溝が存在する。ように見えるが・・・。

The critique of monetary policy during the Great Depression found in Friedman and Schwartz (1963) is precisely that the Federal Reserve did not do enough to stimulate the economy during the Great Depression. It injected reserves into the banking system, yes, but it did not inject enough reserves to counteract the decline in the money multiplier that took place between 1929 and 1933 that reduced the money stock and starved the economy of liquidity.

And what Friedman and Schwartz (1963) would call a "neutral" hands-off monetary policy during the Great Depression--one that kept the nominal money stock fixed--would have been condemned by pre-World War II over-investment theorists as extraordinarily interventionist. Indeed, it would have been. Between 1929 and 1933 the Federal Reserve raised the monetary base by 15% while the nominal money stock shrunk by a third. The position of Friedman and Schwartz (1963) is that the Federal Reserve should have injected reserves into the banking system much, much faster. Sometimes to be "in neutral" requires that you push the pedal through the floor.

比較の対象をケインジアン/マネタリストの二者間に限定するのではなく、もう少し視野を広く取ってみると、例えばpre-Keynesian business cycle theoryも比較対象に入れて考えてみるならば、ケインジアン/マネタリストの間の違いは些細なものに見えてくる。大恐慌期当時のFRBがとった金融政策に対するフリードマン=シュワルツによる批判-貨幣乗数の下落(銀行の破産が続発することで銀行制度への信認が減退し、大量の預金引き出しが生じた)を相殺するだけの十分なマネタリーベースを経済に注入することでマネーサプライの縮小を食い止めるべきであったにもかかわらず、実際には貨幣乗数の下落を相殺するに十分なだけのマネタリーベースが供給されることはなかった(マネタリーベースの供給量自体は以前よりも増加したけれども)-は、pre-Keynesian business cycle theoryからしてみればあまりにも介入主義的な発想であり、彼ら(=素朴な貨幣数量説論者・清算主義者)の目にはケインジアンとマネタリストの姿がダブって見えることだろう(pre-Keynesian business cycle theoryの観点からすると15%の伸び率でマネタリーベースの供給量を増加させる政策当局の行動でさえもが好ましからざるもの(=清算主義者)あるいは無駄である(=素朴な貨幣数量説論者)と考えており、更なるマネタリーベースの供給を要求するフリードマン=シュワルツの主張は彼らには行き過ぎた金融緩和であると見做されることであろう)。“中立的”な金融政策(マネーサプライの水準を維持すべき(であった)というフリードマン=シュワルツの主張は中立的な金融政策と言い得るであろう)は、時と場合によっては政府による積極的な経済介入を意味することがあるわけである(清算主義については後日別枠でエントリーする予定)。

They(=Monetarist;引用者) are Keynesians in the sense that they have the same profound and deep distrust in the laissez-faire market economy's ability to deliver macroeconomic stability. Moreover, they share the confidence John Maynard Keynes had that limited and strategic government interventions and policies could produce macroeconomic stability while still leaving enormous space for the operation of the market.

Keynes saw the market economy as having two great flaws: first, that demand for investment was extraordinarily and pointlessly volatile as business leaders and investors attempted the hopeless task of trying to pierce the veil of time and ignorance, and, second, that the fluctuations in the wage level that classical economic theory relied on to bring the economy back into balance after such an investment fluctuation either did not work at all or worked too slowly to be relevant for economic policy. (No, I am not going to be drawn into the debate about "unemployment disequilibrium.") But if these problems could be fixed, Keynes believed, then the standard market-oriented toolkit of economists was worthwhile and relevant once more.

And this is exactly Friedman's position. The tools used are a little different--rather than Keynes's focus on investment plus government spending, Friedman focuses on the banking system and the money stock. But in each case the vision is one of powerful and strategic but focused and limited government intervention and control of a narrow section of the economy, in the hope that the merits of laissez-faire can flourish in the rest of the economy.

自由な市場競争の余地を十分に確保した上で、市場に任せておいただけでは解決不能な問題(市場の失敗あるいは欠陥)-ケインズであれば民間の設備投資の不安定性や賃金の硬直性、フリードマンであれば貨幣乗数の不安定性を生む現行の銀行制度-には限定的で戦略的な政府介入によって対処する。マクロ経済の安定は市場と政府の相互補完的な協調関係によって実現可能となる。ケインズとフリードマンの間(加えてケインジアンとマネタリストの間)に通奏低音のように流れている共通の土台(経済の見方)-マネタリスト=レッセフェールの信奉者、という先入観(マネタリスト自身が積極的に流布したものかもしれないが)によって見えにくくなっている両者間のコンセンサス-である。マネタリスト=完全なレッセフェールの主導者では決してないのである(“中立的”という言葉に惑わされてはならない。加えてフリードマンの金融システム改革の提言や大恐慌期のFRB批判を思い起こす必要がある)。

フリードマンの影を引きずるニューケインジアン・・・。程度の差はあれ(ケインジアンに比べればヨリ消極的だろうが)政府の経済介入を容認するマネタリスト・・・-pre-Keynesian business cycle theoryの視点から眺めればマネタリストとケインジアンの類似性は一層際立つことになる-。マネタリスト的なケインジアンとケインジアン的なマネタリスト・・・。我々は皆、ケインジアンであると同時にマネタリストでもある、というわけだ。

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4つのマネタリズム

J. Bradford DeLong、“The Triumph of Monetarism?”。

同じくDeLongの手になる“The Monetarist Counterrevolution: An Attempt to Clarify Some Issues in the History of Economic Thought”(ニューケインジアン? ニュークラシカル(あるいはマネタリスト)? 戦前の素朴な貨幣数量説論者や清算主義者(Liquidationist)から見れば同類だよ、というような話)を読むため(というかこっちを先に読んだんだが)の下準備。学習帳らしい話題かと。

マネタリズムと一口に言っても、その立場から主張されていることは時代により人により微妙に違う。マネタリズムの歴史的変遷をたどってみると、その議論展開の特徴に基づいてマネタリズムを大まかに4つ(の時代)に分けることができるのではないか、とDeLongは語る。以下DeLongによるマネタリズムの4分類。

1.First Monetarism

代表的な論者はアーヴィング・フィッシャーや『貨幣改革論』以前のケインズ(「In the long run, we are all dead」というケインズの言葉はFirst Monetarismからの決別を象徴するものであった)、ロビンズ、シュンペーターなど。(ロビンズ、シュンペーターがFirst Monetarismの一員だったというよりは彼らの手によってFirst Monetarismがあたかも政策の無効性を主張する議論であるかのようにカリカチュアされた、とした方が適当ですね)。物価や利子率の決定因、景気変動を生み出す要因としてマネーストックに着目し、貨幣数量説を物価水準やインフレ率、利子率の数量的な分析や予測の道具として初めて明示的に利用したのはフィッシャーである。精緻な経済分析(analysis)は存在するものの全体として理論(theory)体系は未発達であった(フィッシャーのデットデフレ理論なんかもあるが)。特に後二者に見られる特徴であるが(素朴な貨幣数量説の信奉者―貨幣量が二倍になれば物価水準が二倍になるだけで実体経済には何の変化も生じない―も含まれるかもしれない)、不況からの脱却を目的とする財政金融政策の有効性に懐疑的な見方を示す(monetary and fiscal policies were bound to be ineffective--counterproductive in fact--in fighting recessions and depressions because they could not create true prosperity, but only a false prosperity that would contain the seeds of a still longer and deeper future depression.;“The Monetarist Counterrevolution~”において(清算主義者としてのシュンペーターについて論じている箇所で)詳細に取り上げられているが、総需要喚起策は実体経済に何の効果も及ぼさないと考えているわけではなく、むしろ効きすぎる結果として将来の経済発展(企業家によるイノベーション)を阻害するために総需要刺激策に否定的な見解を有する。「空景気」を無理やり生み出す総需要喚起策は根本的な処方箋ではない!!)。その結果、First Monetarismは政策無効を支持する議論として受け止められるに至る(フリードマンにすればこの見方はFirst Monetarismを“atrophied and rigid caricature”したものとなる。アービング・フィッシャーはこの意味でのFirst Monetaristではないということになりますかね)。

2.Old Chicago Monetarism

代表的な論者はViner, Simons, and Knight。いわゆるChicago School oral traditionのこと。(1)景気動向(好況/不況)や物価動向(インフレ/デフレ)が経済主体の貨幣保有のインセンティブに影響を与える(貨幣保有の機会費用が変化すると言い換えてもよい)結果として貨幣の流通速度は一定にはならず(=変化しやすい)、(2)預金準備率や現金・預金比率は変化しやすく(整備された預金保険制度を伴わない準備預金制度下においては、預金返済の確実性の程度が劣るためにちょっとしたきっかけで預金保有者による取り付け騒ぎが引き起こされる可能性が高く、取り付けを恐れる銀行の行動は預金準備率を、預金の安全性に疑念を持つ預金保有者の現金選好は現金・預金比率を大きく変動させることになる)、そのため貨幣乗数の値も予測困難なものとなるためにマネーサプライを思うままにコントロールすることは難しい、との認識を有する。(Old Chicago Monetarism (a) did not believe that the velocity of money was stable, and (b) did not believe that control of the money supply was straightforward and easy.)。また、大不況(Great Depression)期にはデフレ(あるいは不況)を放置する政策当局を批判し、積極的な金融緩和や財政赤字の拡大も辞さない大幅な政府支出増により不況がもたらす痛みを緩和すべきと政策当局に訴えた実績があり(この点についてはR.E.パーカー著『大恐慌を見た経済学者11人はどう生きたか』でフリードマンが触れていたと記憶)、この点は(atrophied and rigid caricatureされた)First Monetarismとの大きな違い(Old Chicago Manetaristは財政金融政策は不況対策として有効であり、また実施すべきであると考えていたため)と言える(先に挙げた二つの特徴((1)と(2))は素朴な貨幣数量説への疑問を呈しているわけで、この点も違いと言えるかもしれない)。

(おまけ)パティンキンやハリー・ジョンソンによればChicago School oral traditionなんてものは存在しない、フリードマンの創作に過ぎないということになる(In Patinkin and Johnson's view, Old Chicago Monetarism was a retrospective construction by Milton Friedman (1956). In their view, Friedman used "Keynesian" tools and insights to provide a retrospective post-hoc theoretical justification for policy recommendations that had little explicit theoretical base at the time, and to construct for himself some intellectual antecedents.)。手元にあるジョンソン著『ケインジアン-マネタリスト論争』にはこう書いてある。

・・・一つの伝説を作り出すことでした。すなわち、ケインズ派独裁の暗黒時代に少数の先駆者のグループが存在し、貨幣数量説が根本的事実を伝えるものとしてシカゴ大学における口伝えの奥義として守ってきたというものです。・・・シカゴ学派は、次のような伝説を作り上げました。すなわち、ミッドウェイ(シカゴ市内にあるシカゴ大学の所在地)にある秘密の神社には孤高の光が燃え、光を求めた信者たちをよび集め、おびやかされることなく真実が大衆に明示される日が来るのを待つようにはげましつづけた。そしてそこでともされたローソクは、その光が遠く広くひろがり、古い宗教からの改宗者をひきつけるチャンスが到来したときにわざわざ作られたものでした。結局、この伝説は根拠がなく後から作られたものにすぎませんでした。(p168~170)

3.Classic Monetarism

代表的な論者はFriedman、Brunner、Meltzer、 Cagan・・・etc。多くの(現在においても)有益な研究成果―ハイパーインフレ下では貨幣需要関数は極めて安定的なものとなる、マクロ政策の限界-ラグや政策効果の不確実性-についての認識、ルール型政策の重要性(←ファインチューニングの弊害(=政策実施のタイミングの誤りやら経済の現状分析の誤りやら)を避けるための手段としてのルール)、フリードマン=シュワルツによる大恐慌研究などなど―を生み出しており、ニューケインジアン陣営においてもClassic Monetarismの研究結果は重宝されている(あるいは確かなものとして受容されている)。本来のマネタリズムと言うべきか。

Classic Monetarismには、(Ⅰ)Old Chicago Monetarismによって把握されていたマクロ経済の不安定性を生み出す根源-変化する貨幣の流通速度/不安定な貨幣乗数-の除去を目指して貨幣・金融制度の改革を提言する動きと、(Ⅱ)リバタリアン的な政治思想へと合流する動き、が複雑に絡み合っていた。(Ⅰ)は民間の銀行に100%の預金準備率を課すことにより貨幣乗数を安定的なものにしよう(そしてマネーサプライの制御可能性(controllability)を高めよう)との試み(預金準備率が100%であれば民間部門による預金準備率の操作の余地はなくなり、また預金保有者も自分の預金が完全に保全されるため現金・預金間の資産選択が一時の動揺(=風評)により左右されることはなくなる=現金・預金比率の安定化)や名目貨幣成長率を一定に保つ(=k%ルールってやつです)ことでインフレやデフレによって貨幣ストック成長率が変動することを防ぎ(=受動的金融政策からの離脱)、もって貨幣乗数を安定化させよう(そしてマクロ経済の変動を安定化させよう)との提言を生む。(Ⅱ)はk%ルールを選挙時における過度の金融緩和(=政治的景気循環)の可能性を絶ち(あるいは特定の政党ないし利益集団を益するために金融政策が利用されることを防ぎ)、中央銀行の裁量の幅を狭める手段として、つまりは政府の権力を縮小させる手段として看做すことにより、政治思想的な観点からのk%ルールの正当化根拠となった(The monetarist policy recommendations of a stable growth rate for nominal money and a constrained, automatic central bank were then seen as having an added bonus: they were tools to advance the libertarian goal of the shrinkage of the state.)。

Classic Monetarismはフリードマンとフェルプスによる予測-短期的なフィリップス曲線の妥当性への疑問(これまでの安定した(失業率-インフレ率間の)関係の崩壊を予想)-が現実のものとなったこともあって(誰かさんの予想とは違って見事に当たったわけです。誰かさんの予想には理論的根拠なんてものはありませんでしたけどフリードマンらは自然失業率仮説というしっかりとした裏づけを備えておりました)、1970年代の経済学界において最も大きな影響力を持つことになる。

4.Political Monetarism

1970~80年代のアメリカ社会で実際に大きな影響力を有したマネタリズム。世俗化されたマネタリズムとでも表現すべきか。Political Monetarismは条件をつけることなく貨幣の流通速度は安定していると断言し(Old Chicago/Classic Monetarismによる観察はまったく無視されている)、貨幣制度の改革がなくともマネーサプライが完全にコントロールできるかのように語る(フリードマンが貨幣制度改革の必要性をあれほど強く訴えた理由も無視されるわけです)。貨幣の流通速度が安定しており、中央銀行がマネーサプライを完全に管理できるなら将来の物価動向や名目GDP水準に関する予測は非常に容易なことになります。マネーサプライだけを見てれば大丈夫ですから。不況やインフレ率の過度の変動をもたらす元凶も唯一つ。適切なマネーサプライ成長率の維持に失敗した中央銀行(経済の良し悪しは中央銀行によるマネーサプライ成長率(=中央銀行が自由にその値を決めることができます)だけによって決定されるわけです)(Everything that went wrong in the macroeconomy had a single, simple cause: the central bank had failed to make the money supply grow at the appropriate rate.)。単純明快ですな~(Money mattersをもじればOnly money mattersということになりますか。 any policy that does not affect "the quantity of money and its rate of growth" simply cannot "have a significant impact on the economy.")。

そのわかり易さも手伝って(スタグフレーションという事態を説明できずにいたオールドケインジアンの失態もあって)、マネタリズムの教義は経済学の世界のみならず一般大衆の中にまで広く受容されるようになった。政策の場においてもFRBのヴォルカー議長の主導によって金融政策の操作変数(あるいは中間目標)が金利からマネタリーベース(マネーサプライ)という量的な指標へと変更されることになる(=新金融調節方式(79年10月;非借入準備残高が操作変数に 82年10月;連銀貸出残高が操作変数に))。The Triumph of Monetarismは誰の目にも明らかだった。

マネタリズムにとって不幸であったことは、Political Monetarismがマネタリズム一般と同一視されたことである。というのも、1980、90年代には貨幣の流通速度が大きく変動し、マネーサプライのコントロールが予想以上に困難である(=マネタリーベースとマネーサプライの関係が不安定である)ことが判明したからである。一般大衆から“Monetarism”として認知されていたPolitical Monetarismの主張が現実と大きく食い違うことにより、Political Monetarismだけではなく“Monetarism”までもがその信用を大きく傷つけられることになってしまう。わかりやすさあるいは国民各層からの支持獲得を追求した代価として失ったものはあまりにも大きかった・・・(1980年代に貨幣の流通速度は不安定な動きを示したが、Old Chicago/Classic Monetaristならばインフレ率の急速な下落が資産保有の機会費用に大きな影響を及ぼすことにより貨幣の流通速度が不安定になることを予測しえたであろうに・・・)。

These(特にClassic Monetarismが有する;引用者)insights survive, albeit under a different name than "Monetarism." Perhaps the extent to which they are simply part of the air that modern macroeconomists today believe is a good index of their intellectual hegemony.

Political Monetarismの失墜とともにマネタリズムの名も人々の記憶から忘れ去られることになる。マネタリズムの歴史的使命は終わった・・・。

という悲しい結末ではなくて、マネタリズムの伝統は現在のマクロ経済学の基底に脈々と息づいているのであり、死に絶えたわけでは決してない。マネタリズムの名を目にする機会が減ったのはその存在が忘れられたためではなく、当たり前のこと過ぎて(空気のような存在と化したために)見えにくくなったため(浸透しすぎてその存在が確かめにくくなったから)である。マネタリズムの、あるいはClassic Monetarismの(もっと限定してフリードマンの、といってもよい)生命はニュークラシカルにとどまらずニューケインジアンの中にもしっかりと根付いている。というのが冒頭にあげたDeLongのもう一つの記事“The Monetarist Counterrevolution~”の主題の一つ。

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強迫観念としての大不況

J. Bradford DeLong,“The Shadow of the Great Depression and the Inflation of the 1970s”。

1970年代にアメリカ経済を苦しめた加速するインフレ(高率のインフレ率の持続)の背後に1930年代の大不況(the Great Depression)の影(政策決定の場において一つの桎梏と化した記憶)を垣間見ることができる。物価安定よりも失業率の抑制(“完全雇用”)を優先する政策決定者の態度―ニクソン大統領は失業率を高める恐れがあるインフレの抑制には否定的であり("control inflation without a rise of unemployment";アイゼンハワー前大統領は反対にインフレの加速を許しかねない(過度の)景気刺激策には否定的であり、ニクソンは1960年の自らの大統領選での敗北の責任を彼のそのような(インフレ抑制を容認した)態度に求めている(八つ当たりです))、アーサー・バーンズFRB議長はインフレ期待の持続が構造化された(とバーンズが考える)戦後世界において政策的にインフレ率を操作することはできないと考えた(あるいは懐疑的な態度を示した)―が中央銀行に対する信認(credibility)―物価の番人としての中央銀行に対する信頼―をそぐかたちとなり(物価安定へのコミットに失敗したわけです)、その結果(民間経済主体が高率のインフレ期待を抱くことになってしまったがために)インフレ率は高い水準に止まり続けることになったからである。

DeLongは1970年代にインフレの加速をもたらした原因(の候補)を3つ挙げている。

1.until the 1980s no influential policymakers-until Paul Volcker became Chairman of the Federal Reserve-placed a sufficiently high priority on stopping inflation(インフレの抑制に高いプライオリティをおく政策決定者が存在していなかった―1980年代になってポール・ヴォルカーがFRB議長となるまでは―)

2.bad cards coupled with bad luck made inflation in the 1970s worse than anyone expected it might be(1に不運(石油ショック等特定商品の急激な値上がりを引き起こした防ぎようのないサプライショック)が重なったため)

3.the shadow cast by the Great Depression(大不況の記憶が政策決定に歪みをもたらしたため)

2はおいといて(DeLongは、ある特定商品の急激な値上がりが消費者物価自体をも上昇させることを必然と考えるのは相対価格と絶対価格を混同したものである、というフリードマンの議論(中国デフレ説を否定する議論として持ち出されるアレです)などをあげて1970年代の長期にわたってインフレの加速を招いた要因としてはサプライショックの影響はそれほど大きなものではないとしている)、1の背後には3が控えている。つまりは大不況の記憶によって政策決定者がインフレの抑制をそれほど重要視しなくなった(失業者の救済(失業率を低く抑える)のためにはインフレの招来も辞さなくなった(追記)ちょっと不正確。失業率を低下させることに躍起となったばかりにインフレ抑制に対する注意(関心)が弱まった。くらいの感じが適当か)のであり、根本的な原因は3であるということになる。

Why did the political consensus to reduce inflation not exist until the end of the 1970s? And why did makers of economic policy during the 1960s watch with little concern as inflation crept upward, and as expectations of rising rates of price inflation became embedded in labor contracts and firm operating procedures?

The source of these attitudes and frames of mind is, in a strong sense, the most profound cause of the inflation of the 1970s. And that source is the shadow cast by the Great Depression.

4人に1人が失業するという事態(遊休設備がそこら中にあふれかえっている事態)を迎えるや、経済は趨勢的な成長線(潜在GDP成長率)の周りを変動するものだという考え(経済は、不況→好況→不況→好況・・・と趨勢的な成長線に沿って(何もしなくとも)サイクルを描く)はもはや受け入れられるものではなくなり、経済はいつまでも(政策的な処置に乗りださなければ)潜在GDP以下の水準に居座り続けることがあると当然視されるようになった。デフレギャップを埋めることが財政金融政策の役割であり、可能な限り失業率を低く抑え資源の有効活用を実現せねばならない。

不況を前にしては座して待つべきではなく、総需要喚起策によって積極的にデフレギャップの縮小に取り組むべきではある。が、果たしてデフレギャップの水準はどれほどのものなのか。実現可能な最小の失業率水準は何パーセントなのか。大不況という悪夢から逃れるためにはそんな問いにかかずらっている暇はない。失業率を低めること。限りなく0%に近い失業率(この場合は4%以下の失業率)を実現すること。失業者の救済という正義を実現するためには(または大不況という不幸を二度と繰り返さないためにも)景気を刺激し続けねばならず、そうすることによって(コストもかけずに)失業率は下がり続けていくことだろう。悪夢から覚めるためには楽観的になる(失業率が低下していっても(4%以下になっても)インフレ率はそれほど上昇しないはずだ←デフレギャップを過大に推計しているとも言える)しかない(Neither economic theory nor economic history gave guidance, so there was a strong tendency to rely on hope and optimism.;人間は自信のない時、希望的観測や楽観的な予測に基づいて行動するものだ)。

Only after the experiences of the 1970s were policymakers persuaded that the minimum sustainable rate of unemployment attainable by macroeconomic policy was relatively high, and that the costs-at least the political costs-of even moderately high one-digit inflation were high as well.

Only after the experiences of the 1970s were policymakers persuaded that the flaws and frictions in American labor markets made it unwise to try to use stimulative macroeconomic policies to push the unemployment rate down to a very low level and to hold it there.

現実に平手打ちされて正気に戻る。フリーランチは存在しない。失業率を限界以上に(自然失業率以下にといってもよい)低めようとすればインフレの加速を伴う。政策によって実現可能な最小の失業率は予想以上に高いものであり(自然失業率は想定していたよりも高い)、インフレ(1桁台のインフレ率でさえも)のコスト(庶民?からの反発など)は思った以上に大きい。(追記)自然失業率の水準自体を引き下げようとするならば、財政金融政策ではなく労働市場の構造改革によらねばならない(政策の割り当てに留意する必要(総需要喚起策の限界を知る必要)がある)。1970年代にインフレの加速という代価を払うことによってアメリカの政策決定者らが気づかされたことである。

大不況の経験が強迫観念となって失業率の抑制が至上命題至上課題となる。現実に大きな犠牲を蒙ることによってしか誤った観念(行き過ぎた考え)の間違いに気づくことはできない。観念なるものの厄介さ(加えて中庸を得ることの難しさ)を改めて思い知らされるものです。しかしながら、DeLongの次の言葉には素直には納得できませんな。

Thus there is a strong sense that something like the inflation of the 1970s was nearly inevitable. Had macroeconomic policy been less stimulative in the 1960s, and had inflation been lower at the end of that decade, there still would have been calls for increasing efforts to reduce unemployment in the 1970s.

もし1960年代のマクロ政策が現実よりも景気刺激的でなかったとしても(1960年代の終わりにおけるインフレ率がヨリ低かったとしても)同じような1970年代を迎えたことだろう。失業率の引き下げを要求する声は鳴り止まず限度を超えた総需要喚起策が採られたに違いない。我々が体験した1970年代は不可避的なものなのである・・・。説得によって観念の誤りをただすことはできない(現実に痛い目見ないと間違いに気づかない)、といってるも同然のような気が・・・(追記;観念の呪縛から逃れることはなかなかに難しいものだということならば納得)。う~ん。

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修復作業入ります

旧ブログ消滅。・・・ということで、これより修復作業に着手いたします(ついでにテンプレートも元に戻しとこう)。「また逢う日」がやってきたわけでは決してございませんので、その点早とちりなさらぬようお気をつけ下さいませm()m。

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2006年4月10日 (月)

Hicks新刊

今回はマジネタ。

John Cunningham Wood (ed.)、“Sir John Hicks: Critical Assessments. 2nd Series. 2 vols.(Critical Assessments of Contemporary Economists)

所収論文等ヨリ詳細な内容についてはこちらをご覧あれ。

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2006年4月 3日 (月)

マンキュー参入

マンキュー(Gregory Mankiw)がブログに参入。

Greg Mankiw's Blog                    http://gregmankiw.blogspot.com/

密かにデビッド・フリードマン(David Friedman)も。

Ideas                                                       http://daviddfriedman.blogspot.com/

大物が続々とブログに参入です。誠に喜ばしい展開であります(新エントリーでは両者ともに移民問題を取り上げてますね)。

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2006年4月 2日 (日)

パティンキンとヒックス

The Patinkin-Hicks Correspondence, 1957-58 http://scriptorium.lib.duke.edu/economists/patinkin/

Don Patinkin著『Money, Interest, and Prices: An Integration of Monetary and Value Theory』を巡って新古典派総合(`neoclassical synthesis')の立役者であるパティンキン/ヒックスの間で1957年から1958年にかけてやりとりされた計5通の手紙。ヒックスの批判(“A Rehabilitation of Classical Economics?(1957)”)―パティンキンの議論(デフレーションの進展によって実質貨幣量が増大する結果、経済は長期的には完全雇用均衡に回帰する=非自発的失業は短期的な現象に過ぎない)はケインズの議論(非自発的失業は長期的にも解消されない)を否定し、新古典派の復権を唱えるものでしかない―に対するパティンキンの返答(“Keynesian Economics Rehabilitated(1959)”)には既に本(『Money~』)の中で述べられている以上のことは含まれていないように見受けられるのに、どうしたわけかヒックスはそれ以降批判を引っ込めてしまった。どうやらヒックスはパティンキンの返答に説得されたようである。しかしながら、どうも釈然としない。なぜヒックスはパティンキンの(説得的とは思われない)返答に対して再批判を寄せなかったのか?

その疑問に答える(モヤモヤを晴らす)のがこの5通の手紙=パティンキン-ヒックスの文通の記録、ということです。ヒックスの字見たの初めてかもしれないな~。一枚目の手紙は最初の“Your letter”までは解読?できました・・・。タイプし直してくれた人、どうもありがとうm()m。時間見つけてじっくりと吟味したいところですね。

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